日露戦争年表

新橋駅に凱旋した東郷平八郎
新橋駅に凱旋した東郷平八郎ご一行様
(その他の凱旋門はこちら)


 夏目漱石は日露戦争で勝利に沸く日本を、『三四郎』のなかで「滅びるね」と突き放して書いています。また、与謝野晶子が『明星』で旅順攻略中の弟を思って「君死に給ふこと勿れ」と嘆いたのも有名な話です。
 ところが一方、田山花袋は『第二軍従征日記』で、敵の火薬庫の大爆発を見て森鴎外とこんな会話をしたと記録しています。

《「実に、君、好い処を見たね?」と声を懸けられたので、振返ると、それは森軍医部長(=森鴎外)であった。「実に壮観でした!」「もう、かういふ面白い光景は見られんよ」「何(ど)うも、実に!」自分は只恍惚として居た》

 さらに言えば、ジャーナリストの横山健堂は、旅順陥落を観劇中に聞いて涙したとも書いています。おそらくこれが多くの日本人の反応だったんでしょう。
 というわけで、まずは総論としての日露戦争です。今後、ここから壮大なリンクが張られる予定です(予定!)。


明治37年(1904年)

02月04日 御前会議でロシアとの国交断絶&開戦を決定
02月06日 ロシアに国交断絶を通告
02月08日 仁川に上陸。旅順口を奇襲
02月09日 仁川沖でロシア軍艦と交戦、コレーツなど撃沈
02月10日 日露相互に宣戦布告(日露戦争勃発)

『露国ニ対スル宣戦ノ詔書』

 天佑(てんゆう)ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践(ふ)メル大日本国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲(ここ)ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露国ト交戦ノ事ニ従フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ権能ニ応シテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ凡ソ国際條規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

 惟(おも)フニ文明ヲ平和ニ求メ列国ト友誼(ゆうぎ)ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各国ノ権利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝国ノ安全ヲ将来ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕夙(つと)ニ以テ国交ノ要義ト為シ旦暮(たんぼ)敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕カ有司モ亦能(よ)ク朕カ意ヲ体シテ事ニ従ヒ列国トノ関係年ヲ逐(お)フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル豈(あに)朕カ志ナラムヤ

 帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス韓国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露国ハ其ノ清国トノ明約及列国ニ対スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然満洲ニ占拠シ益々其地歩ヲ鞏固(きょうこ)ニシテ終(つい)ニ之ヲ併呑セムトス若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素(もと)ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ和ヲ恒久ニ維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露国ニ提議シ半歳ノ久シキニ亘リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露国ハ一(ひとつ)モ交譲ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日弥久(こうじつびきゅう)徒(いたずら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽ニ平和ヲ唱道シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス凡ソ露国カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫(ごう)モ認ムルニ由ナシ露国ハ既ニ帝国ノ提議ヲ容レス韓国ノ安全ハ方(まさ)ニ危急ニ瀕シ帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲(ここ)ニ至ル帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓(きこ)ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼(いらい)シ速(すみやか)ニ平和ヲ永遠ニ克復(こくふく) シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

御名御璽

  明治三十七年二月十日



02月11日 宮中に大本営設置
02月23日 日韓議定書調印
02月24日 第1次旅順口閉塞作戦

旅順港内に停泊中のロシア艦
旅順港内に停泊中のロシア艦

03月27日 第2次旅順口閉塞作戦。広瀬武夫少佐戦死で軍神第1号に
05月03日 第3次旅順口閉塞作戦
05月25、26日 金州・南山の戦い、乃木希典大将の長男勝典死亡
06月20日 満州軍総司令部を設置
(総司令官に大山巌元帥、総参謀長に児玉源太郎大将、参謀総長に山県有朋元帥、参謀次長に長岡外史中将が着任)
08月10日 黄海海戦

黄海海戦
黄海海戦
(左から富士、朝日、三笠)


08月14日  蔚山(うるさん)沖海戦

蔚山沖海戦で撃沈するリューリック
蔚山沖海戦で撃沈するリューリック

08月19日 第3軍、第1回旅順総攻撃(日本軍の死傷1万5860人)
08月22日 第1次日韓協約締結
09月04日 遼陽占領(このとき日本初の花電車が)

日本軍入城の日の遼陽西門
日本軍入城の日の遼陽西門

09月19日 第2回旅順総攻撃開始(日本軍の死傷3830人)
10月10日 沙河でロシア主力部隊を攻撃
11月26日 第3回旅順総攻撃
11月30日 乃木希典の次男保典、203高地で死亡

203高地の惨状
203高地の惨状(イラスト)

12月05日 203高地占領(日本軍の死傷1万6935人)


明治38年(1905年)

01月01日 旅順陥落
(敵将ステッセルが降伏の使者を出したのが元旦、調印が1月2日)
01月05日 乃木、ステッセル両司令官が水師営で会談
01月13日 旅順に日本軍入城

乃木第3軍、旅順入城
乃木第3軍、旅順入城(午前10時20分)


01月22日 ロシアで「血の日曜日事件」
03月10日 奉天占領(日本軍の死傷7万28人)
 →奉天を占領した3月10日を陸軍記念日に制定

満州軍総司令部が奉天入城
03月15日、満州軍総司令部が奉天入城。先頭から4人目が大山巌元帥。


05月27、28日 日本海海戦でバルチック艦隊撃破  →日本海海戦で勝利した5月27日を海軍記念日に制定

06月09日 セオドア・ルーズベルト米大統領、講和を勧告
07月29日 桂−タフト協定成立
07月31日 日本軍が樺太全島平定

樺太完全占領
樺太完全占領
(降伏を伝えるロシア軍の使者)

08月10日 ポーツマスで第1回講和会議
08月12日 第2次日英同盟協約調印
09月05日 日露講和条約調印、日比谷焼打事件

●ある村役人が見た「銃後の日露戦争」(村葬から講和への不満まで)

更新:2004年9月21日


<おまけ>
 日露戦争に勝ったことで、株は暴騰、事業は勃興、いわゆる成金が続出しました。これが日本初のバブル時代。成金たちは、いつでもどこでも札びらを切りまくり、贅沢三昧の大豪遊。下駄の裏金や足袋の留め金を純金にしたり、お茶屋の玄関先で靴が見えないからと札に火をつけて明かりをとったりする大馬鹿者が出現したのでした。

成金
日本画家・尾竹国観のイラストです。

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