東條英機と巣鴨プリズン

巣鴨拘置所スガモプリズン
巣鴨プリズンの死刑囚


「(巣鴨プリズンには)1年9カ月いた。専ら坐禅を1日5時間ぐらい、永い時は8時間ぐらいやった。調べられたのは2度切り、それも調べることがないから新聞をどうして大きくしたか、財界とどういう関係があったかということだけだ。入獄中よかったと思うのは坐禅を組んだこととよく寝たこと。よくイビキが高いと文句を云われた。坐禅のお蔭で煩悶する時間はないし、宗教の本や名僧の伝記などを読んだ」(『新政界』1955年11月号)

 巣鴨プリズン時代を思い出して、後にこう語ったのは、読売新聞を育て、巨人軍や日本テレビを作った正力松太郎です。正力は、大学時代にやっていた柔道で坐禅を覚え、それが苦しい刑務所生活を救ったのです。

 戦後、GHQが日本に入ってくると、戦犯探しが始まります。
 首相だった東條英機の世田谷の自宅に、逮捕状を持ったMP(武装兵士)がやってきたのは1945年9月11日。東條は家でピストル自殺をしますが、一命を取り留め、米第43陸軍野戦病院で治療を受けます。
 そして10月7日、大森捕虜収容所にやってきました。

東条英機東條英機東條英機
自宅にMPが来た直後、自殺を図った東條英機


 東條と同じ9月11日、捕虜虐待の容疑でC級戦犯として逮捕されたのが飛田時雄氏です。飛田氏は大森捕虜収容所で監視要員として働いているときに終戦を迎え、逮捕後、横浜刑務所を経て、かつての職場である大森に移送されます。移送されてから2日後に東條がやってきました。
 そして、嶋田繁太郎(元海軍大将)から東條の入浴・清掃係を命じられます。

《東條が浴室に入るなり、入浴中の高官たちはいっせいに立ち上がり、東條の身を案じるように、「いかがですか、閣下」と声をかけてくる。
 東條は、「いやぁ、おかげでいいようです」と答えるものの、憔悴(しょうすい)した姿はいかんとも隠しようがなかった。
 口髭はたくわえているが、頭髪はすっかり薄く、細く、痩せ衰えた体からは陸軍大将の権威などすっかり消え失せ、すでに還暦も過ぎたただの爺さんにすぎなかった。この印象をさらに深くさせたのは、東條の背中を流そうとしたとき、脱衣場に待機していた嶋田があわてて制止したときだ。
 私は自分の手拭いに石鹸を泡立て、東條の皺でたるんだ腋の下や背中を洗おうとした。そのとき嶋田が飛んできて、
「飛田君、そこんとこは洗わんでいい」
 と強く制止した。じつは東條の背中には二銭銅貨、いまなら500円玉ほどの大きさの、あずき色したかさぶたがジクジクした状態で残っており、わずかでも触れれば血がにじんできそうだった。それはまさしく拳銃で自決をはかったときの銃痕だった》(『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』)
 

 東條英機は、1941年1月8日、「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な戦陣訓を訓示しており、自殺できなかったことで、収容者から小馬鹿にされていました。
 しかし、清掃や入浴ごとに「ありがとう」と繰り返し礼を述べる姿に、飛田氏の嫌悪感は次第に消えていきます。

 12月7日と8日に、飛田氏と、東條らA級戦犯が一緒になって巣鴨プリズンに移送されました。
 飛田氏は、5号棟1階48号室に入れられました。1階はA、2階はB、3階はCと標記されたので、部屋は5A48と呼ばれました。東條英機らA級戦犯は5号棟2階にまとめられました。東條の部屋は5B1です。

巣鴨プリズン
正門


 ここで飛田氏は配膳係を担当しました。飯、汁、総菜を入れた鉄の食器を5Bの廊下に運び上げると、独房からぞろぞろとA級戦犯が出てきて整列し、配膳を受けるのです。ABC級でメニューに違いはありませんでしたが、独房にいたA級戦犯たちは食事をひとりでとることが出来ました。
 高官たちの食事が終わると、食器を浴室まで運び、そこで大量の食器を洗浄します。

