6時間半で紀伊半島を縦断
日本最長「路線バス」の旅
農耕伝来から明治維新まで日本史が凝縮
神倉神社ご神体のゴトビキ岩
坂本龍馬は1867年、京都で暗殺されますが、ほとんど即死に近かったと記録されています。何に書かれているかというと、中西孝則の『十津川記事』です。同書によると、龍馬と中岡慎太郎が滞在していた宿に「十津川から来た」という人物がやってきて、突然2人に切りかかったのです。
《電光一閃(いっせん)躍(おどっ)て、2氏の不意を斫(き)る。時に2氏、刀を備えざれば、…坂本は唯(ただ)一刀の下に死し》(『十津川記事』)
風雲急を告げる時代、坂本龍馬は常に警戒を怠りませんでしたが、このときは思わず「十津川」と聞いて油断してしまったのです。
紀伊半島にある十津川郷の出身者は、古くから朝廷に仕えており、十津川郷士は幕末にも京都御所の警護についていました。坂本は十津川出身の中井庄五郎をかわいがっており、刀も与えています。坂本にとって、十津川とは信頼に足る地名だったのです。
十津川郷にあった村々は現在は合併し、日本最大の村「十津川村」になっています。いったいここはどんなところなのか。
十津川村
この村は、紀伊半島の険しい山々をひたすら走った先にあります。実は、奈良県の大和八木駅前を出発し、十津川村を通過し、和歌山県の新宮まで走るバスがあります。高速道路を使う路線を除き、日本でもっとも走行距離が長い路線バスで、全長166.8km、停留所の数は167。バスは、途中の休憩を含んで、およそ6時間30分で、深い山から広い海へと向かうのです。
そんなわけで、このバスに乗ってみることにしました。すると、このバス路線には日本の歴史が凝縮していることがわかりました。いったいどういうことか?
奈良の平城京跡から国道24号線を南下すると、橿原市八木町に到着します。近くには藤原京跡があり、この道が古代の大動脈だったことがわかります。かつてこの道は「下ツ道(中街道)」と呼ばれていました。そして、ちょうどこのあたりで伊勢神宮に向かう横大路(伊勢街道)と直交することから、八木は長らく交通の要衝として栄えてきました。八木には、いまでも平田家という「旅籠」の建物が残されています。
新宮行きのバス(大和八木駅前)
朝9時15分、さっそく駅前からバスに乗ってみました。
大和八木駅から、横大路をまっすぐ進むと、まもなく大和高田に出ます。ここからさらに進むと大阪府の堺市にたどり着くのですが、この横大路〜竹内街道は、およそ1400年前に敷設された日本初の国道として、日本遺産に認定されています。なんで日本初かというと、『日本書紀』613年に「難波(大阪)から京(みやこ)まで大道を置く」と記されているからです。
なお、高田駅そばにある「石園座多久虫玉神社」は、横大路に棲む龍の胴だとされています。桜井市の大神神社が龍の頭、葛城市の長尾神社が龍の尾となります。
石園座多久虫玉神社
バスからもちらほら見えますが、このあたりには多数のため池が存在しています。奈良盆地は昔から雨が少なく、灌漑用水とした整備されてきたのです。しかし、米や麦を育てるには水が足らず、安土桃山時代の頃から、水があまりいらない綿花の栽培が進みました。こうして、大和綿花という特産品が生まれました。石園座多久虫玉神社は、干ばつの年には雨乞いがおこなわれる竜王宮として知られてきました。
大和高田のため池
高田からバスに揺られて1時間ほど南に行くと、今度は五條に到着します。
江戸時代、五條には代官所があり、天領(幕府直轄領)7万石を支配していました。1863年、尊王攘夷派の志士たちが集まった「天誅組」は、孝明天皇の大和行幸に際し、五條代官所を襲撃、近くの寺を本陣として「五條御政府」という革命政府を樹立します。
孝明天皇の大和行幸が中止になったことで、天誅組はわずか1日で逆賊となってしまいます。しかし、明治維新(1868年)の5年前に起きたこの事件のおかげで、五條は「明治維新発祥の地」といわれるようになりました。
