「隣組」と「常会」
ニッポン相互監視社会

愛国婦人会
マスクして共同作業(愛国婦人会)


 1939年(昭和14年)、第35代首相に就任したのは、検事総長などを歴任した平沼騏一郎です。混迷する国際政治に困惑したのか、突如、政権を投げ出してしまいますが、続いて、第36代首相になったのは、陸軍出身の阿部信行でした。この2人に類似する点はあまりないのですが、ひとつだけ大きな共通項がありました。同じ町会の住人だったのです。

 2人の家は、現在の新宿・歌舞伎町の東端にあり、「西大久保南部町会」に属していました。この町会から、首相が連続して登場したことで、住民は盛んに祝意を伝えたと記録されています。このとき2人は、同じ町会員であり、しかも同じ「隣組」に属していました。プライベートでは、かなり親交があったかもしれません。

こども隣組双六
回覧板を回しましょう(『こども隣組双六』)


 隣組とは何か。1940年6月から歌われた『隣組』という歌があります。芸術家・岡本太郎の父親である岡本一平が作詞したヒット曲で、その1番はこんな感じ。

《とんとん とんからりと 隣組
 格子(こうし)を開ければ 顔なじみ
 廻して頂戴 回覧板
 知らせられたり 知らせたり》

 2番は「あれこれ面倒(みあう)」、3番は「互いに役立つ用心棒」、4番は「こころは一つの屋根の月」という歌詞になっています。ちなみに、この歌を替え歌にしたのが『ドリフの大爆笑』のテーマ曲「ド・ド・ドリフの大爆笑 チャンネル回せば顔なじみ」です。

隣組の回覧板
隣組で回された回覧板


 このように、戦前の日本には、町会とは別に、隣組(または隣保)が存在していました。隣組が全国に普及するのは、1940年9月の内務省訓令「部落会町内会等整備要領」によりますが、東京では、すでに1938年5月に「東京市町会規約準則」によって、隣組が設置されています。同規則によれば、町会を隣接する5〜20世帯、5世帯以上のアパート、貸事務所などの単位で分けるとしています。つまり、町会よりさらに小さい10〜15世帯のグループを指しました。

 もともとは地域行事や葬式について話し合う程度でしたが、戦局の悪化とともに、相互監視と経済統制の性格が濃厚になっていきます。そうした仕組みを徹底したのが、「常会」とよばれる定例会でした。

隣組常会
大分県の常会(『写真週報』138号)


 常会では、一体何がおこなわれるのか。開催内容は後に全国でほぼ統一されますが、ここでは東京市の基本ルールをまとめます。場を仕切るのは「組長」と呼ばれる代表者です。

●開会あいさつ
 組長や司会者が開会あいさつ。ダラダラと長話する人も多い
●宮城遥拝
 組長が「宮城(皇居)に対し奉り最敬礼……直れ」と号令をかけ、皇居に向かって拝む
●黙祷
 組長が「皇軍の武運長久と靖国の英霊に対し、黙祷を捧げます」と号令し、1分間黙祷。終わりの号令は「黙祷を終わります」。ここで勅語や詔書を奉読することも
●国歌奉唱
 君が代を1回斉唱
●「市町村是」などの斉唱
 地域でつくった目標をそろって発話。東京では少なかった様子
●伝達報告
 市長、市役所、区役所などの通達や連絡を組長がメンバーに報告
●協議懇談申し合わせ
 隣組の組員から出された問題について議論、相談をおこなう。決まらない場合、次回までに考えておく
●講話
 ありがたいお話。ただし、必須ではないので、ない場合も多い
●和楽(わらく)
 おしゃべり、歌、隠し芸などでお互いにうち解ける。軍歌や国民歌謡の練習も
●閉会あいさつ
 組長のあいさつでお開き。次回の日程を必ず決める

隣組常会日
常会日は旗でお知らせ


 常会は、毎月1回(あるいは2回)必ず開かれます。各世帯から必ず1人は出席しなければならず、輪番で狭い家にあたったときは、全員が立ちっぱなしになりました。夕食後の午後8時ごろからおこなわれることが多く、主婦にはツラいものでした。

