「生糸で軍艦を」ニッポン養蚕史
知られざる密売のシルクロード

糸繰り
糸繰り(『蚕飼絹篩大成』)


 歌手の松任谷由実は、東京都八王子市で1912年(大正元年)から続く老舗呉服店に生まれました。八王子はかつて生糸・織物で大繁栄した町で、現在も「八王子織物」として反物やネクタイなどが生産されています。

 実は、八王子は江戸時代から生糸の集積地となっていて、信州(長野)、甲州(山梨)、武蔵(埼玉)などの産品のほとんどがこの町経由で江戸に流れていきました。
 そして、開国後は、八王子の商人が中心となって生糸を横浜に流し、それが外国へ輸出されました。
 今回は、かつて日本に存在した壮大な「絹の道(シルクロード)」の跡をたどります。

カイコガ
カイコガ(下仁田町歴史館)


【長野】

 岐阜県高山市と長野県松本市の県境に「野麦峠」があります。明治の初めから大正にかけて、飛騨の多くの少女が諏訪地方にある製糸工場に働きに出ました。その悲惨な労働ぶりを描いたルポが『あゝ野麦峠』です。作品に出てくるもっとも有名な人物が、飛騨出身の女工・政井みね。重労働で体を壊したみねは、兄に背負われ故郷に戻る途中、野麦峠で「あぁ、飛騨が見える」と言って息を引き取ります。まだ20歳でした。

煮繭場
煮繭場(松本市歴史の里)


 製糸工場の労働は単純作業なので、10歳に満たない少女を半ば騙して女工として働かせました。

《何(なん)ぼ音無(おとな)しい小羊のような女でも背丈のびれば多少の不平も口にしようし、給金も増してやらねばならん。そこで一人前の女よりか子供をだまして使った方が、結局はるかに得なことになった。給料の廉(やす)い不平を言わぬ少女たちを鞭(むち)打って酷(こ)き使おうと思いつき、10才にもなった少女は大威張り、8、9才からつれて来ようとする方法を執ったのである》(『女工哀史』)

『あゝ野麦峠』の作者は松本市出身の山本茂実。当時の取材資料などが、「松本市歴史の里」に残されています。

座繰り場
座繰り場(松本市歴史の里)


 蚕のエサとなる桑は、寒冷地で育つうえ、干ばつにも強い植物です。寒いと害虫も少ないので、諏訪地方は昔から養蚕が盛んでした。諏訪の製糸業の繁栄を今に伝える伝える建物が片倉館。世界恐慌の前年に建てられた豪華な厚生施設で、大理石の彫刻や、100人は入れる巨大な「千人風呂」で有名です。

 この建物を建てたのが、日本最大(世界最大とも)の製糸企業「片倉工業」の2代目、片倉兼太郎。当時、日本の輸出総額の約4割が絹製品で、片倉財閥はシルクエンペラーなどと称されました。

【群馬】

 昭和に入り、片倉工業3代目の片倉兼太郎は、群馬県の「富岡製糸場」を獲得することに成功します。
 富岡製糸場は、1872年(明治5年)年に設立された日本初の官営製糸場です。お雇い外国人ポール・ブリュナによって寄宿舎制や8時間労働が採用された近代的な工場ですが、なぜ富岡だったのか。

 その理由は、もともと養蚕が盛んで、旧陣屋の広大な土地があったこと、そして大量の水と石炭が確保できたからです。

自動繰り糸機(富岡製糸場)
自動繰り糸機(富岡製糸場)


 富岡製糸場から20キロほど山奥の下仁田町には、蚕種(蚕蛾=カイコガの卵)の貯蔵施設「荒船風穴」があります。卵の保存が可能になったことで、年に1度しかできなかった養蚕が年に4回ほどできるようになりました。養蚕農家は蚕種を購入し、孵化させて蚕を飼育し、繭を生産するのです。

荒船風穴
荒船風穴


 生糸は、繭を煮て、糸を取り出しやすくしてから、複数まとめて糸に縒(よ)っていきます。もともと生糸作りは手作業の「上州座繰り」が主流でしたが、品質に差が出るため、機械化が進みます。

