戦後・日米経済史年表
アメリカの「圧力」60年史

お台場
アメリカが日本社会のルールを決めてる?


 当たり前の話ですが、世の中の仕組みは、かなりの部分が法律で決められています。逆に言えば、法律が変われば世の中は大きく変わります。
 たとえば、ここ10年で東京に高層ビルが一気に増えたと思いませんか? また、郊外に巨大スーパーが増え、商店街がみんなシャッター通りになったと思いませんか? ほかに、カタカナの保険会社が増えたのもここ10数年くらいですよね。
 これらはいずれも法律の改正で社会が変わった一例です。では、いったいその法律はどうして変わったのか。ほとんどの場合、それはアメリカからの圧力だったりします。

 もう少し別な例をあげます。

 1000億円もの損失を隠蔽していたオリンパスは、2001年3月期決算から導入された「時価会計」を契機に、海外のペーパー企業などに損失を移し替えていました。これはもちろん違法行為ですが、実は、時価会計の導入以前なら、含み損を処理せず損失隠ししても違法ではありませんでした(悪質行為だけど)。
 どうしてかというと、それまで日本では「簿価会計」が使われていたからです。

 簿価会計は、株やら土地やらを取得した原価で評価するものです。
 たとえば戦後すぐ(1947年)、銀座の土地は1坪15万円で買えました。100坪で1500万円。時がたち、バブル直前(1987年)の銀座の地価は1坪1億5000万円。100坪なら150億円。

 かつて企業の経営が悪化したら、帳簿上、原価で記録された資産を時価に変換することができました。もし銀座の土地100坪を戦後すぐに買っていたら、帳簿操作により一瞬で150億円の資産が生まれるのです。まさに打ち出の小槌で、これを「益出し」と呼んでいました。

 この会計システムは不透明だとして、アメリカは、すべての資産を時価で評価する「時価会計」に変更するよう強く求めてきました。まぁ、アメリカの言うことももっともなんですが……でも時価会計にもデメリットはあるんですね。

 簿価会計は、含み損は表面に出にくいですが、本業によるお金の流れは明確にわかります。企業は、資産を放置して本業だけに取り組めばよく、長期的な経営を可能にしました。
 一方、時価会計は、透明性は高いですが、土地や株といった資産価値が下落すれば会社の評価も下がるため、短期的な経営が求められました。
 バブル崩壊後、株価が下落すると、企業は一斉に株を売り始め、さらに株価が下がる悪循環にはまりました。

 つまり、企業会計の変更が今日の日本の不況をもたらした面もあながち否定できないのです。

 アメリカは、戦後、日本のシステムを自分たちの都合いいように圧力をかけ、改造してきました。もっとも悪いことばかりではなく、たとえば「牛肉の自由化」で牛肉が安く食べられるようになったのも確かです。

 そんなわけで、アメリカの日本改造(あるいは日本のグローバル化)60年史です。


パン給食の統計
アメリカの援助で始まった給食で、日本人がパン食に

 戦後、アメリカは貧乏だった日本に多大な援助をしてくれました。ララ物資といって、主に脱脂粉乳や大豆などの食料、衣類で、一説には当時の400億円という莫大な金額でした。
 1946年から米軍の厚意で給食が始まりますが、1950年になると、東京、大阪、名古屋など8都市の小学校でパンによる給食が実施されました。これが全国に拡大し、日本の食生活は米食からパン食にシフトしていきます。
 1954年には、アメリカで「余剰農作物処理法」が成立し、日本への小麦とトウモロコシの輸入が拡大しました。こうして、日本の食生活はアメリカナイズされていったのです。

●1950
・東京、大阪、名古屋など8都市の小学校でパン給食実施→米食からパン食に

戦後すぐの小麦輸入
1951年(昭和26年)で小麦の輸入が倍増


 1952年に日本が独立を果たすと、最初におこなわれたのが日米航空協定です。
 これは「相手国の通過権」「相手国への乗り入れ権」「相手国を経由して第三国へ飛行できる『以遠権』」などを決めたものですが、日本に非常に不利な締結となりました。現在でも、太平洋路線の輸送実績は日本対アメリカで3:7といわれます。日本は現在も不均衡の解消を求めていますが、アメリカは逆に国際線の完全自由化をうたう「オープンスカイ」政策を迫っています。