『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子は、常会について、こんな不平を書き残しています。
《時間があまりに長びくのは、誠につらい。夜分など、3時間にもわたるようなことがあったら、子持ちの家庭ではたまったものではない。たいてい出場するのは主婦である。主婦の手一つで世帯の用事を切り回している家などでは、常会の晩には12時近くになってから、夜食のあとかたづけをすることになる》(『私の隣組』より)

 隣組は「上意下達」「下情上通」の組織として位置づけられましたが、1940年10月、大政翼賛会が発足すると、政府の国民支配の組織に変貌します。大政翼賛会は、国民が一致団結して天皇を支える「翼賛」体制の確立を目指すものです。

隣組常会
隣組イメージ図(『誰が読んでもよく判る模範隣組と常会のやり方』)


 具体的に、東京市の場合を見てみます。当時、東京市には麹町区・神田区・浅草区など35区ありました。

・毎月14日、35区の区長が東京市役所に集まり、「市常会」を開催。ここで政府や市の意向を聞く
・毎月20日頃、区役所で「区常会」が開催。参加者は町会長や各団体の代表者など
・毎月25日頃、町会で「町会常会」が開催。参加者は隣組長と団体代表者
・月末、隣組で「隣組常会」が開催。参加者は各世帯から少なくとも1人

 このように、上の意向が確実に下に伝わる仕組みでした。

 常会にはさまざまな規律がありましたが、特に重んじられたのが「時間厳守」です。
「一人でも遅れる者があれば、定刻に来た人に迷惑で、次の回には遅れる人がさらに増えてしまう。13時の会が15時になり17時になる。すると隣組長は、正午の会を朝8時からと言わねばならぬ」との理屈です。

 このため、愛媛県では、集会の30分前に鐘を打ち、定時にもう一つ鐘をならすようになりました。このとき遅れた者は30銭の罰金、無断欠席は50銭の罰金となりました。ただし、届け出ていれば罰金はありません。

隣組体操会
体操会(堺市)


 隣組のルーツは中国の「五保の制」で、日本には大化の改新後の652年に導入されました。

《4月に、戸籍を作った。およそ50戸を里とし、里ごとに長を一人置いた。戸主にはすべて家長をあてた。戸はすべて5家で隣保を作り、1人を長として、互いに検察させた》(『日本書紀』25巻)

 日本の内容は正確にわかりませんが、中国の五保は、犯罪の密告、旅行の届け出、納税の連帯、孤児の協同育児などを決めた治安取り締まり制度です。これがそのまま日本に導入されたとすれば、日本の相互監視社会は1400年近い歴史を持つことになります。
 
 この仕組みが、豊臣・徳川時代に「五人組」として定着しました。五人組では、さらに厳しい管理体制となり、納税はもちろん、犯罪さえも連帯責任となりました。
 
 こうした地域コミュニティは、日本全国で脈々と続いてきました。
 たとえば、愛媛県の新居浜は、住友の別子銅山で栄えた街ですが、ここには1911年(明治44年)に「日章会」というコミュニティが生まれます。

 その内容としては、冠婚葬祭の扶助/郷土史などの講演会/敬老会/映画や紙芝居の上演会/税金完納運動/協同の防空組織/貯蓄組合/ラジオ体操/出兵への支援/勤労奉仕などなど、日々の生活を強く拘束するものでした。

隣組常会
日章会の婦人常会


 1937年(昭和12年)、日中戦争勃発を機に「国民精神総動員運動」が始まり、1940年10月、大政翼賛会が発足したことで、あらゆる地域コミュニティが政府の管理下に組み込まれていきました。隣組は、1940年末に全国で約113万組、1941年5月には133万組になりました。こうして、当時の日本の人口約7300万人全員が隣組にからめとられるのです。

 1942年4月の衆院選では、大政翼賛会の推薦候補が当選者の8割を占めました。8月には、翼賛会の指導役が町会や隣組に置かれるようになります。
 隣組は、時局の悪化とともに、社会で大きな役割を持ち始めます。それがスパイ防止、経済統制、防空対策です。

 各家庭の家族構成や収入などは徹底的に調べられ、市民調査票に記録。問題行動は逐一記録され、国を批判するような住民がいれば、特高警察や憲兵隊に連行されました。1942年7月には「戦時国民防諜強化運動」が始まり、対スパイ対策として、秘密保持などが厳しく命令されるようになります。