五条駅
五条駅からは、徐々に奥深い山に入っていきます。
ここで、十津川の秘境ぶりを示す例をいくつかあげてみたいと思います。
いちばん有名な例は、源頼朝に追われた義経が、十津川に逃げ込んで消息不明になったという話です。多武峰(いまの談山神社)で、義経は坊主から《是(これ)より遠津河(とつかわ)辺(あたり)に送り奉らんと欲す。彼所は人馬不通の深山なり》(『吾妻鏡』)と言われ、山中に逃げたとされるのです。
また、十津川で身を隠した護良親王は、その後、吉野で挙兵し、鎌倉幕府を倒して建武の新政を成功させます。かつて存在した大塔村は、護良親王の通称「大塔宮」から命名されています。このように、日本史で十津川といえば「身を隠す」ことがしばしば語られるのです。こうした秘境ぶりは、1922年、紀伊半島の分水嶺「天辻峠」にトンネルができるまで続きました。
護良親王の銅像をバスから撮影(大塔郷土館)
乗車からおよそ2時間で、十津川にかかる谷瀬の吊り橋に到着。これは長さ297m、高さ54mで、かつては日本一長い吊り橋でした。集落の人がお金を出し合って造り、対岸にある小学校への通学路として使われましたが、いまではその学校も廃校となり、ほぼ観光客のための橋となっています。渡ってみると、まぁ揺れる揺れる。なかなか面白いので、おすすめです。
谷瀬の吊り橋
十津川村は山が深すぎて、ほとんど水田がありません。米がとれないため、長い間、租税を免除されてきました。伝説によると、672年の壬申の乱に朝廷側として出兵して以来、その功績をもって免租地になったといわれます。豊臣秀吉の太閤検地では、村全体で1000石と概算にして、やはり免租されました。江戸時代も税金は払わず、これは明治の地租改正まで続きました。
司馬遼太郎は、『街道をゆく』で十津川街道を歩き、昭和の初め頃まで、人が死ぬと「米養生もかなわず」と挨拶したと書いています。病気になるとお粥を食べさせるのですが、そういう栄養療法も効果がなかったという意味です。要は、それほどまでに米が貴重だったのです。
筏下しの模型(十津川村むかし館)
十津川に水田はありませんが、あたり一面が山なので、当然、材木はあり余るほどあります。しかし、道路が整備されておらず、木材は十津川(熊野川)を筏で下ろすしかありませんでした。徳川家康が江戸城本丸を作るとき、十津川の支流である北山川の材木を使いましたが、このとき筏で下ろして以降、筏役が税金の代わりとなりました。北山は和歌山県ですが、奈良県十津川郷の人間が筏で下ったのです。
なお、北山川の材木は高品質で、京都の伏見城にも使われています。当然ですが、材木があれば軍艦も作れるわけで(当時の軍艦は木製。ペリーの黒船も木製)、坂本龍馬が十津川郷士に接近したのも、材木の流通を押さえる狙いがあったのかもしれません。
十津川村役場
十津川村役場には、十字を菱形が囲んだ「菱十(ひしじゅう)」の村章が掲げられています。十津川郷士が御所を警備した功績から、幕末に朝廷から賜ったものです。こうしたこともあり、村では今も天皇家への崇拝が続いています。ちょっと驚いたのが、明治神宮と橿原神宮への遥拝所があったことです。尊王の思いは、現在も脈々と続いているのです。
明治神宮と橿原神宮への遥拝所
そんな十津川一帯を、1889年(明治22年)年8月、大水害が襲います。猛烈な雨が3日間降り続き、一帯2403戸のうち610戸が倒壊・流出、168人が死亡しました。地域は壊滅状態となり、住民の2割にあたる約2500人が村を捨て北海道に移住することになります。
中西孝則が編纂に携わった『吉野郡水災誌』
