大砲で国防を!
ニッポン「製鉄」の始まり

アメリカ海軍のボートホーウィッスル砲車
アメリカ海軍のボートホーウィッスル砲車(江川邸)


 ペリー来航を知った福沢諭吉の兄は、諭吉に「オランダ語の原書を読まないと」と訴えます。

《そのころは丁度ペルリの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でもみな知って、同時に砲術と言うことが大変喧(やかま)しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆オランダ流に就いて学ぶので、そのとき私の兄が申すに「オランダの砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬ」と言う》(福沢諭吉『福翁自伝』)

 ペリー来航によって喫緊の課題となった砲術(つまり国防)技術は、いかに成立したのか? 今回は製鉄技術にからめ紹介していきます。

 幕末の長崎出島、ここに一人の砲術家がいました。名は高島秋帆。

高島秋帆
高島秋帆(1798-1866)


 オランダ人から西洋砲術の新知識(蘭学)を吸収していた高島は、アヘン戦争(1840)で清がイギリスに負けたのを目の当たりにし、長崎奉行に西洋砲術の採用を建白します。危機感を募らせていた幕府は、さっそく高島を江戸に召還しました。

 天保12年(1841)5月、高島は、徳丸ヶ原(板橋区高島平)全域で日本初の大砲を使った軍事訓練を指揮、人々を驚愕させます。

日本初の大砲軍事訓練
日本初の大砲軍事訓練


 高島は得意の絶頂になりますが、反蘭学の漢学派が謀反の罪を着せ、獄中に入れられてしまいます。

ペロトン笠、トンキョ笠
高島が発明した軍帽(ペロトン笠、トンキョ笠などと称される)


 1853年、ペリー来航
 伊豆・韮山の代官だった江川太郎左衛門(江川英龍)は、幕府に砲台設置を進言します。場所は品川沖の台場。ここにいたって、ようやく蘭学は公認されることになりました。

お台場の模型
江川邸に残されたお台場の模型


 江川は獄を出た高島に師事し、新しい国防の基礎を築きますが、問題は山積みでした。もっとも困ったのが大砲の製造。当然のことですが、大砲の国産化には製鉄工場が必要だったからです。

江川英龍
江川英龍


 そこで江川は、地元・韮山に反射炉を作ることになりました。テキストは、オランダ人ヒュゲェニンが書いた『ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造砲』でした。

 砂鉄と木炭を炉に入れ高温で燃やすことで、銑鉄が出来る。これがいわゆる「たたら製鉄」。反射炉の炉内はアーチ状に作られていて、天井に熱が反射、輻射熱を利用するこで熱効率があがる仕組みです。

韮山反射炉
現存する韮山反射炉

韮山反射炉
完成当初の韮山反射炉


 耐火煉瓦の作成など苦労が続くなか、安政2年(1855)、江川はこの世を去りました。しかし、江川の死後も作業は続き、この年、最初の炉ができ、2年後にほぼ完成しました。記録によれば、この炉から大小100基近い大砲が作られたとされています。

 なお、日本初の反射炉は佐賀藩によるもので、1850年のことです。その後、薩摩藩(1853年)、長州藩(1858年?)などで作られました。韮山の反射炉は佐賀藩の支援の下、完成しています。

萩反射炉
萩の反射炉


 無念の死を遂げた江川ですが、軍事上の業績は数知れません。
 大砲の制作に加え、軍隊食としての乾パンの制作、軍隊用語の整備(「気をつけ」「前へ習え」「捧げ銃(つつ)」)、戸田の造船などなど。門下生も1000人を越え、まさに近代日本の礎を作ったといっても過言ではないのです。

パン焼き器(江川邸)
パン焼き器(江川邸)


 最後に、冒頭で触れた『福翁自伝』から、こんな場面を。福沢諭吉は、江川に憧れて薄着を始めたという記述です。

《あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷(あわせ)一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸(ちょい)と聞いて、なにそのくらいのことは誰でも出来るというような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻(かいまき)一枚着で敷布団も敷かず畳の上に寝ることを始めた》

 1801年に生まれた江川英龍。まさに日本の19世紀を具現したような存在でした。

大筒
大筒


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更新:2017年9月26日

<おまけ>
 江川邸には、日蓮聖人が火事にならないよう祈願した防火札があります。「棟札箱」に納められ、天井の一番奥に設置されています。このあたりの信心深さも面白いところです。

日蓮の棟札箱
棟札箱(中央の白い四角)
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