隣組市民調査票
市民調査票(『人口問題研究』第1巻第4号、国立社会保障・人口問題研究所HPより)


 物資が不足し、配給が進むと、庶民は隣組経由でしか食料や日用品を正規に入手できなくなりました。
 各家庭には、戦時国債の購入が割り当てられ、金属回収が本格化します。
 さらに、灯火管制が徹底され、防空演習ではバケツリレーや竹やりの訓練が始まり、防空壕もみんなで作りました。


醤油購入証明書
町会の許可がないと醤油も買えず


 軍事費を調達するため、政府は国債を増発します。政府はまず貯蓄を奨励、1941年には国民貯蓄組合法を制定し、町内会などに「貯蓄組合」がつくられます。この組合を中心に、国債購入が割り当てられました。国内の全世帯が100円ずつ国債を購入すれば、飛行機1万2000機が製造できると宣伝されました。

金ボタンを献納
金ボタンを献納


 さらに、「パーマネントはやめましょう」「ぜいたくは敵だ」「女は元禄、男は筒袖(のような簡素な着物を)」といったスローガンが街にあふれ、禁酒禁煙が奨励され、白米も制限されていきます。違反する人間は糾弾され、社会から居場所がなくなりました。まさに「自粛警察」の誕生です。

女は元禄
「長い袖は切れ」と言われた「女は元禄」スローガン


 実は、隣組以外にも、日本にはさまざまな組織がありました。
 たとえば、堺市で見ると、町内会を複数まとめ、尋常小学校を基準とした「学区連合町内会」に加え、さらにそれをまとめた「市連合町内会」がありました。
 
 町内会には婦人部、青年部、子供部があり、1939年以降は「銃後奉公会」が組織されています。銃後奉公会は、戦死者の遺族への支援や慰問などを担当しました。さらに「警防団」「家庭防空組合」などがあり、それらが複雑に社会を包んでいたのです。

隣組防空訓練
防空訓練(堺市)


 また、女性団体でいえば、日本には明治時代から『愛国婦人会』があり、1932年、大阪で「国防婦人会」が立ち上がります。《世界に比(たぐ)い無き日本婦徳を基とし益々(ますます)之(これ)を顕揚(けんよう)し悪風と不良思想に染まず国防堅(かた)き礎(いしずえ)となり強き銃後の力となりましよう》との宣言を出し、慰問袋や出征兵士の見送りがおこなわれます。これは、1942年に「大日本婦人会」に発展的解消しています。

愛国婦人会
愛国婦人会


 職場には大日本産業報国会が、大学には興亜学生勤労報国隊があり、日本は完全な相互監視社会となりました。

 敗戦後の日本に来たアメリカ人記者フランク・ギブニーは、日本を「クモの巣社会」と呼びました。

《最高の美徳は、約束に忠実なことである。つまり、「シンヨウ(=信用)」の折紙をつけられることである。この契約や約束の組織は、日本の社会のあらゆる部門を通じて、巨大な鋼鉄のクモの巣のように張りめぐらされている。(中略)日本のクモの巣の社会では、個人はその属する集団以外では、真の存在は許されない》
《「セキニン(責任)」という言葉は、日本人にとって恐ろしい言葉である。日本人の生活は全く責任にとりまかれたもので、それを免れようとすれば自分自身に対してはもちろん、他人にまで不名誉が及ばずにはすまないのである》
(『日本の五人の紳士』)

 隣組は、1947年、GHQ(連合国軍総司令部)によって廃止されました。しかし、日本が独立を果たすと、全国各地で町内会が復活するのでした。

女子錬成会
女子錬成会(川崎)


制作:2020年6月7日


<おまけ>

 1939年、国家総動員法に基づき、物価を9月18日の価格に固定する「9・18ストップ令」が公布されました。物の値段が強制的に決まり、労働者の賃金も昇給まで細かく規定されるようになりました。こうした統制違反を取り締まるため、1937年ごろから活動を始めたのが「経済警察」です(実在)。

 昭和天皇の崩御に際しては、テレビからバラエティ番組が消えるなど大規模な自粛が起こりました。令和の新型コロナウイルスの感染拡大では「自粛警察」が登場しましたが、残念ながら日本には、率先して相互監視して、そこに安寧を感じる人が多いようです。

「自粛」バッチ
「自粛」バッチも販売(1940年)

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