幻の煉瓦建築を見にいく
あるいは「銀座」の誕生

深谷駅
埼玉県深谷市のミニ東京駅


 まずは上の写真を見てほしいんだな。埼玉県の深谷駅ですが、地方の駅にしてはずいぶん立派でしょ? レンガに見立てた壁面がとってもきれいだし。
 しかし、この駅舎、なんとなく見覚えがないでしょうか? そう、実は東京駅を模してるんですよ。東京駅も赤れんがが見事ですが、それにしても、いったいなぜ深谷にミニ東京駅があるのか? 今回は深谷が生んだレンガの物語です。 

 話は飛んで東京の霞が関。その1丁目1番地1号って、何の住所だか知ってるでしょうか? 
 正解は法務省。
 旧法務省本館(もとは司法省)は赤煉瓦の美しさで有名です。この建物はバルコニーに御影石の円柱が並んでおり、ドイツ・ネオバロック様式で建てられています。基本設計はお雇い外国人(ドイツ人)のヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンで、2人は隣にあった大審院(最高裁判所)も設計しています。こちらも煉瓦造りで、竣工はともに明治28年(1895)です。

 司法省の建物は1945年の空襲で壁と床以外すべて焼失したので、完全なオリジナルではありません。また大審院は1974年に解体されたため、現存していません。というわけで、まずはこの2つの建物の写真を公開しときます。

司法省
司法省後面
司法省食堂
司法省食堂


大審院と地方裁判所
大審院と地方裁判所
大審院
大法廷


 さて、この2つの煉瓦建築はどこからレンガを持ってきたのか?
 その答えが深谷でした。
 明治政府から呼ばれたベックマンとエンデは、都市整備のために良質な煉瓦が必要だと提言します。これを受けて、明治20年(1887)、渋沢栄一や三井物産の益田孝らによって日本煉瓦製造が設立されました。そしてその工場が深谷市上敷免に建設されたのです。

日本煉瓦製造
日本煉瓦製造の会社設立願


 もう少し正確に言うと、明治政府は不平等条約を改正するための一手段として、東京に洋風の街をつくる計画をたてていました。立派な街ができれば、まだ基盤の弱い明治政府の権威付けにもなると考えていました。

 東京の煉瓦建築史は幕末に始まります。嘉永年間、江川太郎左衛門が伊豆に反射炉を建設したときに耐火煉瓦が使われました。その後、長崎造船所大阪造幣局、また品川灯台などで特別に使用されましたが、まだまだ一般的ではありませんでした。

品川灯台
品川灯台(明治村)


 煉瓦が普及するのは明治5年(1872)からです。この年の2月26日、兵部省から出火した炎はあっという間に銀座、京橋、築地一帯を焼きつくしました。
 この火災を受けて、政府は西洋流の不燃都市の建設を目指します。火災から4日後には東京府によって「大蔵省と相談し、町を煉瓦で再建せよ」という布告が出されます。正確にはこんな文章。

《府下家屋建築の儀は、火災を可免の為め、追々、一般煉瓦石等を以て、取建候様可致、御評決に相成候条、其方法見込相立、大蔵省と可打合事》

 この布告は単に焼失地域だけでなく、いずれ府下すべての家屋を煉瓦で作るという強い決意が込められていました。
 ちょうど鉄道が開通することで、当時は場末だった銀座を中心に煉瓦街の建設が始まりました。基本は国による造営の払い下げで、一等煉瓦地は1坪63円、二等煉瓦地は1坪50円、三等煉瓦地は1坪42円の払い下げで、3分の1の即納、残りは150カ月の月賦でした。
 
 要は政府が貸家商売を始めたわけですが、案の定というか、ほとんど人気がありませんでした。
『東京市史稿』によれば、最初に完成した煉瓦街は銀座1丁目から2丁目の西側で、全35戸のうち、7戸が空き家でした。続いて銀座3〜4丁目と尾張町1〜2丁目の西側で61戸のうち27戸が空き家。以下、銀座1〜4丁目の東側で42のうち22が空き家。尾張町1〜2丁目の東側で78のうち61が空き家。

ごく初期の銀座煉瓦街
ごく初期の銀座煉瓦街


 しかし、やっぱり銀座は強かった。煉瓦街は明治10年(1877)年に完成し、しばらくは不人気が続きますが、明治20年頃には大繁華街となったのです。

 さて、この成功を受け、今度は煉瓦による壮大な首都建設プロジェクトが浮上します。
 計画の推進者が、明治19年、内閣に設置された臨時建設局の総裁だった井上馨。もともと外務卿だった井上は明治16年、不平等条約改正交渉のため鹿鳴館を建設しています。その後の大プロジェクトが霞が関への官庁集中計画でした。井上らがエンデとベックマンを呼び、首都計画を立案させるなかで、渋沢栄一が日本煉瓦製造を設立したのでした。
(余談ながら、当時の住所で「霞ヶ関1-1」は外務省です。司法省は西日比谷町)