巣鴨プリズンの東條英機
巣鴨プリズンの東條英機


 浴室は広かったものの、入浴時間は15分だけでした。
 1945年11月、巣鴨プリズンにC級戦犯として入所した藤木二三男氏は、入浴についてこう回想しています。

《雑房の浴室はひろびろとしていた。タイムはやはり15分。その間に15人が5丁ほどのカミソリで交替にひげをそる。ひげの濃い人のあとではやりきれない。早く非番になりたいMPがはじめからしまいまでハバハバとせきたてる。
 カミソリの取り扱いは至って厳重であった。1人で剃り終わるとすぐ次に渡さないで、MPの手に返し、刃こぼれがないか検査してから次の人に渡される。ちょっと刃がこぼれていても、兇器のカテゴリーに入るらしい。全員がごていねいに尻を並べて、刃さがしをやらされる。見つからない場合は全員の肛門検査までやることがあったから、一緒に入ったものこそいいつらの皮であった》(『巣鴨伝説』)

巣鴨プリズン入浴
スガモプリズンの入浴


 所内での楽しみは、1日3〜4本配給される煙草でした。煙草の配給が止まると、GIが捨てた煙草の吸殻を拾って吸いました。
 煙草の空き箱を使って、トランプや麻雀パイが作られます。麻雀は認められていたので、賭け麻雀が頻繁に行われました。賭けたのは煙草だったため、何十本という煙草を集めた猛者もいました。

巣鴨プリズンの麻雀
雑居房の麻雀大会


 刑務所とはいっても、なかではさまざまなサークルやクラブがあり、句会や球技大会も行われました。野球大会では、巨人軍を作った正力松太郎が始球式を務めてもいます。

 1947年9月からは、所内で映画も上演されるようになりました。第1回のプログラムは、CIE(民間情報教育局)の教育映画と『安城家の舞踏会』でした。
 この年のクリスマスから演芸会の開催が許され、奇術や漫才などの公演が行われました。また、相撲や歌手の慰問も行われています。

 A級戦犯たちは比較的時間に余裕がありましたが、BC級は労働が義務づけられていました。
 比較的軽い労務が多いなかで、もっともきつかったのが「パレット」製造でした。パレットは貨物輸送に使う木の枠ですが、需要増とともに、作業は どんどん大規模になっていきました。最盛期は1948年頃で、常時50〜60人が作業にあたっていました。

《この作業の過酷さはノルマにあった。というのも、パレットの需要が非常に高く、作業人数に相当する以上の過大なノルマを課せられていて、それを達成するためにかなり無理をしなければならなかったのである。
 また、作業は屋外で行なわれたため、夏になるとさらに過酷さが増した。炎天下での作業を余儀なくされ、日除けにとつば付き帽子の支給を嘆願したがいれてもらえないばかりか、休憩時間に日陰にはいって休むことも許されず、作業中に卒倒する者まで出る始末。
 さすがにこれでは身体がもたないと、在所者の代表者をたてて作業の緩和を求めたが、その要求がいれられることはなかった》(『巣鴨プリズン未公開フィルム』)


巣鴨プリズンのパレット製造
パレット製造


 また、米軍は、兵士に供給する野菜を生産するため、旧陸軍の調布飛行場跡に水耕農場を設置していました。毎日トラックに乗って調布まで向かうんですが、一般道を走ることでわずかながらもシャバの空気が吸えることから、戦犯には人気がありました。しかも、沿道では、多くの人が手を振ってくれました。
 ですが、朝鮮戦争の勃発でトラックが不足し、移動は窓のないトレーラーに変更されてしまいます。戦犯たちはこれに抗議しますが、当然のことながら窓つきトラックが復活することはありませんでした。

水耕農場への道
水耕農場への道では、手を振ってくれる人も多かった


 A級戦犯の食膳係だった飛田氏は、絵が上手だったため、ある日、皇族のA級戦犯・梨本宮から、
「わしが食事分配で並んでいるところを描いてくれんかね。記念に持っていきたいんだ」
 と頼まれ、イラストを描き上げます。
 これを契機に、飛田氏は所内の様子を書きためていきます。そして、それに影響され、藤木二三男氏も漫画を描き始めました。
 
 1948年6月5日、所内でガリ版刷りの「すがも新聞」が創刊されました。飛田氏も藤木氏もこの新聞に漫画を描きました。漫画チームは漫画労務班となり、1949年4月、「アートショップ」が開店します。通訳のジェームズ佐々木がマネージャーで、飛田、藤木、そして小川義高氏がメンバーとなり、同人誌の表紙や慰問団のポスターづくりまで任されました。最盛期の1950年8月にはスタッフが8名もいました。

