世界初の近代海戦
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服だけ残して全身が木っ端微塵に
黄海海戦/軍艦「松島」の惨状
敵の砲弾が命中
1888年、清国は北洋水師(北洋艦隊)という海軍を作り、ドイツから7300トンの巨大軍艦「定遠」「鎮遠」を購入しています。
1891年、丁汝昌(ていじょしょう)率いる艦隊は日本を親善訪問。しかし、これは事実上の恫喝外交でした。なぜなら、当時の日本の旗艦「松島」はわずか4200トンの防護巡洋艦だったからです。
旗艦「松島」
19世紀、世界の軍艦は革命的な進化を遂げました。
そのきっかけは、1853年に起きたクリミア戦争です。ロシア海軍がオスマン帝国の軍港シノープを急襲したとき、新兵器の炸裂弾で敵の木造船を徹底的に破壊したのです。
この戦争を契機に、各国は木造船に防弾用の鋼板を装着した「装甲艦」を開発するようになります。
1855年、フランス軍は20cm厚の樫の木に11cm厚の鉄を装着した移動式の「浮き砲台」を製造、ロシアのセバストポール軍港を陥落させます。
1859年、フランス海軍が世界初の装甲艦「ラ・グロワール」を建造、1860年にはイギリスの「ウォーリア」が進水し、以後、世界中で装甲艦が普及しました。
黄海海戦(
海軍館
)
一方、船の動力にも大変化がありました。
かつて、船は風力で動く帆船でした。それが蒸気船に変わり、大幅なスピードアップと天候に左右されない航海が可能になりました。当初の蒸気船は、船の両サイドに巨大な水車(外輪車)をつけています。参考までに書いておくと、1853年に日本にやってきたペリー艦隊は4隻ですが、このうち2隻が外輪式、残り2隻が帆船です。
しかし、外輪式は、攻撃されると一瞬で移動不能になるため、軍艦にはなかなか採用されませんでした。ところが、暗車(スクリュー)の発明で、ようやく蒸気式の軍艦が建造されはじめます。こうして、19世紀末には、世界中で速力と防御力に優れた軍艦が登場するのです。
この最新式軍艦同士の最初の戦いが、1894年の日清戦争です。豊島沖海戦に続く「黄海海戦」がその舞台です。
前哨戦の豊島沖海戦(『風俗画報』)
日清戦争の開戦当時、両国の軍艦は以下の通りでした。
・日本(連合艦隊)軍艦28 水雷艇24 総トン数 59000
・清国(北洋艦隊)軍艦25 水雷艇13 総トン数 50000
一見、伯仲しているように見えますが、日本海軍は旧式艦と弱小艦の集合体でした。
黄海海戦(
聖徳記念絵画館
)
1894年9月16日、連合艦隊12隻は、仮根拠地の大同江から大孤山沖に向かって出発します。月のきれいな晩でした。
旗艦「吉野」以下、「高千穂」「秋津州」「浪速」4隻が第1遊撃隊として先導。続く本隊は、伊東祐亨・司令長官の乗る旗艦「松島」以下、「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」と続きます。これに砲艦「赤城」、代用巡洋艦「西京丸」が列外にいました。「西京丸」には、樺山資紀・軍令部長(海軍のトップ)が「いくさ見物」と称して乗船しています。
敵に巡り会えるよう月に祈る水兵
徳冨蘆花の小説『不如帰』は川島武男海軍少尉と浪子の恋物語ですが、川島少尉は「松島」に乗って黄海海戦へ出向く設定です。川島少尉が艦橋(ブリッジ)で当直するシーンがこんな美文調で書かれています。
