竹槍300万論
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竹槍でB29を落とせ!
修養が実戦兵器になるまで
竹竿訓練
歌人の斎藤茂吉が経営していた青山の脳病院は、1945年(昭和20年)になると、物資不足で運営が不可能になってきました。そのため、茂吉は院長職を辞し、山形県金瓶(かなかめ)に疎開します。茂吉は、当時の様子をこう書いています。
《5月25日には、東京の病院も家も全焼してしまった。自分の金瓶に行ったころは、村民が竹槍の稽古をしていた時分で、競馬場あとに村民が集まり、寺の住職などもそこで竹槍の稽古をした。それから、役場には手榴弾の見本と称するものが2つ置かれてあって、追々は国民全部に1つぐらいずつ渡されるということであった》(『三年』)
太平洋戦争末期、敗戦色の濃くなった日本では、「竹槍でB29を落とせ」といった精神論が強くなりました。
当たり前ですが、竹槍で飛行機を撃墜することはできません。そんなことは誰でもわかっていますが、しかし、日本では長らく
銃剣術
という教練があり、竹槍も「大和魂」を涵養する方策として使われることになりました。
竹槍訓練
竹槍は、1942年には全国民に訓練が義務づけられました。
その訓練方法は、教育総監部が1943年に出した『竹槍術訓練ノ参考』にまとめられています。以下、その内容をまとめておきます。
『竹槍術訓練ノ参考』
【心構え】
1. 白兵戦は、使術簡単にして、精練なるもの、よく勝ちを制す。
特に、竹槍訓練は、反復(の)労を厭わず訓練を重ね、みずから使術の真髄を体得し、必勝の信念を養成すること、緊要なり。
2. 刺突は、勇猛果敢、先を制し、一突き必殺の意気をもって敵を圧倒すること、緊要なり。
3. 刺突奏功の要訣は、充実せる気勢、確実なる使術、正確なる姿勢、すなわち気、槍、体の一致活動にあり。ゆえに、刺突はすべてこの要旨に合致すること、緊要なり。
4. 竹槍は、君国のため、外敵に対する場合にのみ使用するものにして、これにより心身を陶冶(とうや)し、使術を修得するを主眼とす。
5. 竹槍といえども、あやまって人に危害を及ぼすのおそれあるをもって、その取り扱いを慎重にするを要す。
【訓練方法】
竹槍の長さは、大人用が長さ1m70cmまたは2m、直径4cm。子供用が長さ1m50cm、直径3.5cm。
先の部分は約20度に切り、弱火で火を入れた後、植物性の油を塗る。竹自体は生のものでも構わない。
竹槍の種類
まずは「不動の姿勢」から。竹槍は削ったほうを左に向け、右手で握る。手首はやや前に向ける。「気をつけ」と言われたら、この姿勢を取る。
続いて、「構え」と言われたら、敵をにらみつけたまま、右足をやや右に向け、左足を半歩前に出す。
右手は、竹槍の後ろから20cmくらいのところを持ち、腰骨のあたりに。切断面はやはり左のまま、左肘をわずかに上げる。
「前へ」と言われたら、姿勢を崩さず、腹部に力を入れたまま、重心を水平に保ちながら前に進む。「後へ」はその逆。
「突け」と言われたら、上体をまっすぐにしたまま、右手を左乳のあたりまで突き出す。このとき、右肘はほぼ直角になる。左肘は十分伸ばすように。突き刺す瞬間には、竹槍を強く握ることが肝要。
腰の力を使う場合は、やはり上体はまっすぐのまま、わずかに左膝を曲げて、腰の動きと突く動作を一致させる。
これはその場でする動作で、踏み切って突く場合もある。
「続いて突け」で、この動作を反復し、「突っ込め」で走り込んで突く。突っ込む際は10m以上を「ワアー」と腹の底から大声を出す。
仮標
(イではなくロのように配置すれば、あらゆる角度から突ける)
走り込みが終わったら、「仮標」を設置し、これに向かって再び突く訓練を行う。
複数の仮標に対し、「必勝を確信して、突入・刺突する動作に習熟」すれば合格。実際の敵だと思い、「一突必殺の域」まで達すれば合格。
以上が、竹槍術のすべてです。
仮標はワラや笹草で作った標的ですが、都会でこんな標的をいちいち作るわけにいきません。いったいどうやって手配したのか。
こうした軍教品には、やはりちゃんとメーカーがありました。最大手は、文房具メーカーの「コクヨ」です。
人像仮標
撃突台
コクヨは、1905年(明治38年)年、富山出身の黒田善太郎が、大福帳の表紙の厚紙を製造したことに始まります。社名は、「国の誉れに」との思いから「国誉」と命名されました。教練や学校、軍に必要な物資を納入することで、成長していきました。
当時のカタログには、仮標だけでなく、木製の銃や、銃の掃除用品、避難訓練グッズなどが載っています。冒頭で登場した斎藤茂吉が見た「手榴弾の見本」のようなものも販売されています。
木製銃
さて、前述のとおり、竹槍でB29を撃墜できないことは誰でもわかっています。では、どうして、こんな精神論が蔓延していったのか。
「竹槍で国防する」という概念は、陸軍の軍人である荒木貞夫が語った「竹槍三百万本論」が始まりです。