 今回、掲載している巣鴨プリズンの版画は、このアートショップの誰かが作成したものです。 

巣鴨プリズンの作業着
巣鴨プリズンの作業着にはprisonerの「P」の文字が
 

 東條英機は、囲碁や麻雀に興ずることもなく、いつもひとりで書き物や読書をしていました。1948年11月12日、東京裁判の判決が下って、死刑が決定。その後、いつ処刑が行われるか未定のまま、プリズン内の病院で義歯を入れました。そのとき取った歯形が松本市に残っています。これを見ると、歯がボロボロだったことがわかります。
 そして、入れ歯が出来て1週間ほどで、処刑が決まりました。

東條英機の歯形
東條英機の歯形


 処刑は12月23日0時1分30秒、巣鴨プリズン13号鉄扉内で行われました。
 その前日、教誨師・花山信勝は、処刑が決まったA級戦犯7名と個別に面談しています。そのときの東条英機の様子を花山はこう語っています。

「東条さんは、『さらばなり憂ひの奥山けふ越えて弥陀のみもとにゆくぞうれしき』、『明日よりはたれにはばかるところなく弥陀のみもとでのびのびと寝む』と歌を詠まれました。
 東条さんは、独房で100燭光の常灯を昼夜つけられて自殺を警戒されたが、よくも神経衰弱にならなかった、やはり信仰があったからでしょう、と語っておられました。
 21日夜、刑の宣告がおわったとき、房までつきそってきた大尉に手をあげて頭をさげられ、ありがとうの感謝をこめられたのでしょう、OK、OKといっておられた。それから日本食が食べたいとか、一杯やりたいとか笑いながら話しておられました。22日の5時ごろの夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムなどだったようです」(『巣鴨プリズン』)


巣鴨プリズン13号鉄扉
処刑場だった13号室


 実はこのとき、花山は東條の遺言を聞いています。その遺言にはこう書かれていました。

《自分の刑死を契機として、遺族抑留者の家族等を援護願ひ度(た)い。靖国神社に祀る様にし、戦死者の遺族の気持を知って其(そ)の遺骨を還送し墓を守る様にせられ度(た)い。戦犯者の遺族を援護する事も亦(また)同然である。(中略)
 一部の残虐行為のあった事は真に遺憾である。然(しか)し無差別爆撃等、殊(こと)に広島長崎に於ける原子爆弾の如きは、勝者の不正である。之れも同様糾弾さるべきものである》


 A級戦犯の巣鴨プリズン移送日は1945年12月7、8日(真珠湾攻撃のアメリカ時間と日本時間)、A級戦犯の起訴は1946年4月29日(昭和天皇の誕生日)、そしてA級戦犯の処刑日は1948年12月23日(今上天皇の誕生日)。
 メモリアルデーを重視するアメリカは、東京裁判を事後法で裁き、これをもってA級裁判の裁判を終結させました。

 処刑の翌日、岸信介や笹川良一などのA級戦犯が釈放されました。同じくA級戦犯の正力松太郎は1947年9月に釈放されています。

巣鴨プリズンからの釈放
釈放


 しかし、巣鴨プリズンにはまだBC級戦犯が多数残っていました。 
 藤木氏は1950年8月、飛田氏は1950年10月に釈放されます。最後の釈放は1958年5月30日で、これをもって戦犯刑務所としての巣鴨プリズンは解散、「巣鴨拘置所」と変わったのです。 

 最盛期1800〜1900人いた巣鴨プリズンで処刑されたのは、A級戦犯7名、BC級戦犯53名。
 跡地はサンシャイン60と東池袋中央公園となっていて、処刑台のあった場所には「永久平和を願って」と書かれた大きな石碑が残っています。

巣鴨プリズン跡
サンシャイン60と巣鴨プリズンの石碑


東條英機ほかA級戦犯が眠る興亜観音
東京裁判について

制作:2014年1月27日


<おまけ>
 日本に先立って行われたドイツのニュルンベルク裁判では、
  A=平和に対する罪、B=通常の戦争犯罪、C=人道に対する罪
 とされました。これが日本では
  A級=戦争指導者、B級=軍の指揮官、C級=殺害・虐待行為などを実際におこなった兵
 と変わってしまいました。この区別に根拠はありませんが、なんとなく「A級戦犯=大悪人」というイメージが流布してしまいました。1952年に「遺族援護法」が改正されたことで、現在の日本では戦犯という扱いは消滅しています。A級戦犯という言葉も、本当は使ってはいけないものなのです。
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