ナヒモフ号の財宝
驚異の画像ワールドへようこそ!
7兆円の財宝を引き揚げろ!
バルチック艦隊「ナヒモフ号」に眠る金貨とコイン
出征司令官を激励するロシア皇帝ニコライ2世
1891年(明治24年)5月9日、ロシアの皇太子ニコライ(後のニコライ2世)を乗せた軍艦が神戸港に入港し、大歓迎を受けました。
その後、ニコライは滋賀県大津町で警察官に斬りつけられ、大きな国際問題(
大津事件
)となるのですが、それはさておき、このとき御召し艦「パーミャチ・アゾーヴァ」に随伴したのは、「ナヒモフ」と「モノマフ」という軍艦でした。
改修前の「アドミラル・ナヒモフ」号(ウィキペディアより)
明治19年には「モノマフ」が、明治28年には「ナヒモフ」が漂流した日本人漁民を救助するなど、両艦とも日本と関係のある軍艦ですが、いずれも日露戦争で撃沈されることになります。
1905年5月27日から28日にかけて、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が激突した日本海海戦。両艦を捕捉したのは「佐渡丸」でした。
佐渡丸艦長・釜屋忠道の報告が残されています。
《佐渡丸のナヒモフに近づくや、其(そ)の乗員は恰(あたか)も鰌(どじょう)桶をひっくりかえしたようにばちゃばちゃと甲板上より海面に飛び込み、四方に散乱して、山羊の如き叫喚の声を発していました。之(これ)は『助けてくれ』と叫んで居るのだそうです。
其の中多数のものは数隻の端舟に集まり、ボートフックやオールの頭へ白きハンケチや其の他の白布を結(び)付けていました。佐渡丸は約400米(メートル)の距離に停止し、捕獲員(海軍大尉犬塚助次郎指揮)を派遣し、一方端舟を下して溺者救助をやりました。彼(か)れ自身の端舟にて佐渡丸に来れるものも多数ありました》(『戦袍余薫懐旧録』第2輯)
ナヒモフの艦長と航海長は退艦を拒否し、船とともに沈没しますが、漁船に救出されました。モノマフの艦長は佐渡丸が捕虜としました。このとき、ナヒモフ号からは99人(軍令部の『日本海大海戦史』では101人)が、モノマフ号からは143人のロシア兵が対馬に漂着、救助されました。
改修後のナヒモフ号(1903年、ウィキペディアより)
対馬の郷土史家・内野対琴が残した『反故廼裏見(ほごのうらみ)』には、ナヒモフ号の兵士とビールを飲み交わすなど、地元住民が手厚くロシア兵をもてなした話が記録されています。
漂着したナヒモフ号の乗員は、なぜかみな金貨をたくさん持っていました。将校の望遠鏡の中にも多くの金貨が隠されていました。さらにロシア兵を水飲み場に案内した女性に金の指輪が贈られたという話もあります。
どうやら、兵士たちはナヒモフが沈没する前、艦長室の金庫からコインなどの貴重品を失敬したようなのです。
ロシア兵を手厚くもてなしたのが、長崎県議や郵便局長を務めた地元の素封家・財部重太郎です。ロシア兵は感謝し、思わず「ナヒモフ号には大量の金貨が積んであった」と語りはじめました——。
こうして、ナヒモフ号の財宝を引き揚げようという壮大な儲け話が生まれます。
ナヒモフ号の沈没地点(軍令部『日本海大海戦史』)
「ナヒモフ号はバルチック艦隊の主計艦で、そこには大量の財宝が眠っている」という話には、いくつかのそれらしい根拠があります。
●フランス公使・林権助の電文(1904年10月25日)とドイツ公使・牧野伸顕の電文(1904年11月19日)に「ロシアは極東艦隊を復活させる軍資金として外債を募集し、ドイツで8億マルク、フランスで7億フラン得て、これをイギリスのポンドに替えて積み込んだ」とある。これは時価5億円相当(当時)で、このことはロイター通信も報じているから間違いない(国立公文書館のサイトでは両電文とも確認できず)
●ロシア海軍司令部が編纂した『露日開戦史』に、「バルチック艦隊にはイギリスのコイン1300万ポンドが積まれていた」と記録されている。このうち200万ポンドは沈没前にほかの船に分配済みだが、1100万ポンドは残っている計算である。これは日本円で1億7600万円(当時)に相当する
●ナヒモフ号のロジオーノフ艦長は、帰国後、ロシア皇帝へ上奏文を出したが、そこには「陛下よりお預かりした貴重品は、ことごとく50尋(91m)の海底深くに沈めたため、敵に利用されることはないので、ご安心ください」とあった。貴重品とは金貨やプラチナに違いない。そういえば、ナヒモフ号の被害は軽微だったのに、艦長が自沈させたのも財宝を隠すためだろう。
いずれもどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、もはや検証はできません。しかし、当時、この引き揚げ話は大きな話題を呼びました。
最初に引き揚げに挑戦したのは、前述の素封家・財部重太郎で、1919年(大正8年)から正式に着手したものの、失敗して全財産を失いました。
