地理教育鉄道唱歌(一)
東海道
東京〜岐阜

品川駅
品川を行く汽車(明治29年)


一  汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
   愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として

二  右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ
   雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも

三  窓より近く品川の 台場も見えて波白き
   海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か

四  梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の
   大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに

五  鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション
   湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで


横浜港
横浜港(明治初期)


六  横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるる大船の
   つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん

七  八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(おおいちょう)
   別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此陰よ

八  ここに開きし頼朝が 幕府のあとは何(いづ)かたぞ
   松風さむく日は暮れて こたへぬ石碑は苔あをし


鶴岡八幡宮
鶴ヶ岡八幡宮(明治29年)


九  北は円覚建長寺 南は大仏星月夜
   片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし 


江ノ島
江ノ島(明治29年)


一〇 汽車より逗子をながめつつ はや横須賀に着きにけり
   見よやドックに集まりし わが軍艦の壮大を

一一 支線をあとに立ちかへり わたる相模の馬入川(ばにゅうがわ)
   海水浴に名を得たる 大磯みえて波すずし

一二 国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず
   箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
(後に「馬車ありて」を「電車あり」に訂正)



小田原 箱根
明治初期の小田原(左)と箱根(右)


一三 いでてはくぐるトンネルの 前後は山北小山駅
   今もわすれぬ鉄橋の 下ゆく水のおもしろさ

一四 はるかにみえし富士の嶺(ね)は はや我そばに来りたり
   雪の冠(かんむり)雲の帯 いつもけだかき姿にて

一五 ここぞ御殿場夏ならば われも登山をこころみん
   高さは一万数千尺 十三州もただ一目

一六 三島は近年ひらけたる 豆相(ずそう)線路のわかれみち
   駅には此地の名を得たる 官幣大社の宮居あり

一七 沼津の海に聞えたる 里は牛伏我入道(うしぶせがにゅうどう)
   春は花咲く桃のころ 夏はすずしき海のそば

一八 鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて
   今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の帰り舟  


富士川
富士川(大正時代?)


一九 世に名も高き興津鯛 鐘の音ひびく清見寺
   清水につづく江尻より ゆけば程なき久能山

二〇 三保の松原田子の浦 さかさにうつる富士の嶺を
   波にながむる舟人は 夏も冬とや思ふらん

二一 駿州一の大都会 静岡いでて阿部川を
   わたればここぞ宇津の谷の 山きりぬきし洞(ほら)の道

二二 鞘より抜けておのづから 草なぎはらひし御剣(みつるぎ)の
   御威(みいつ)は千代に燃ゆる火の 焼津の原はここなれや

二三 春咲く花の藤枝も すぎて島田の大井川
   むかしは人を肩にのせ わたりし話も夢のあと

二四 いつしか又も暗(やみ)となる 世界は夜かトンネルか
   小夜の中山夜泣石 問へども知らぬよその空

二五 掛川袋井中泉 いつしかあとに早なりて
   さかまき来る天龍の 川瀬の波に雪ぞちる

二六 この水上にありと聞く 諏訪の湖水の冬げしき
   雪と氷の懸橋を わたるは神か里人か

二七 琴ひく風の浜松も 菜種に蝶の舞坂も
   うしろに走る愉快さを うたふか磯の波のこゑ

二八 煙を水に横たへて わたる浜名の橋の上
   たもと涼しく吹く風に 夏ものこらずなりにけり

二九 左は入海しづかにて 空には富士の雪しろし
   右は遠州洋(なだ)ちかく 山なす波ぞ砕けちる
(後に「右」と「左」が入れ替えられています)


三〇 豊橋おりて乗る汽車は これぞ豊川稲荷道
   東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡

三一 見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を
   矢矧(やはぎ)の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり

三二 鳴海しぼりの産地なる 鳴海に近き大高を
   下りておよそ一里半 ゆけば昔の桶狭間

三三 めぐみ熱田の御やしろは 三種の神器の一つなる
   その草薙の神つるぎ あふげや同胞四千万

三四 名だかき金の鯱は 名古屋の城の光なり
   地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん 


名古屋城
焼失前の名古屋城

後半に続く

作成:2001年12月3日


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