●1952 
・日米航空協定

日本航空海外線
日本航空の海外線は1953年(昭和28年)11月にスタート


●1954
・アメリカで余剰農作物処理法が成立→小麦、トウモロコシの輸入拡大

●1957
・ワンダラーブラウス問題を契機に日米綿製品協定が締結→対米綿製品の輸出を自主規制

●1960
・EIA(米電子工業会)が日本のテレビメーカーをダンピング提訴

●1965
・日本の対米貿易が戦後初めて黒字に

●1966
・日米鉄鋼摩擦→対米鉄鋼輸出を自主規制

●1968
・EIAが日本製テレビを再度ダンピング提訴
・ニクソンが大統領選で繊維産業保護を公約に

●1969
・日本が鉄鋼輸出を自主規制し、前年比22%の輸出減

●1970
・日米繊維交渉→1971年、繊維製品の輸出自主規制

 この当時、世界の通貨体制は、ドルと金が交換できるブレトン・ウッズ体制下にありました。これは1929年の世界大恐慌を受け、各国がブロック経済圏をつくった反省から生まれたものです。しかし、アメリカの景気が悪化したことで、突如として兌換を停止します。
 円は1ドル360円から308円に切り上げられ、さらに1973年に変動相場制に変わりました。以後、為替操作による経済戦争の時代が幕開けしました。

●1971
・ニクソン・ショックでドルと金の交換廃止。1ドル360円から308円に切り上げ

●1973
・円が変動相場制へ移行→為替差損が重要な問題に
・GATT、東京ラウンドで農業交渉開始

●1976
・日本の鉄鋼産業をダンピング提訴

●1977
・カラーテレビの市場秩序維持協定→対米輸出を175万台に制限

●1978
・牛肉・オレンジ自由化交渉→1988年、完全自由化へ
・米国、鉄鋼に「トリガー価格」を設定し、それ以下の値段のものはすべてダンピング扱い

●1980
・電話交換機などNTT調達品の外国製品枠を策定
・レーガンが大統領選で自動車産業救済を公約に

●1981
・日米自動車摩擦→対米自動車輸出を自主規制

●1982
・IBMスパイ事件。おとり捜査によって日立・三菱電機の社員ら逮捕

●1984
・円ドル委員会が本格化し、金利自由化や外国銀行の進出など、金融緩和の議論拡大

 莫大な貿易赤字と財政赤字(「双子の赤字」)に悩む米国は、1985年、世界的なドル安方針を決定します。ニューヨークのプラザホテルに米、英、西独、仏、日本の各国蔵相と中央銀行代表が集まって為替の安定化について協議。アメリカの対日貿易赤字が大きかったため、実質的な円高ドル安が決まりました。

 また、このころ、アメリカ合衆国通商法(1974年制定)301条による制裁措置が増えていきます。通商法301条は、貿易相手国の不公正な取引に対して協議することを義務づけたものです。解決しない場合、制裁措置が決められていますが、後に協議さえ不要な「スーパー301条」が登場します。

●1985
・アメリカが70年ぶりに対外純債務国に転落し、新通商政策を発表、貿易に積極介入へ
・プラザ合意→円高ドル安が既定路線に
・MOSS協議→エレクトロニクス、電気通信、医薬品など各分野別での協議開始
・米半導体業界、日本市場の閉鎖性を理由に通商法301条で提訴

 このころ、特に問題になっていたのが日本製半導体でした。圧倒的な強さを誇っていた日本製半導体に対し、アメリカは301条で提訴し、その結果、2割を米国製にすることで合意します。このとき、メモリは日本製、CPUはアメリカ製という構造ができたことで、結果的にインテルの全盛時代となります。
 ちなみにこの交渉には、当時外務省にいた雅子さまが参加しています。

●1986
・日米半導体協定→1992年末までに外国系半導体のシェアを20%以上に
・関西国際空港建設プロジェクトで「国際入札」を要求

●1988
・スーパー301条の導入で不公正貿易に対し一方的に報復可能に
・大型プロジェクトに限って日本の建設市場に外資の参入を認める(日米建設合意)

 かつて日本でパソコンといえばNECのPC-9801などを指すことが普通でした。しかし、いつのまにかIBM互換機に負けてしまいました。その最大の理由はマイクロソフトのウィンドウズ95の登場です。
 実は、日本にもTRONという画期的なOSがありました。1984年に東大の坂村健教授が提唱したもので、パソコン用BTRON、端末用ITRON、通信用CTRONなどがありました。この段階ですでにマルチタスクや標準化、多言語対応を謳っており、

《コンピュータが使われる多くの場面におけるコンピュータと人間との付き合い方の統一的な概念、考え方を提供する》(『TRONからの発想』)

 という斬新なものでした。まずは教育用パソコンの共通OSとして採用が決まりましたが、1989年、米国政府がスーパー301条を適用すると圧力をかけたことで、一気に沈静化しました(後にアメリカは謝罪)。
 なお、ほとんど知られていませんが、現在、TRONはデジカメ、プリンターなどの組み込みOSとして圧倒的な地位にあります。

●1989
・日米構造協議で、内政干渉の合法化→10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定
・人工衛星、スパコン、木材・建材にスーパー301条を発動
・教育用パソコンに採用予定だった日本独自のOS「TRON」に圧力

