戦後、アメリカは貧乏だった日本に多大な援助をしてくれました。ララ物資といって、主に脱脂粉乳や大豆などの食料、衣類で、一説には当時の400億円という莫大な金額でした。 1946年から米軍の厚意で給食が始まりますが、1950年になると、東京、大阪、名古屋など8都市の小学校でパンによる給食が実施されました。これが全国に拡大し、日本の食生活は米食からパン食にシフトしていきます。 1954年には、アメリカで「余剰農作物処理法」が成立し、日本への小麦とトウモロコシの輸入が拡大しました。こうして、日本の食生活はアメリカナイズされていったのです。 |
1952年に日本が独立を果たすと、最初におこなわれたのが日米航空協定です。 これは「相手国の通過権」「相手国への乗り入れ権」「相手国を経由して第三国へ飛行できる『以遠権』」などを決めたものですが、日本に非常に不利な締結となりました。現在でも、太平洋路線の輸送実績は日本対アメリカで3:7といわれます。日本は現在も不均衡の解消を求めていますが、アメリカは逆に国際線の完全自由化をうたう「オープンスカイ」政策を迫っています。 |
この当時、世界の通貨体制は、ドルと金が交換できるブレトン・ウッズ体制下にありました。これは1929年の世界大恐慌を受け、各国がブロック経済圏をつくった反省から生まれたものです。しかし、アメリカの景気が悪化したことで、突如として兌換を停止します。 円は1ドル360円から308円に切り上げられ、さらに1973年に変動相場制に変わりました。以後、為替操作による経済戦争の時代が幕開けしました。 |
莫大な貿易赤字と財政赤字(「双子の赤字」)に悩む米国は、1985年、世界的なドル安方針を決定します。ニューヨークのプラザホテルに米、英、西独、仏、日本の各国蔵相と中央銀行代表が集まって為替の安定化について協議。アメリカの対日貿易赤字が大きかったため、実質的な円高ドル安が決まりました。 また、このころ、アメリカ合衆国通商法(1974年制定)301条による制裁措置が増えていきます。通商法301条は、貿易相手国の不公正な取引に対して協議することを義務づけたものです。解決しない場合、制裁措置が決められていますが、後に協議さえ不要な「スーパー301条」が登場します。 |
このころ、特に問題になっていたのが日本製半導体でした。圧倒的な強さを誇っていた日本製半導体に対し、アメリカは301条で提訴し、その結果、2割を米国製にすることで合意します。このとき、メモリは日本製、CPUはアメリカ製という構造ができたことで、結果的にインテルの全盛時代となります。 ちなみにこの交渉には、当時外務省にいた雅子さまが参加しています。 |
かつて日本でパソコンといえばNECのPC-9801などを指すことが普通でした。しかし、いつのまにかIBM互換機に負けてしまいました。その最大の理由はマイクロソフトのウィンドウズ95の登場です。 実は、日本にもTRONという画期的なOSがありました。1984年に東大の坂村健教授が提唱したもので、パソコン用BTRON、端末用ITRON、通信用CTRONなどがありました。この段階ですでにマルチタスクや標準化、多言語対応を謳っており、 《コンピュータが使われる多くの場面におけるコンピュータと人間との付き合い方の統一的な概念、考え方を提供する》(『TRONからの発想』) という斬新なものでした。まずは教育用パソコンの共通OSとして採用が決まりましたが、1989年、米国政府がスーパー301条を適用すると圧力をかけたことで、一気に沈静化しました(後にアメリカは謝罪)。 なお、ほとんど知られていませんが、現在、TRONはデジカメ、プリンターなどの組み込みOSとして圧倒的な地位にあります。 |
アメリカは日本の市場が開放されないことにずっといらだっており、次第にアメリカ的なシステムをそのまま押しつけるようになりました。その最たるものが「年次改革要望書」でした。これは、1993年の宮沢喜一首相とビル・クリントン大統領との会談で合意したもので、お互いに要望する規制緩和や構造改革を伝えあう公式文書のことです。毎年11月に交換され、1994年の村山内閣から2008年の麻生内閣時代まで続いています。 |
