ゼロ戦パイロット最後の証言
食事から防寒まで、これが知られざる日常生活だ

ゼロ戦



 帝国海軍の主力戦闘機「零式艦上戦闘機」、通称「零戦」が最初に配備されたのは、中国・漢口(現・武漢)の海軍第12航空隊でした。初陣は昭和15年(1940)9月13日。重慶を攻撃する海軍の陸上攻撃隊を援護するため、13機の零戦がともに飛び立ったのです。

 このときゼロ戦は、近づいてきた中国の戦闘機27機を全滅させました。日本側は4機が被弾したものの、死者はゼロ。この圧倒的な戦果に、嶋田繁太郎艦隊司令長官は航空隊とメーカーの三菱重工に感謝状を授与しています。

ゼロ戦パイロット
零戦の初陣を飾った兵士たち

海軍から三菱重工業に贈られた感謝状
海軍から三菱重工業に贈られた感謝状


 かつて本サイトの管理人は、元ゼロ戦パイロットに話を聞いたことがありますが、零戦の運動性能については、みなさん絶賛していました。

「零戦は当時の戦闘機の最高傑作じゃないかな。空戦になったら、アメリカのP-38には絶対に負けないくらい性能がよかった。小回りがきくし、大回りだって簡単だし、思ったとおりに動かせた。敵機に追われたときも、垂直旋回して逆に撃墜するなんてこともできた」
 といった感じです。

雷電
これが迎撃用の雷電

 
 当時、多くの部隊では、甲戦(攻撃・制空)用の零戦と、乙戦(迎撃・防空)用の雷電が配備されていました。雷電はスピードは出るかわりに失速しやすく、操縦しにくかったといいます。その雷電と比べると、零戦はとても操縦がラクでした。

 それは、海軍の指令で機体がきわめて軽く作られていたからです。航続距離も長く、最高速度は時速500kmを超えており、旋回性能も抜群なので、空戦では圧倒的な強さを発揮したのです。

 特に大戦果をあげたのは、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃でした。

零戦
真珠湾を目指し、空母を飛び立つ零戦

発進準備中の零戦21型
空母「翔鶴」から発進準備中の零戦21型


 では、零戦パイロットはどのような生活を送っていたのか?

 飛行予科練から海軍航空隊に入隊したある兵士は、昭和17年にラバウル(現・パプアニューギニア)に投入されました。大戦初期、ラバウルは日本軍が圧倒的な強さを誇っていました。
 このパイロットによれば、

「待遇はよかったですよ。天幕か、簡単なバラックのような幕舎を建てて住んでいましたが、海軍は個人蚊帳でハンモックでしたから。毎朝、搭乗割を見て、搭乗がないときは、邀撃(ようげき、迎撃のこと)か、待機になる。待機のときは、もう幕舎でふんどし一丁で寝てますよ。幕舎にいれば、どんな格好してても構いませんからね。風呂は毎日は入れなくても、周りは海ですからね、別に不自由はありませんでした」

ゼロ戦
居並ぶゼロ戦


 意外なことに、食べ物は非常に恵まれていました。

「食べ物は、そりゃ旨いものを食べていました。新宿中村屋のようかんに、サイダーやカルピスなんかも飲んで。蝋で封してある細長いようかんを、下からグッと押し出してかぶりつくんです。旨かったなあ。パイロットは特別だったんですよ。空戦に行くときなんか、必ず巻き寿司とサイダーを持たせてくれてね。計器盤の横に巻き寿司の包みを置いて、移動時間なんかに、片手で操縦しながらパクつくんです。サイダーは下にいるうちに栓だけ抜いておくんですよ。そうしないと、高度の高いところで、パーンと全部出ちゃうから(笑)」

 ときには、魚獲りもしました。

「攻撃から早く帰ってきた日なんかは、海にダイナマイトを放り込んで、浮いた魚を獲ったりしました。川の浮き草をとって、ほうれん草だ、なんて言って茹でて食べたり。たまには現地の人が豚を持ってきて、米と交換したりもしてました」

 食べ物には苦労しなかったものの、困ったのは蚊とハエの多さです。ご飯は少し目を離すとハエで真っ黒になりました。いくら払っても逃げないので、やむなくハエごと米を食べる有様でした。

 一方、内地では、主食は米より麦のほうが多かったのですが、実はこの麦がくせ者でした。麦飯はお腹にガスがたまるため、零戦で高高度にあがるとガスがたまってお腹が痛くなるからです。そのため、多くのパイロットが食事係に麦を減らすよう頼んだといいます。

ゼロ戦の操縦席
ゼロ戦の操縦席(21型)


 では飛行中のトイレはどうするのか。

「オシッコの袋は、油紙でできてました。操縦桿を片手で持ったまま袋に用を足して、上をギュッとねじって。窓を開けるとゴーッと風が入ってくるから、後ろに向かってポイッと投げ捨てれば、パーッと飛んでいく。これは捨て方がまずいと、全部自分の顔にかぶっちゃうんですよ(笑)。ただ大きいほうは、服の中でするしかないんだよ。基地に戻ってから、すぐトイレに行って着替えるしかない」

 もらした汚物は、帰還すると、下っ端がキレイに掃除してくれました。ここでもパイロットは特別扱いだったのです。


 零戦は1万1000mくらいまで上昇できましたが、高度8000mまで行くと零下30度にもなりました。
「でも、エンジンから暖気する仕組みも一応あったし、真綿のベストに落下傘バンドもつけてるし、絹のマフラーをグルグル巻きにしたり、たくさん着こんでるしね。何よりも寒いとか言ってる場合じゃなかったから、辛いとは思わなかったね」