●1991
・日米携帯電話摩擦→モトローラの圧力で、IDO(現在のKDDI)が旧式のアナログ方式(モトローラ方式、TACS方式)を採用

●1992
・ブッシュ大統領が米自動車メーカーのトップを連れて来日

●1993
・日米経済包括協議→1994年、板ガラス輸入拡大、知的所有権の強化などで決着
・ウルグアイラウンド→コメの部分開放

 アメリカは日本の市場が開放されないことにずっといらだっており、次第にアメリカ的なシステムをそのまま押しつけるようになりました。その最たるものが「年次改革要望書」でした。これは、1993年の宮沢喜一首相とビル・クリントン大統領との会談で合意したもので、お互いに要望する規制緩和や構造改革を伝えあう公式文書のことです。毎年11月に交換され、1994年の村山内閣から2008年の麻生内閣時代まで続いています。

●1994
・日米保険協議→1995年、保険に外資参入認める。これにより、カタカナの保険会社が増加
・公共事業の指名競争入札を廃止→談合制度に打撃
・総額430兆円の「公共投資基本計画」にさらに200兆円の「社会資本整備費」を加算
・年次改革要望書の提供を開始

年次改革要望書
年次改革要望書の翻訳(1996年版)


 1995年は、日米交渉の歴史で画期的な年でした。この年、WTO(世界貿易機関)が設立され、2国間交渉から多国間交渉へと交渉の仕方が変わったことで、日本が立て続けにアメリカに勝ったのです。
 当時、通産官僚として日米自動車交渉に参加した「みんなの党」幹事長の江田憲司議員が、次のように語っています。

《当時、米国は制裁をちらつかせながら、日本車に米国製部品を何年までに何%使えとか、日本に米国車のディーラーをこれだけ増やせとか、市場原理に反する、むちゃくちゃな「数値目標」を押しつけてきた。国際交渉では、日本人特有の「謙譲の美徳」や「あうんの呼吸」は通用しません。自らの言い分をストレートに主張することが大事。当時、日米同盟に悪影響を及ぼすという意見も政府部内にありましたが、数値目標だけは絶対にのめないという立場を貫いた。日本が降りれば「明日は我が身」の東南アジアや欧州各国に理解を求めて、協力を取り付けたのです》(朝日新聞、2011年9月30日)

●1995
・WTO設立で、日米交渉から国際交渉の枠組みへシフト
・サービス貿易自由化交渉→金融サービス、長距離電話など自由化へ
・日米自動車摩擦→アメリカは数値目標を要求するも、多国間交渉で日本が勝利
・日米フィルム摩擦→コダックが富士フイルムを提訴するも多国間交渉で日本が勝利

●1996
・日本製スパコンにスーパー301条を発動して事実上の輸入拒否

●1997
・独禁法改正、持ち株会社の解禁→談合制度を弱め、企業買収を簡易化

 1998年の日米経済包括協議は、アメリカの圧力に大負けしたという意味で歴史に残ります。現在の日本の多くの病巣がこの年にできたと言っても過言ではないでしょう。具体的には、労働者派遣が原則自由化されたことで、非正規雇用が増大、首切りや低賃金が横行しました。年越し派遣村もこれが原因です。
 また、アメリカは不良債権に苦しむ日本に「不動産の証券化」(REIT/リート)というサービスを持ち込みました。不動産を有価証券に変え、小口化して高利回り商品として売りさばく仕組みです。六本木ヒルズやプルデンシャルタワーなど多くの巨大ビルがこの方法で建てられました。

●1998
・企業買収のさらなる簡易化を要求
  →1999年、商法改正で持ち合い株式の解消、コーポレートガバナンスの導入による経営の透明化、株式交換による企業買収を合法化
・確定拠出型年金の導入を要求
  →2001年、日本型401kが導入され、企業年金制度が弱体化。企業と従業員の関係が弱まり終身雇用制が崩壊へ
・労働者派遣の原則自由化を要求
  →1999年解禁し、以後、人件費削減で年収200万円時代へ
・土地の利用規制を緩和し、不動産の証券化を要求
  →2000年、REIT創設で不良債権となった日本の一等地をハゲタカが買い占め
・建築基準法改正
  →阪神大震災の後にもかかわらず、安全基準を「最低限」にし、アメリカの建材を認可

●1999
・水道や道路など、公共事業の運営を民間がおこなえるPFI方式が制定される。翌年、「基本方針」が提示され、実現のための方策が具体化。2004年には松山市で水道の運営を外部委託。2007年には、山口県美祢市を皮切りに刑務所の民営化が開始