1995年は、日米交渉の歴史で画期的な年でした。この年、WTO(世界貿易機関)が設立され、2国間交渉から多国間交渉へと交渉の仕方が変わったことで、日本が立て続けにアメリカに勝ったのです。 当時、通産官僚として日米自動車交渉に参加した「みんなの党」幹事長の江田憲司議員が、次のように語っています。 《当時、米国は制裁をちらつかせながら、日本車に米国製部品を何年までに何%使えとか、日本に米国車のディーラーをこれだけ増やせとか、市場原理に反する、むちゃくちゃな「数値目標」を押しつけてきた。国際交渉では、日本人特有の「謙譲の美徳」や「あうんの呼吸」は通用しません。自らの言い分をストレートに主張することが大事。当時、日米同盟に悪影響を及ぼすという意見も政府部内にありましたが、数値目標だけは絶対にのめないという立場を貫いた。日本が降りれば「明日は我が身」の東南アジアや欧州各国に理解を求めて、協力を取り付けたのです》(朝日新聞、2011年9月30日) |
1998年の日米経済包括協議は、アメリカの圧力に大負けしたという意味で歴史に残ります。現在の日本の多くの病巣がこの年にできたと言っても過言ではないでしょう。具体的には、労働者派遣が原則自由化されたことで、非正規雇用が増大、首切りや低賃金が横行しました。年越し派遣村もこれが原因です。 また、アメリカは不良債権に苦しむ日本に「不動産の証券化」(REIT/リート)というサービスを持ち込みました。不動産を有価証券に変え、小口化して高利回り商品として売りさばく仕組みです。六本木ヒルズやプルデンシャルタワーなど多くの巨大ビルがこの方法で建てられました。 |
日本では小売業の正常な発展を図るため、大規模小売店舗法(1973年)で大型店の出店は規制されていました。ところが、2000年に大規模小売店舗立地法が施行され、郊外に外資系大規模店が増えました。結果として地域の商店街が壊滅しました。大規模店の象徴がトイザらスで、ウォルマートの西友買収も同じ流れにあります。 |
国民に伏せられていた「年次改革要望書」の存在を明らかにしたのが関岡英之氏でした。関岡氏の本には、「年次改革要望書」が「要望」ではなく「命令」だということがひたすら書かれています。 《アメリカはなぜ、日本にアメリカ型の経営制度を導入するよう圧力をかけているのか。次の(2000年版の)要求事項を読むとわかる。 ・取締役の条件として特定の国籍や、その会社の社員に限るといった規定を禁止せよ。 ・電話やビデオ会議や書面による取締役会の決議を認めよ。 ・電話やファックスや電子的手段による株主総会の投票を認めよ。 これは日本企業の社外取締役に就任したアメリカ人が、アメリカに居ながらにして経営をコントロールできるようにしようとしていることを意味する。将来、ハゲタカ・ファンドが日本の企業を乗っ取ったときのことを見越してあらかじめ手を打っているのだ》(文春新書『拒否できない日本』より) こうして、2002年に商法が大改正されるのです。 なお、郵政民営化も小泉首相のアイデアではなく、アメリカのアイデアという説があります。ただ、小泉首相は1994年に『郵政省解体論』という本を出版してるので、この説は違う可能性が高いですね。とはいえ、郵便局の資産が流出すれば、外資にも大きなチャンスが見込めるため、外資にとっては好都合でした。 |
1911年、日本は長年の不平等を解消し、ようやく関税自主権を獲得します。それから100年。今度は逆に、TPPで関税を放棄し、完全な自由貿易国家を目指しています。TPPがアメリカの圧力かどうかはともかく、もし参加すれば、また日本社会は大きく変わるでしょう。 ここで重要なのは、世の中が悪い方向に変わったとしても、それはすべて自分たちが選んできた道だという点です。アメリカの圧力のせいだと叫んでも意味はありません。だって、すべては外交交渉の結果なわけだから。変化が嫌なら、交渉しないか、交渉で勝てばいいだけです。 さて、TPP交渉で、日本はアメリカに勝つことができるでしょうか? |