 繰糸機は、富岡製糸場に導入されたフランス式と、前橋製糸場や小野組(諏訪市)で使われたイタリア式がありました。双方のメリットを合わせ、コストを抑える機械「諏訪式」を開発したのが中山社の武居代次郎です。最盛期は国内の繰糸機の3分の2を占めました。この諏訪式によって長野県の岡谷が生糸の一大生産地となっていきます。

【横浜】

 1853年(嘉永6年)、ペリーが来航し、1859年、横浜が開港。
 横浜で生糸貿易を最初に行った商人の名前は2人伝えられています。ひとりは上州生まれの芝屋清五郎。イギリス人イソリキに甲州の生糸を売ったとされています。もうひとりは甲州商人の篠原忠右衛門で、こちらもイギリス人に甲州産生糸を売りました。どちらが先なのかはよくわかりません。

横浜港
開港直後の横浜港


 開港直後の横浜でもっとも生糸を売ったとされるのが、上州生まれの中居屋重兵衛。しかし、幕府から営業停止命令を受け、わずか2年ほどで没落しました。
 続いて、上州生糸を独占した吉村屋の吉田幸兵衛あたりが躍進します。

 その後、生糸貿易の中心となったのが茂木惣兵衛と原善三郎です。
 惣兵衛の「野沢屋」(後の茂木合名会社)は、生産地から直接生糸を仕入れ、横浜でトップの売り上げを誇りました。そのライバルが善三郎の「亀屋」(後の原合名会社)。

 開港以来、生糸貿易の主導権は外国商人に握られており、日本側には価格決定権がありませんでした。そのため、2人が中心となって日本側商人に連帯を呼びかけます。善三郎は生糸の品質検査を行う「横浜生糸改(あらため)会社」の社長を経て、第二国立銀行(現・横浜銀行)頭取などの要職に就き、横浜経済界を牛耳っていきます。

横浜港
発展した横浜港


 1920年、世界的な株価暴落で生糸価格も大暴落し、茂木合名会社は破綻。その処理を担当したのが善三郎の後継者・原富太郎です。富太郎はニューヨークやモスクワに駐在員を置き、輸出を拡大させます。自ら「原三渓」と名乗り、横山大観や安田靫彦、前田青邨らの日本画家を支援。広大な邸宅は後に「三渓園」として整備されました。

 もともと富岡製糸場を持っていたのは原合名会社ですが、昭和恐慌のあおりを受け経営が悪化、昭和14年(1939年)に富岡製糸場を片倉工業に売却しています。

 横浜港の輸出を見ると、1860年(万延元年)年で輸出総額の7割を、1914年(大正3年)で6割を生糸が占めていました。1940年(昭和15年)で、ようやく3割まで落ちていますが、長らく横浜は生糸輸出で支えられてきました。

【八王子】

 横浜商人は「売込商」と呼ばれ、外国商人への販売権を独占していました。要は生糸を外国に売るのが仕事です。では、誰が横浜まで産品を運ぶのか。

 その役割を担ったのが八王子の鑓水(やりみず)に住む商人たちです。江戸時代には江戸商人が生糸を八王子から江戸に運びましたが、開国後は鑓水商人が八王子から直接、横浜に運びました。

絹の道
絹の道


 利権を奪われた江戸商人、特に全国の産品を特権的に扱っていた「大店(おおだな)」は、幕府に窮状を訴えます。その結果、開港の翌年、生糸・呉服・蝋(ロウ)・雑穀・油の5品を必ず江戸の問屋を経由させよという「五品江戸廻送(かいそう)令」が発布されます。江戸への入荷が減ったため、価格が高騰したというのが建前上の理由です。

 これは、外国からの抗議もあり、徐々に有名無実化しますが、その間も鑓水商人たちは密売を繰り返していました。

《(廻送令撤廃の)交渉が行なわれている間にも、相当数の密買易があったらしい。当局は本牧、品川、その他で約1000梱(こり)を押収した》(『アメリカ彦蔵自伝』)

 密売は儲かるため、群馬の生糸でさえ江戸を迂回し、八王子を経由して横浜に流れました。

カイコが繭を作る「まぶし」
カイコが繭を作る「まぶし」とよばれる藁(絹の道資料館)