以降、大内暢三、小橋一太といった政治家を含め、多くの人物が挑戦しますが、いずれも失敗。
1927年(昭和2年)、下田亀喜と北村儀八のチームがナヒモフ号を発見し、ダイバーを潜水させますが、海底90数mの潮流にのまれ、潜水夫2人が死亡しました。
1932年(昭和7年)以降、引き揚げは3チームによる三つ巴となりました。
●チーム交詢社(片岡派)60人
交詢社というのは、福澤諭吉の提唱で始まった日本初の実業家の社交クラブです。海軍の福井順平少将から話を聞き、金貨の存在を確信した片岡弓八が、長崎選出の国会議員・向井俊雄(旧対馬当主)と組んで「引揚後援会」を設立。片岡は地中海に沈んだ「八坂丸」の金貨を引き上げて一躍有名となった「潜水王」です。
引揚後援会は新聞で大々的に資金調達を告知し、引き揚げ費用20万円、事務費用5万円の合計25万円を全国から1口10円で募集。最終的には31万6000円も集まりました
引揚後援会の出資証券
●チーム大阪ビル(藤井派)40人
引揚後援会が募金をはじめると、大阪ビル出身の国会議員・藤井達也が名乗りを上げます。「鉱山王」と呼ばれ、
日産グループ
の基礎を築いた久原房之助などから30万円以上の資金が提供されました。ここには昭和3年にナヒモフを発見したという安田縫太郎なども参加しています
●チーム常盤(福島派)60人
昭和7年、材木で成功した東京の福島君之助が挑戦を始めます。横綱・常陸山の実弟である市毛護郎が経営する料亭「常盤」に「ナヒモフ号引揚期成同盟会」を設置
さらに、下田亀喜、北村儀八、市川政章といった面々が占有権である「先占」を主張、裁判沙汰や誹謗中傷合戦が続きます。
しかし、結局のところ、藤井派が大砲2門を引き揚げた程度で事態は収束しました。
「片岡弓八が伊勢神宮に参拝」などと書かれた引揚後援会の事業報告
戦後、ナヒモフ号の引き揚げに私財数十億円を使ったといわれるのが、日本船舶振興会会長の笹川良一でした。「日本の黒幕」「日本のドン」とも呼ばれた笹川は、競艇の「人類みな兄弟、一日一善」のCMで有名です。
戦前は右翼団体「国粋大衆党」で活躍、ムソリーニ首相と会談もしています。戦後、A級戦犯容疑者として
巣鴨プリズン
に入り、出所後、モーターボート競走で財をなしました。
世界平和を目指す笹川良一(船の科学館)
1980年9月、笹川は「ナヒモフ号には7兆円の財宝が眠っている」と宣言し、引き揚げ作業を開始。自ら潜水艇で沈船を撮影するなど、積極的に関わりました。
その結果、水深93メートルの海底からプラチナのインゴット10kg(長さ29cm、幅8cm、高さ4cm)の引き揚げに成功します。
これを受け、駐日ソ連大使は外務省に「ナヒモフ号はソ連の所有である」と申し入れしますが、ナヒモフ号は戦時国際公法によって日本の戦利品となり、海軍省の所管になっていたため、外務省はソ連の所有権を認めないと通知しています。
よって、10kgのプラチナは晴れて日本のものになりましたが、それにしても成果は微々たるものでした。
海底のナヒモフ号の砲身
(YouTube『82才の笹川良一青年
海底93mに眠るナヒモフの宝庫の扉を開く』)
実は、笹川良一が熱心に財宝引き揚げに取り組んだのには理由がありました。ナヒモフ号の財宝によって、北方領土の返還を目指そうと考えたのです。
財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず文句を言ってくるだろう、そのときはすでに言い分が用意してあったとして、こう書いています。
《こちらには交換条件がある。ナヒーモフの財宝がめでたく引き揚げられたら、ソ連の兄弟姉妹たちにプレゼントしよう。食糧問題でお苦しみのようだから、その解決の一助としてお使いくだされば幸いである。その代わり、日本から取り上げたままになっている北方領土はぜひお返しいただきたい》(『人類みな兄弟』)
笹川はその後も「北方領土の日」(2月7日)を決めるなど返還に向けて努力しますが、結局、返還が実現することはありませんでした。
船の科学館に設置されたナヒモフ号の砲身
制作:2016年2月7日
<おまけ>
日本海海戦で沈んだ沈船には、ナヒモフ号以外にも多くの船に財宝が眠るとされています。
特に財宝の存在が信じられたのが「リューリック号」で、実際に「リューリック号引揚同志会」が旗揚げされました。中心となったのは後に逓信大臣となる小泉又次郎。小泉純一郎元首相の祖父ですね。財宝は800万円とも3000万円(当時)ともいわれました。
ほかに、ロシアがチャーターした英国船アンナ号(当時で1億円)、スワロフ号(1億円)、アレクサンドル3世号(1億円)と言われました。また、ナヒモフ号と同時に沈んだモノマフ号にも財宝説は根強くあります。
ちなみに、巡洋艦ドンスコイ号は鬱陵島沖で自沈しましたが、こちらは韓国で引き揚げ話が盛り上がりました。
リューリック号の撃沈