東京23区の歴史
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大東京35区の誕生
新宿、池袋、渋谷が「都心」になるまで
東京府庁、東京市庁
箱館戦争終了後の明治2年(1869年)、政府は蝦夷地に太政官直属の
開拓使
を設置し、まもなく「北海道」と改称します。
しかし、北海道全域の開拓は困難だったため、札幌など重要な場所だけ開拓使の直轄にして、ほかは藩や華族・士族に開拓を委任しました。
これを分領支配といい、たとえば釧路は水戸藩、室蘭は元角田藩の石川家、色丹島は増上寺らが名乗りを上げました。
そのなかで、根室の一部を東京府が手に入れました。失業者を送り込むためです。
この分領支配は、北海道の統一的な開拓を進めるため、
廃藩置県
後に終了しますが、この2年間、根室は東京府のものでした。
明治5年(1872年)以来、「大区小区制」により、東京府には6つの大区(その下に97小区)がありましたが、明治11年、
「郡区町村編成法」
により、15区に分かれます。
麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区です。
明治22年、「市制町村制」により、地方自治が推進されます。東京も東京市となりますが、京都・大阪と並び、この3市は特例扱いで、市長の職務は府知事が兼務することになりました。
東京市は、何とか自治を獲得しようと動いた結果、ようやく明治31年(1898年)に特例が撤廃され、東京市役所が完成します。東京市役所開庁の日(10月1日)が、都民の日となりました。
東京市役所の開庁式(1898年11月13日、上野公園)
東京はその後、膨張を続けます。しかし、多くの庶民は、市内ではなく、郊外に住み始めました。
関東大震災
があったこともあり、大正9年(1920年)に217万人いた東京市の人口は、10年後に10万人減少してしまいます。
一方、東京市の周囲にある82町村の合計は、117万人から290万人に激増しました。
東京市の近郊はどんどん都市化が進みますが、その発展に法律や仕組みが追いつきません。
たとえば、東京市内には立派な小学校が建ち、教室も空いているのに、郡部では2部授業が行われていました。教員の給料も、市内だと男性92円、女性71円のところ、郡部では男性81円、女性60円でした。
道路も、市内は立派でも、一歩、郡部に出るとデコボコで狭く、
舗装
のない道路になりました。
東京市民が飲む水はすべて郡部からやってきましたが、浄水場の関係で、郡部の人間は飲むことができません。水道料は、市内は月93銭のところ、渋谷では2円25銭もしました。
法律でいうと、たとえば「都市計画法」は近接の6郡84町村を含有しているため、ちょっとした変更でもいちいち全町村に連絡しなければならず、機能的な運用がまったくできなくなっていました。これは大きな法律ばかりではなく、中央卸売市場、速達郵便、電話、借地法などあらゆる法律やルールで二重行政の不合理が目立ちはじめました。
この感覚はいまではわかりにくいと思うので、もう少し詳しく書いておくと、山手線が環状運転を開始したのは大正14年(1925年)です。それなのに、池袋も新宿も渋谷も品川も「郊外」として虐げられてきたのです。大学でいえば、豊島区の学習院、立教、豊島師範(東京学芸大学)、淀橋区の早稲田…もすべて郊外。毎日80万人の人間が東京市に入ってくる時代に、この不合理の解消は喫緊の課題となりました。
そして、ついに昭和7年(1932年)10月1日、東京市は近隣82町村を合併し、新たに20区を作り上げ、全35区となったのです。当時はこれを「大東京」と呼びました。
大東京地図(クリックで拡大)
新たに作られた20区は以下の通りです。
[旧荏原郡] 品川区・荏原区・目黒区・大森区・蒲田区・世田谷区
[旧豊多摩郡]渋谷区・淀橋区・中野区・杉並区
[旧北豊島郡]豊島区・滝野川区・荒川区・王子区・板橋区
[旧南足立郡]足立区
[旧南葛飾郡]向島区・城東区・葛飾区・江戸川区
この20区も、簡単に名前が決まったわけではありません。もっとも揉めたのは「豊島区」で、最初が巣鴨区、次が巣鴨町を除いた目白区、そして最後に豊島区と決まりました。ちなみに、豊島区の名前の由来は、北豊島の開祖である豊島氏(平安時代から室町時代にかけての領主。1478年に太田道灌の攻撃を受けて滅亡)から来ています。
秘密文書「区行政監察に関する通牒」
この段階で、行政は「東京府」の下に「東京市」が存在しています。よって、区の監察は「東京市」が行い、「東京府」に報告する形となります。
本サイトが入手した東京市役所の内部文書「昭和10年区行政監察に関する通牒」によれば、当時、35区では次のような問題が起きていました。
●麹町区 学校の施設や用品が著しく贅沢
●芝区 租税の徴収方法に疎漏がある
●豊島区 区長の職務の大部分を課長に代行させている
そして、全区共通で「区議の慰労金が多額である」「区議の出張費が多額である」「補助金の範囲や額が不明朗」など、現在に通じる行為が多く見られます。このあたり、昔も今もあんまり変わらないということでしょう。
東京市議会
さて、その後、昭和11年10月1日に、北多摩郡の砧村と千歳村が世田谷区に編入され、現在の東京区部が完成します。
そして、昭和18年(1943年)7月1日、「都制」が施行、東京府と東京市が廃止され、行政を統一化した「東京都」が誕生しました。
政府が提出した「東京都制理由書」には、
《東京は帝都にして、大東亜建設の本拠たり、従て其の行政の挙否は国勢の進展に関する所至大なるものあるに鑑み、真の帝都の性格に適応する体制を確立すると共に、其の行政の統一及簡素化と刷新強化とを図る為、東京都制を制定するの要あり》
とあって、事実上、戦争遂行を効率よく行うための戦時立法だったことがわかります。
東京35区が統合されて23区になるのは、昭和22年(1947年)のことです。
参考までに、新しい20区のマップを公開しておきます。
(クリックで拡大。出典は東京朝日新聞『新東京大観』上下、1932)
制作:2013年12月21日
<おまけ>
大正15年に制定された「東京市歌」を書いておきます。
(1932年刊行の東京市役所『大東京』より、作歌/高田耕甫)
1 むらさき匂ひし武蔵の野辺に
日本の文化の花咲き乱れ
月かげ入るべき山の端もなき
昔の広野のおもかげいづこ
2 高閣(こうかく)はるかに連なりそびえ
都のどよみは渦まきひびく
帝座のもとなる大東京の
伸び行く力の強きを見よや
3 大東京こそわが住むところ
千代田の宮居はわれ等が誇(ほこり)
力をあはせていざ我友よ
我等の都に輝き添へむ
新しい東京市役所の完成予想図