この論は、もともと1933年春、荒木が外国人記者に語ったのが最初とされます。
同年7月、「非常時の認識と青年の覚悟」という講演で、荒木はこう語っています。
《昔から『天の時』は『地の利』にしかず(=勝てず)、『地の利』は『人の和』にしかず、といって、この和ということが一番大事で、ただそれ一つ で事足るのである。
軍事費が非常に余計にかかっていかんというならば、もう要塞を全部たいらにし、兵器を全部しまいこんで、この9000万国民が一致して、人と人 との和、皇室と日本道をいただいたならばよろしい。
そうすれば、国防のために竹槍300万本を備えておきさえすれば、それでもうたくさんだと、私は思います。
竹槍300万本くらいの費用は、いくらの費用にもならぬのである。毎年、甲州から新しい竹を切って槍を作ったところで、300万円はいらないの である。その他の軍事費をもって、生産費、教育費に充てれば、まことに結構である。
もし軍備にして最も必要なるものといえば、第一に人の和である。しかして人の和は、お互いが日本人であるという自覚の上に立ってこそ、そこに強 い人の和が得られるのである。》(河崎顕了『処世要道』による)
荒木貞夫は、1938年に文部大臣に就任すると同時に「皇道教育」の強化を打ち出します。国民精神総動員のトップも務めており、思想面の戦時体制作りを推進していきます。
竹槍は、「人の和」を作るための方便で使われた言葉でした。
明治大学の銃剣訓練
1944年2月23日、毎日新聞の1面に「戦局は茲(ここ)まで来た 竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」という見出しが躍ります。記者の新名丈夫が、精神論だけでは勝てないと書いた記事です。
これに、東條英機が激怒します。どうしてかというと、連戦連敗が続いていた軍に業を煮やした東條は、首相・陸軍大臣・軍需大臣に続き、参謀総長を兼任。軍の指揮権を握り、所信表明で国民の決起団結を訴えます。
竹槍記事は、所信表明の解説記事なのに、あきらかに陸軍を批判したものだったのです。
実は、記事を書いた新名は海軍省記者クラブ「黒潮会」のメンバーで、この記事は「海軍記者の陸軍批判」という意味に取られました。
海軍はもちろんこの記事を喜びますが、陸軍の東條は激怒し、強度の近眼で懲兵免除だった37歳の新名を、丸亀連隊に1人だけ「懲罰召集」します。これが、いわゆる「竹槍事件」です。
東京音楽学校の訓練
1944年7月、日本はサイパンを失い、東條内閣は退陣。辞任直前、東條は「戦いはこれから 一億決死覚悟せよ」という談話を発表しますが、以後、日本は「竹槍を持って頑張ろう」という精神論(竹槍主義)に頼ることになります。7月19日の読売報知新聞には、「米鬼を粉砕すべし 武器なきは竹槍にて」という見出しが躍りました。
たとえ竹槍でも、パラシュートで降下してきた米兵を殺すことはできます。さらに、上陸して来た米兵を殺すことも可能です。
高等女学校では、もともと薙刀をやることが多く、それが銃剣に変わり、銃剣もなければ竹槍での訓練となりました。訓練が地方に広がるにつれ、銃剣のない場所では竹槍を使うケースが増えたのです。
薙刀(修徳館の開館式)
竹槍術は、突進して敵を殺すにはうってつけでした。同時に、より確実に敵を殺すという意味で、場所によっては、婦女子も銃の訓練を受けるようになります。
射撃訓練
1945年4月25日、大本営陸軍部は、新聞連載をまとめた『国民抗戦必携』を刊行。
これは国民に白兵戦を訴えたもので、「銃、剣はもちろん刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能(=カナヅチ)、出刃庖丁、鳶口に至るまでこれを白兵戦闘兵器として用いる」と書かれていました。
修養の面が強かった銃剣術が、いつのまにか竹槍という最終兵器になっていくのです。「竹槍でB29を落とす」という精神論は、
「鬼畜米英」
とともに、確実に日本中に広まっていったのでした。
銃剣訓練
制作:2018年9月28日
<おまけ>
新名丈夫の徴兵に対し、海軍は「大正時代の兵役免除者を1人だけ徴兵するのはなぜか」と陸軍に抗議します。あわてた陸軍は同じような兵役免除者250人を召集します。新名は3カ月後、海軍報道班員としてフィリピンへ送られ、生還しますが、このとき召集された250人は硫黄島に送られ、全員玉砕しています。
陸軍と海軍のメンツ争いに巻き込まれ、非業の死となった格好です。
<おまけ2>
敵のパラシュート部隊が来たら、剣で突き殺すという考えは、別段、日本独自のものではありません。
1940年には、ドイツの落下傘兵を刺し殺すべく、イギリスで訓練が行われています。銃剣がなければ、竹槍でも役立ったのは間違いないのです。
イギリスの対落下傘兵訓練
<おまけ3>
以下、『竹槍術訓練ノ参考』を完全公開しておきます。
まずは習技者用。
以下、指導者用