《彼は今艦橋の右端に達して、双眼鏡をあげつ、艦の四方を望みしが、見る所なきもののごとく、右手(めて)をおろして、左手(ゆんで)に欄干を握りて立ちぬ。前部砲台の方より士官二人、低声(こごえ)に相語りつつ艦橋の下を過ぎしが、また陰の暗きに消えぬ。甲板の上寂(せき)として、風冷ややかに、月はいよいよ冴えつ。艦首にうごめく番兵の影を見越して、海を望めば、ただ左舷に淡き島山と、見えみ見えずみ月光のうちを行く先艦秋津洲(あきつしま)をのみ隈(くま)にして、一艦のほか月に白(しら)める黄海の水あるのみ。またひとしきり煙に和して勢いよく立ち上る火花の行くえを目送(みおく)れば、大檣(たいしょう=マスト)の上高く星を散らせる秋の夜の空は湛(たた)えて、月に淡き銀河一道、微茫(びぼう)として白く海より海に流れ入る》
松島のブリッジの様子
連合艦隊は、陸軍の輸送を行っていましたが、制海権をおさえているわけではありません。北洋艦隊の動きは不明なままですが、翌日の正午、ようやく遭遇します。北洋艦隊は中央に「定遠」「鎮遠」、その左右に12隻の軍艦を三角隊形で配置して、東方に進んでいました。その後方には水雷艇6隻が続きます。
「松島」の水雷長である木村浩吉大尉は、後にこのときの記録を生々しい
錦絵
とあわせ出版しています。これが『黄海海戦に於ける松島艦内の状況』という本です。以下、この本より当時の状況を説明します。
木村大尉は、主計長とビスケットやビールを賭けて囲碁・将棋などを楽しんでいると「船が見えるぞ」と叫ぶ声が聞こえました。煙だけで船体は見えませんが、煙の色から英国艦隊でないことは確か。うまくすれば「定遠」「鎮遠」に遭遇できるかもしれません。
士官室ではワインを開けて祝杯
敵発見の報に、甲板では水兵たちが嬉しくて大騒ぎです。
敵と遭遇して喜ぶ水兵
(左上は食用のため飼育中の牛。後方中央はイカリを巻き上げるキャプスタン)
伊東祐亨司令長官は旗艦「松島」に戦闘旗をかかげます。艦隊は2つに分かれ、「吉野」以下4隻は高速性を活かして北洋艦隊の後方にまわり、「松島」以下6隻は正面から砲弾を浴びせかけます。
正面から先頭で敵に突っ込んだ「松島」は敵から大量の砲弾を浴びることになりました。
敵の12cm砲弾が命中
12時58分、「松島」の32cm砲が最初の一発を放ちます。これが「定遠」を直撃し、カラフルな提督旗が掲揚されていた大マストが倒壊。信号旗をあげることもできなくなり、以降は指揮官がいないも同然の艦隊となりました。
この後、連合海軍の砲弾は何発も「定遠」「鎮遠」に命中し、両艦とも軽微な火災を起こしています。
14時30分、戦闘外にいた「平遠」が「松島」に突っ込んできました。「松島」が猛烈な砲撃を加えると、「平遠」は右転して回避しようとします。距離1500m。速射砲を猛射すると、「平遠」の左舷は大きな火災に包まれました。
日本軍の攻撃(『風俗画報』)
しかし、そのとき「平遠」の26cm砲が松島の左舷に命中します。弾は甲板下の治療所を斜めに貫き、水雷発射管の下を通過し、機関用の油罐を破り、32cm砲塔のところで爆発しました。激しい振動で、中央水雷室は猛烈な硝煙に包まれます。窒息寸前の状況で、水雷発射管員4名は無残な戦死を遂げました。そのうちの一人は、血肉が少量付着した衣服だけ残して四散しました。
26cm砲弾が左舷に命中
続いて、「平遠」の47mm弾が中央水雷室に命中し、発射管員2名が亡くなります。中央水雷室はことごとく破壊され、壁という壁が砕けた骨肉で塗りつけられ、甲板上は血肉が混じって滑って歩けない状況でした。血肉を掃除するか、砂をまかないと甲板を歩けないのです。
「超勇」「致遠」が沈没し、「揚威」が火災を起こすと、敵艦隊は西へ逃げ始めます。本隊は孤立した「定遠」「鎮遠」に集中砲撃しますが、15時30分、「鎮遠」の30cm砲弾が2発「松島」左舷下の甲板に命中します。舷側には長さ3間(5.4m)幅1間(1.8m)の大穴が、下甲板には左右舷ともに3〜4坪の広い穴があきました。