六本木ヒルズ
REITの象徴・六本木ヒルズ

 日本では小売業の正常な発展を図るため、大規模小売店舗法(1973年)で大型店の出店は規制されていました。ところが、2000年に大規模小売店舗立地法が施行され、郊外に外資系大規模店が増えました。結果として地域の商店街が壊滅しました。大規模店の象徴がトイザらスで、ウォルマートの西友買収も同じ流れにあります。

●2000
・大規模小売店舗立地法→郊外に大規模店が増え、地域の商店街がシャッター通りに
・2001年3月期決算から会計制度を時価会計に→株の持ち合いが減り、株価が暴落。外資が日本企業を買いやすくなった。同時に税収も減少することに
・軍事面を中心にした提言「第1次アーミテージ・レポート」公表→防衛予算の拡充など(2007年、2012年にも)

●2001
・日米経済包括協議を「成長のための日米経済パートナーシップ」にリニューアル

 国民に伏せられていた「年次改革要望書」の存在を明らかにしたのが関岡英之氏でした。関岡氏の本には、「年次改革要望書」が「要望」ではなく「命令」だということがひたすら書かれています。

《アメリカはなぜ、日本にアメリカ型の経営制度を導入するよう圧力をかけているのか。次の(2000年版の)要求事項を読むとわかる。
・取締役の条件として特定の国籍や、その会社の社員に限るといった規定を禁止せよ。
・電話やビデオ会議や書面による取締役会の決議を認めよ。
・電話やファックスや電子的手段による株主総会の投票を認めよ。
 これは日本企業の社外取締役に就任したアメリカ人が、アメリカに居ながらにして経営をコントロールできるようにしようとしていることを意味する。将来、ハゲタカ・ファンドが日本の企業を乗っ取ったときのことを見越してあらかじめ手を打っているのだ》(文春新書『拒否できない日本』より)

 
 こうして、2002年に商法が大改正されるのです。
 なお、郵政民営化も小泉首相のアイデアではなく、アメリカのアイデアという説があります。ただ、小泉首相は1994年に『郵政省解体論』という本を出版してるので、この説は違う可能性が高いですね。とはいえ、郵便局の資産が流出すれば、外資にも大きなチャンスが見込めるため、外資にとっては好都合でした。

●2002
・健康保険に本人3割負担を導入→混合医療(金持ちの特別診察)解禁への第一歩
・司法改革で外国人弁護士を解禁→日本を訴訟社会にして大儲け?
・商法改正→「社外取締役」の登用などアメリカ型経営方式に転換

●2003
・郵政事業庁を日本郵政公社に→郵政民営化への第一歩。郵貯や簡保資産の流出を目指す

日本郵政公社
日本郵政公社は2007年に廃止され、日本郵政株式会社に

●2004
・ロースクール設置→2006年、新司法試験へ
・映画の著作権が50年から70年に延長。ディズニー映画を保護するためと言われます

●2005
・日本道路公団解散、郵政民営化法案が可決

●2007
・三角合併(親会社の株で買収)解禁で外資による日本企業の合併が簡易化

●2008
・年次改革要望書が終了

●2011
・日米経済調和対話スタート
・日米貿易フォーラムでTPP(関税のない完全な自由貿易)を協議
・PFI方式にコンセッション方式(運営権)が導入。インフラの所有権は政府が持つが、運営は株式会社によることで、民活を盛んに

 1911年、日本は長年の不平等を解消し、ようやく関税自主権を獲得します。それから100年。今度は逆に、TPPで関税を放棄し、完全な自由貿易国家を目指しています。TPPがアメリカの圧力かどうかはともかく、もし参加すれば、また日本社会は大きく変わるでしょう。
 ここで重要なのは、世の中が悪い方向に変わったとしても、それはすべて自分たちが選んできた道だという点です。アメリカの圧力のせいだと叫んでも意味はありません。だって、すべては外交交渉の結果なわけだから。変化が嫌なら、交渉しないか、交渉で勝てばいいだけです。
 さて、TPP交渉で、日本はアメリカに勝つことができるでしょうか?


制作:2011年12月12日


<おまけ>
 日本の関税率を紹介しておきます。

 こんにゃく芋…1706%
 コメ(精米)…778%
 落花生…………737%
 でん粉…………583%
 小豆……………403%
 バター…………360%
 小麦……………252%
 脱脂粉乳………218%
(内閣府資料による)

 ウイスキー……13.7%
 ネクタイ………13.4%
 シャンプー……5.8%
 わりばし………5.6%
 人形……………4.6%
 車、楽器、冷蔵庫…無税
 拳銃、戦車……12.8%
(税関公表値)

●TPP最終講義(1)TPP加入でどうなるのか、メリットとデメリットを一挙公開
●TPP最終講義(2)歴史編:「自由貿易と保護貿易」論争の誕生
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