 この世の春を謳歌した鑓水商人には、多くの成金が誕生します。しかし、それゆえカネをめぐるトラブルが頻発します。現在、「絹の道資料館」が建っているのは八木下要右衛門の屋敷跡ですが……。

《「鑓水商人といえば、八木下要右衛門がすごい景気だった。ところが3代目がやくざな息子でな、遊蕩三昧だったらしいベ。吉原へ行って大門ぶった。吉原を1人で1日買いきり、あとの者は門へ入れなかったってことだ。女を自分の周りに集め、膳の上に札をもった。それで親父もあきれはて、善八と名を改めて家督はゆずったが、有金全部持って隠居しちまった。3代目の息子は金を費(つか)いきって親父の家に無心に来たが、雨戸を内側より押えて開けねえ。あけろあけろと怒鳴ったのに知らん顔だったから、カッとした息子は雨戸越しに槍で一突きに突き殺しちまった」》 (辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』)


鑓水の石柱
「此方 八王子」と書かれた鑓水の石柱


 鑓水には現在も「絹の道」が残されていますが、途中の山中に「道了堂」というお堂がありました。1909年(明治42年)、ここに28歳の浅井としが入山します。

《山中の孤立した堂宇をたった1人で守っている若い女行者への興味もあった。そのうえ、多分に巫女的な雰囲気を持っていたことが、おのずと人を集めた。村の者より、よそからの者のほうが多く、凶事や願いごとにとお札や祈祷に通った。(中略)初めは親身になって堂のことを心配してくれていると思っていた寺僧や村の有力者が、自分を<女>として見ていたことに気づいたときには、すでに身ごもっていた》

 としはその後も父親がわからない妊娠を繰り返します。そして、1963年9月10日、行きずりの男に殺されました。

《本堂の傍の一室で、入り口に頭を向け、咽喉と左胸部を鋭い刃物でえぐられ死んでいた。死体には座布団がかぶせられ、奪われたのは、駄菓子を売ってためた僅か300円の金だけであった》(『呪われたシルク・ロード』)

 1983年には、道了堂自体が不審火による火災で焼失しています。

道了堂跡
道了堂跡


 絶頂だった鑓水商人たちの春も、長くは続きませんでした。
 1889年(明治22年)、甲武鉄道(後の中央線)が八王子まで延長され、新宿まで鉄道がつながったからです。鑓水商人たちの活躍の場は奪われ、姿を消していきます。

 鉄道は、群馬県の高崎線が最初に全線開通しました。

 1884年(明治17年)、高崎線が全線開通
 1889年(明治22年)、甲武鉄道(後の中央線)八王子—新宿開通
 1993年(明治26年)、信越線が全線開通

 なかなか鉄道が延びなかったのが山梨です。山に囲まれた甲府盆地から横浜へは、馬で甲州街道を行くか、富士川を船で下り、東海道で横浜へ抜けるルートしかありません。そこで、「甲州財閥」と呼ばれた若尾逸平らが鉄道敷設を進め、1903年(明治36年)、中央線が甲府駅まで延長されました。甲州街道で2日以上かかっていたのが、わずか6時間に短縮されました。こうして山梨の生糸も生産が拡大していきます。

鉄道網
当時の鉄道網(古河も小山も製糸で有名)

【下田】

 生糸はなぜ日本の特産品となったのか。幕末、ヨーロッパでは蚕の伝染病「微粒子病」が大流行し、生産地は壊滅的な打撃を受けました。最大の輸出国だった中国はアヘン戦争や太平天国の乱などで混乱しており、欧米諸国が目を付けたのが日本でした。
 
 一般にペリーは「捕鯨基地」を求めて日本に開国を迫ったとされますが、実は生糸が欲しかったのも大きな理由です。

ペリー上陸碑
ペリー上陸碑(下田)
 

 江戸の近海に異国船が姿を現すようになると、下田を管轄する代官の江川太郎左衛門(江川英龍)は、下田の警備に乗り出します。
 江川英龍は国防に熱心で、西洋砲術を導入し、鉄を作る反射炉の建造にも取り組んでいます。
 江川は東京湾にお台場を作るよう具申し、鑓水の商人・大塚五郎吉に築造用の松の丸太を切り出させています。