「鎮遠」30cm砲弾が甲板左舷砲台を損傷
「鎮遠」30cm砲弾が甲板右舷砲台を損傷
上甲板の裏についていた電線、伝声管、水管、蒸気菅はすべて破壊され、まるで草のつるが垂れ下がっているようです。
続いて起きた火災で、真っ暗な船内に火薬ガスが充満。窒息する危険があるため防火隊も近づけませんでしたが、大きな穴のおかげで新鮮な空気が入り、火は30分で消し止めることができました。
「鎮遠」30cm砲弾が甲板前部を破壊
以下、『黄海海戦に於ける松島艦内の状況』より読みやすく省略引用してみます。
《下甲板の砲員、弾庫員はみな死傷した。熱で蒸し焼きにされ、毛織の服を着ていた者は、服が焼けて裸体となり、髪は灰に、皮膚は墨のように焼け焦げた。破片で傷つき、腹を破られ、手足を失ったところに、有毒ガスに襲われた。
重傷者を助けて士官公室に入ると、黒焼きになった重傷者が机の上下、ソファーに横たわり、室内は足の踏み場もない。水をくれという声と苦悶の声に交じり、何人かの重傷者が私を見て「水雷長」と呼んで水を求める。土瓶に水を汲んで飲ませていると、「定遠」「鎮遠」の状況を問う者がいる。私は「すでに敵は戦闘力を失っている」と答えた。ただ、私は呼ばれても、相手の容貌がすっかり変わっているので、誰だかわからない》
士官室に集まった重傷者たち
《苦しいから上着を裂いてくれという声が2人からあがった。もともと水兵服は上下とも非常にゆるくできているのだが、蒸し焼きされたために全身が膨張し、衣服は破れんばかりに張りつめている。水兵は服に入っている小刀を示して、上着やズボンを切ってくれと頼む。私は服を切り裂こうとしたが、服とともに皮膚がズルズル剥ぎ取られるため、作業をやめてしまった》
ここに登場する「定遠はまだ沈んでいませんか」と尋ねる場面は、三浦虎次郎三等水兵が副長の向山慎吉少佐に聞いたことになっており、軍歌『勇敢なる水兵』(佐佐木信綱作詞、奥好義作曲)によって、誰もが知るエピソードとなりました。
歌詞に出てくるやり取りは「まだ沈まずや定遠は」「心やすかれ、定遠は戦い難くなしはてき」「いかで仇を討ちてよ」というものです。
損傷が大きかった「松島」は呉へ帰投することになり、司令長官は「松島」から「橋立」に移乗します。
松島の損害は、実に死者57名、重軽傷者56名にのぼりました。
皇后陛下が呉海軍病院に慰問
黄海海戦では、敵の「定遠」も「鎮遠」も沈むことなく、帰還しています。
日本海軍は、1895年1月20日から北洋艦隊が立てこもる威海衛の攻略作戦に乗り出しました。
2月の総攻撃で「来遠」「威遠」「靖遠」などを撃沈。大破した「定遠」艦長は拳銃自殺して「定遠」を自沈させました。提督・丁汝昌は、使者を「松島」に派遣して降伏。その後、服毒自殺しました。
そして、敵の「鎮遠」「済遠」「平遠」「広丙」は鹵獲(ろかく)されて、日本海軍に編入されたのです。
「松島」で降伏
勲章授与
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日清戦争・軍国美談の誕生
制作:2018年4月22日
<おまけ>
『黄海海戦に於ける松島艦内の状況』を記した木村浩吉の父・木村芥舟(木村摂津守)は、江戸幕府の軍艦奉行を務め、後に「咸臨丸」の総督として福沢諭吉らと渡米しています。近代海軍を誕生させた立役者ともいうべき人物です。
また、浩吉の弟・駿吉は、海軍技師となって
無線電信機
を開発。日露戦争では、この無線機を積んだ信濃丸から「敵艦見ゆ」との報が旗艦「三笠」へ伝えられ、日本海海戦の大勝利につながりました。
「松島」1888年、フランスで起工(長さ90m、幅15.6m)