 中国戦線や真珠湾攻撃で圧倒的な優位に立っていた日本軍は、昭和17年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失って以降、徐々に押され気味になっていきました。

 すでに零戦より速い飛行機が次々に登場しており、たとえばゼロ戦でB-29を攻撃すると、スピードが遅いので後ろや上からは攻撃できない状態でした。それは追尾や上昇している間に敵機が先に進んでしまうからです。結局、前に出て正面から攻撃するしかないんですが、それはリスクが高く、まさに標的になることを意味しました。

住友金属の広告
機体のジュラルミンとプロペラを作っていた住友金属の広告


 零戦は、機体を軽くするため、機体の桁にも穴を開け、素材はジュラルミンを使っていました。当初はこの軽さが有利だったのですが、次第にこれが弱点に変わっていきました。雷電には申し訳程度の5cmくらいの防弾ガラスがあったものの、零戦は防護に関しては何もなし。燃料タンクは一瞬にして炎上することで有名でした。

 こうして、ラバウルでは次々と搭乗員が命を散らしていきました。

 歌にも歌われた「ラバウル海軍航空隊」の主力部隊・第204海軍航空隊の宮野善治郎飛行隊長は、歴戦の勇者として語り継がれています。この宮野分隊長の最後の姿はこんな感じです。

「全員整列していざ出撃だというときに、ナイフで指をケガしたのを見つかっちゃったんですよ。お前、それはどうしたんだって聞かれて。大丈夫です、行けますって言ったんだけど、ダメだ、高度7000mも上がったら血を吹くぞと言われて。結局、代わりのヤツが行ったんです。そしたらね、宮野大尉は戻ってこなかったんです。無理してでも行けばよかったと心残りで、もう何とも言えなくて……」

ゼロ戦
航空自衛隊浜松基地浜松広報館のゼロ戦

 
 昭和19年以降、アメリカの攻撃は熾烈になり、海軍はラバウルだけで8000もの航空機を失いました。やがて経験のある搭乗員が足りなくなり、特攻という最終手段がとられるようになりました。

 東大より難しいと言われた海軍兵学校を出て、西宮で神戸防御の任に就いていたエリートパイロットによれば、 
「特攻に関しては同期でも桜花隊や回天隊に入った人がいます。志願が半分、上からの命令が半分だったんじゃないかな。たまたまうちの司令と飛行長が特攻に批判的だったので、われわれは特攻に行きませんでした。最後は零戦まで特攻に使われましたからね。海軍兵学校70期の関行男大尉が、昭和19年10月にフィリピンで零戦の特攻1号として突っ込みました」
 
 昭和20年に入ると、戦況の悪化は日本でも感じられるようになりました。
「正月から偵察機はくる、艦載機がくる、小型機がくるわで大変でした。昭和20年6月に神戸がほとんど丸焼けにされた大空襲があったんですが、向こうはB-29の何十機という大編隊なのに、われわれ迎え撃つほうは10機か15機しかありませんでした」

 こうして、日本各地が空襲で灰燼と化していったのです。



日本全国「ゼロ戦」巡礼

制作:2011年10月24日


<おまけ>
 史上最高の名機である零戦は、いったいどうやって作られたのか?
 のちにゼロ戦となる「十二試艦上戦闘機」の開発が海軍から打診されたのは、昭和12年(1937)のことでした。設計を担当した三菱重工の堀越二郎によれば、海軍が要求してきた性能はあまりにも高いものでした。
 昭和12年10月5日に海軍が交付した「計画要求書」を要約すると、次のような13項目になります(『零戦 日本海軍航空小史』による)。

1・掩護戦闘機として敵の軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、遊撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉・撃滅できること
2・高度4000mで時速500km以上の最大速度
3・高度3000mまで3分30秒以内の上昇速度
4・高度3000mで1.2〜1.5時間、巡航速度(時速300km台)で6時間以上の航続時間
5・秒速12mの向かい風で70m以内の離陸滑走距離
6・時速107km以下の着陸速度
7・秒速3.5〜4mの滑走降下率
8・九六式艦上戦闘機に劣らない空戦性能
9・7.7mm、20mm機銃を各2挺装備
10・60kmまたは30km爆弾を各2発搭載
11・無線機、クルシー式帰投方位測定器を各1組搭載
12・酸素吸入装置、消火装置、夜間照明装置、一般計器類などの儀装
13・引き起こしや急降下のときの高い機体強度


 これはすべての性能で旧式の九六式を超えろといっているわけで、開発者たちはいきなり困難に直面しました。
 
 結局、開発陣は

●中島飛行機が開発した「栄エンジン」の採用

栄エンジン
栄エンジン(国立科学博物館)

●住友金属がアメリカから製造権を買った「恒速プロペラ」(戦闘機の頻繁な速度変化でも常に回転数が一定になる可変ピッチプロペラ)を日本で初めて採用
●住友金属が開発した世界初の「超々ジュラルミンESDT」の採用
●旋回性能と離着陸性能を高めるため、翼面荷重を低くする(この結果、急降下性能が犠牲となった)
●世界初の「落下型増槽」(燃料タンク)の採用

ゼロ戦の落下型燃料タンク
機体の下にあるのが落下型燃料タンク

 などの工夫で要求を満たしました。
 なお、海軍の要求に対し、設計者の堀越二郎は次のように語っています。
「燃料タンクおよび操縦者の防弾の要求はなかった。これは一騎打ち的戦法を重視したため、防弾による重量増大を嫌ったからだろう。そもそも日華事変では我が軍が非常に優勢だったため、その必要を感じなかったのかもしれない」

 そして、日本では、終戦までまともな防弾仕様が採用されることはありませんでした。
     
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