 日本煉瓦製造の工場がどうして深谷になったかというと、渋沢栄一の故郷で、良質な粘土が取れ、古くから瓦の産地として知られていたから。さらに利根川の水運や鉄道も利用できる好条件がありました。

 で、明治20年に創業したとたん、井上が条約改正に失敗し、外務大臣を辞任してしまいます。結局、官庁街建設はあっさりと中止になってしまいます。しかし、渋沢は「必ずレンガの需要は増える」と会社の存続を決めるのでした。実際、日清戦争後の建築ブームに乗って、日本煉瓦製造は大きく育つのでした。

日本煉瓦製造の旧事務所
日本煉瓦製造の旧事務所(重要文化財)


 日本煉瓦製造は創業2年後の1889年までにホフマン式輪窯(わがま)3基を建設し、本格的な操業を始めます。ホフマン輪窯はドイツ人のフリードリヒ・ホフマンが1858年に特許を取ったアーチ型の窯で、内部には18の焼成室があります。石炭による煉瓦の焼成は1000度を超えるんですが、この熱が部屋から部屋へ移っていくことで、窯詰め→焼成→冷却→窯出しという工程を、火を絶やすことなく連続して行うことができるんですな。
 逆に言えばいったん火をおこしたら24時間操業が必要なわけですが、そのおかげで最盛期の明治末には6基のホフマン窯で月産300万個、年間で3500万個もの煉瓦を製造していました。

ホフマン式輪窯
現在も残された日本煉瓦製造のホフマン式輪窯
(壁の上部の穴から燃料の粉炭を投入する)


 深谷に現存するのはドイツ製ホフマン輪窯6号窯。幅約20m、長さ約60mの楕円形。幅4m、高さ2.6mのアーチ型の焼成室1部屋で1万8000個の煉瓦焼成が可能。1907年建設で、当時としては驚異的な月産65万個を誇りました。

 さて、この工場で焼かれたレンガはどこで使われたのか?
 前述した法務省旧本館や大審院のほか、東京駅、万世橋駅、日本銀行旧館、旧警視庁、赤坂離宮(現在の迎賓館)、旧三菱第一号館、旧丸ビル、慶応大学図書館旧館、東大、東京商業会議所(商工会議所)、山手線・中央線の高架橋、旧信越本線碓氷峠めがね橋、横浜開港記念館……などなど、明治・大正を代表する建物に使われたのです。

 いずれにせよ、深谷駅にミニ東京駅があったのは、レンガが結ぶ縁だったわけです。
 なお、東京駅、万世橋駅、日本銀行、警視庁の設計は辰野金吾。辰野は渋沢邸の設計もしています。

兜町の渋沢邸
兜町の渋沢邸にあった舞踏室(辰野金吾設計)

 というわけで、日本煉瓦製造の煉瓦建築を一挙公開!

焼失前の東京駅
焼失前の東京駅

慶應義塾の図書館
慶應義塾の図書館

横浜正金銀行
横浜正金銀行

東京商業会議所
東京商業会議所(写真右手。左手は多分、明治火災&明治生命保険)

横浜開港記念館須田町の鉄道橋
現在の横浜開港記念館、東洋一と言われた須田町の鉄道橋

旧丸ビル
旧丸ビル
 

 さて、日本の近代建築を支えた深谷のレンガですが、大正12年(1923)の関東大震災で耐震性が問題になり、需要が激減してしまいます。建築資材はレンガからコンクリートへと代わり、レンガはもはやガーデニングや装飾くらいしか使われません。
 そんなわけでここ数年の日本煉瓦製造の生産量は年間約300万個と低迷し、さらに原油高などの悪条件が重なり、約120年続いた名門企業は2006年6月29日、自主廃業となったのでした。

関東大震災で炎上する警視庁
関東大震災で炎上する警視庁


制作:2009年3月28日


<おまけ1>
 日本煉瓦製造はセメントの影響をもろに受けたわけですが、資材がシフトする流れのなかで秩父セメント(現・太平洋セメント)を設立しています。初期メンバーだった諸井恒平が創設したのです。
 現在、深谷のレンガ産業はほぼ壊滅していますが、瓦産業は残っています。ただ、原料の土が年ごとに枯渇し、低品位化する一方のため、存続の危機にあります。セメントがなかったとしても、レンガ産業には未来がなかったんでしょうね。
 なお、れんがの標準サイズ(JISサイズ)は、長さ21cm、幅10cm、高さ6センチ、重さ2.4kgと決まっているそうですよ。

<おまけ2>

 現存するホフマン窯は日本煉瓦製造以外に以下の3つしかありません。
・下野煉化製造会社(栃木県下都賀郡野木町)
・神崎煉瓦(京都府舞鶴市)
・中川煉瓦製造所(滋賀県近江八幡市)
 経産省は2007年末に33の近代化産業遺産群を発表しましたが、もちろんレンガも選ばれました。正確には「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群」です。

日本煉瓦製造
日本煉瓦製造の工場跡に残された1906年建造の旧変電室。深谷で最初に電灯線が引かれました(重要文化財)
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