下田の1829年製カロネード砲
下田に残された1829年製カロネード砲


 なぜ下田を支配する江川が、八王子・鑓水の商人を使えたのか。
 これは簡単な話で、江川の支配地はいまの神奈川県、静岡県・山梨県・東京都、埼玉県を含む広大なエリアだったから。もちろん、八王子も支配地に含まれていました。

 日米和親条約によって、日本で初めて下田が開港します。その後、下田は閉鎖され、寒村だった横浜が開港します。八王子から横浜に至る道は、ほぼ江川の管轄下でした。天領であれば厳しい監視があったはずなのに、なぜか密売が横行していました。おそらくは巨額の上納金があったことで、お目こぼしされていたのです。

 もちろん、鑓水商人でも捕まった平本平兵衛などがいますが、大塚五郎吉は黙認されたまま。江川の庇護を受けた大塚五郎吉は、横浜の原三渓と組んで生糸の売買に乗り出すのでした。

横浜港からの生糸の輸出
横浜港からの生糸の輸出

【再び横浜】

 生糸の輸出が爆発的に増えた結果、粗製濫造で質が落ち、日本製の信用は失墜します。価格は暴落し、養蚕農家は経営が困難になりました。そのため、神奈川の「漸進社」など、全国で品質向上を図る共同組織が増えていきました。
 たとえば、埼玉県川越市の養蚕団体の内部資料(1920年)には「投げ売りによる悲惨の損失を免れる」と書かれています。

養蚕団体の内部資料
川越の養蚕団体の内部資料


 政府も品質向上に取り組み、1896年(明治29年)には、横浜に生糸検査所が設立されました。

旧生糸検査所
横浜の旧生糸検査所


 生糸の評価基準は以下の通りです。

・色相 白繭=白、笹味、黄味、褐味、黝味(あおぐろい)の5段階
    黄繭=黄、赤味、黝味の3段階
・光沢 底光、並、上光の3種類で、それぞれ強並弱の3段階
・手触 硬軟=硬並軟の3種類
    滑粗=滑並粗の3種類

 ほかに、粒が揃っているか(4段階)、荷造り(4段階)などのチェックがありました。

 生糸検査所は現在、横浜第2合同庁舎になっていますが、その正面には、飛び立とうとするカイコガ(蚕蛾)と桑の像があります。

旧生糸検査所
生糸検査所の蚕蛾


 1909年(明治42年)、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国となり、日本の絹は世界を席巻します。最盛期は世界生産の7割を占めました。日本は巨額の外貨を獲得し、それが軍事力の強化につながりました。日露戦争の旗艦「三笠」はイギリス製ですが、支払いに生糸の売り上げが貢献したのは間違いありません。まさに「生糸で軍艦を買った」のです。

旧帝蚕倉庫
生糸を保管した旧帝蚕倉庫(横浜)


 しかし、昭和以降、人工絹糸の登場や安い海外産に押され、製糸産業は斜陽化していきます。
 そして2008年、国は繭代の9割を補ってきた補助金を廃止し、国内の養蚕はほぼ壊滅しました。
 最盛期の1929年に約221万戸あった養蚕農家は、2008年、わずか1021戸のみとなっています(農水省「蚕業に関する調査」による)。


制作:2017年9月25日


<おまけ>

 日本最古の養蚕の記録は『日本書紀』で、雄略天皇が皇后に飼育を指示したという記述があります。皇居内には桑畑が3カ所あり、現在も皇居の紅葉山御養蚕所で養蚕は続いています。ちなみに、御養蚕所で飼われているカイコで一番多いのは日本の在来種「小石丸」だそうで、美智子さまが熱心に世話をしているそうです。

 日本に養蚕が伝わったのは茨城県の筑波とされており、ここにある「蚕影(こかげ)神社」が全国を代表する養蚕の神様です。当然ですが、茨城県は古くから蚕が飼われており、地名も養蚕がらみが多いといわれます。たとえば「鬼怒川」は「絹(きぬ)がわ」、「小貝川」は「蚕(こ)飼いがわ」が語源とされますが、本当かどうかは定かではありません。

カイコ
カイコ
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