なぜ北海道だったかというと、当時、明治政府は北海道開拓を進めていたから。政府は、大水害からわずか3カ月後、渡航費用や移住後2年間の生活費を保証し、神戸港から北海道に送り出しました。十津川では被害にあった6村が合併して現在の十津川村ができ、また、北海道には新十津川町が誕生しました。新十津川町も、十津川村と同じマークを町章に使っています。
廃仏毀釈で破壊された寺の山門(十津川温泉)
出発から5時間ほどすると、バスは十津川温泉を経て、熊野本宮大社に到着します。
「紀伊山地の霊場と参詣道」は世界遺産になっていますが、その中心は、熊野本宮大社・熊野速玉大社(新宮)・熊野那智大社(那智勝浦)の3社です。仏が神のかたちをとって現れたとする「本地垂迹思想」のもと、熊野権現と呼ばれるようになりました。
熊野本宮大社
神武天皇は、日向(宮崎県)から橿原(奈良県)に移動し、ここで初代天皇として即位しますが、船で熊野に到着後、道に迷ったところを救ったのが「八咫烏」です。日本サッカー協会のシンボルとして有名ですが、熊野三山では八咫烏を「神鳥」として信仰の対象にしています。
八咫烏ポスト(熊野本宮大社)
実は、熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流地点にある「大斎原(おおゆのはら)」にありましたが、1889年の大水害で大きな被害を受け、現在の場所に遷座しました。水害のひどさがこのことからも伺えます。
鳥居の奥が大斎原
十津川は、和歌山県に入ると熊野川に名前を変えますが、バスが通る国道は、ずっと川沿いに進みます。
そしてまもなく、新宮にたどり着きます。新宮には、熊野速玉大社があります。それと合わせてぜひ見たいのが、熊野権現が初めて地上に降臨したという神倉神社です。ハードな階段を登ると、市街地と海が美しく眺められます。
熊野速玉大社
神倉神社からの眺望
江戸時代、十津川を下ってきた材木は、熊野川の河口にある池田港から江戸を中心に運ばれていきました。ところが、明治20年代、全国的に鉄道が敷かれ始めると、東京に運ばれる木材は木曽や東北の材木が中心となりました。明治30年代になると、秋田の材木が覇権を握ります。
東京でシェアを失った新宮の材木は、発展著しい大阪・神戸に運ばれるようになりました。さらに、日清戦争、日露戦争のときは生産が急増し、明治30年代以降、開発が進む台湾へも大量に送られていくのです(村史『十津川』による)。
池田港と蓬莱山(対岸は三重県)
さて、材木の集積地となった池田港の隣には、こんもりとした山があり「蓬莱山」と呼ばれています。
『史記』によると、秦の始皇帝から「東方の三神山にある不老不死の霊薬を探せ」と命じられた徐福は、紀元前210年に中国を出港し、日本にたどり着いて上陸した場所が新宮だとされているのです(諸説あり)。東方の三神山のうちの一つが蓬莱山です。
徐福は、日本に農耕、捕鯨、造船、製紙、製鉄などを伝えたとされます。一行が上陸した場所にあるのが阿須賀神社です。この神社の境内には弥生時代の竪穴式住居跡がありますが、それより何より、不老不死の霊薬とされた「天台烏薬(てんだいうやく)」があるのです。
天台烏薬
徐福は、結局、秦に帰ることができず、新宮で亡くなったとされます(諸説あり)。その墓は、徐福公園にいまも残されています。
日本の歴史を凝縮したような風変わりな旅は、こうして終了したのです。
●東京〜名古屋「500円夜行バス」の旅
●ローカルバス乗り継ぎで東海道どこまで行ける?
●トロリーバス(無軌条電車)の歴史
制作:2020年10月12日
<おまけ>
豊富な水量を誇る熊野川は、昔から水力発電の適地と考えられてきました。しかし、急峻すぎる地形と、奈良・三重・和歌山3県をまたぐため水利権が複雑で、なかなか工事ができませんでした。戦後の電力不足を受け、1954年にようやく熊野川全体の開発計画が決定。中心となる風屋ダムは高さ101メートルの重力式コンクリートダムで、電源開発の十津川第一発電所に送水しています。
風屋ダム