新聞報道で見る日清戦争
あるいは「軍国美談」の誕生

日清戦争旅順砲撃
旅順砲撃(方家屯附近、明治27年11月21日)


 1894年(明治27年)、朝鮮で農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、朝鮮は清国に援軍を要請。これを受け、日本は公使館と居留民保護のため、清が朝鮮に出兵したら日本も派兵すると決定します。
 6月5日、参謀本部に大本営が設置されると、翌日、清が朝鮮への出兵を通告してきました。

 清は農民戦争が発生した場所に近い牙山に上陸。日本は仁川に上陸し、ソウル(京城)近郊に布陣します。

日清戦争仁川上陸
臨時混成旅団部隊が仁川に上陸(6月13日)


 開戦の口実が見つからず、和平交渉もうまくいかないなかで、日本は7月23日に朝鮮王宮を占領、大院君を担ぎだします。
 国王・高宗が「国政と改革のすべてを大院君に委任する」と発言したことで、新政権の樹立に成功します。

日清戦争・京城の衝突
京城の衝突(『日清戦争絵巻』)


 このとき福沢諭吉は、「中国と朝鮮は腐敗国であり、朝鮮改革のため、中国に懲罰を与えるべきだ」として即時開戦を主張します。

《そもそも支那は世界に類なき頑固守旧の腐敗国にして、これを朝鮮に比較すれば国土の大小こそ異なれ、その腐敗の加減はまさしく同様にして、(中略)ただ陰に同類の朝鮮政府を教唆、煽動して、以って日本の政略を妨げんとするのみ。(中略)
 李鴻章、袁世凱の輩があらゆる手段を尽して韓廷を教唆したるその証跡の明白なれば、我が国はこの際なんの躊躇する所かあるべき、直ちに開戦を布告して、以って懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼(かの)支那人をして自から新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面に於いて大利益なるべし》(1894年7月24日、時事新報)


 7月25日、大院君は日本に牙山の清軍掃討を依頼し、豊島沖海戦が勃発します。日本は清兵1100人を輸送中の「高陞号(こうしょうごう)」を撃沈するなど緒戦を飾りました。

日清戦争・豊島沖の海戦
豊島沖の海戦(川村清雄・画)


 また、陸上でも、7月29日、牙山に向かった日本軍と清軍が成歓で交戦し、日本が勝利します。
 このとき、進軍喇叭(らっぱ)を吹きながら戦死した木口小平の逸話は、以後長らく修身の教科書に掲載されました。これが、いわゆる「軍国美談」のほぼ最初です。

日清戦争・進軍喇叭
進軍喇叭を吹きながら戦死(『日清戦争絵巻』)


 そして、8月1日、日清両国が互いに宣戦布告。日本の宣戦布告文は、

《朕(ちん)、茲(ここ)に清国に対して戦を宣す。
 朕が百僚有司は宜(よろし)く朕が意を体し、陸上に海面に清国に対して交戦の事に従い、以(もっ)て国家の目的を達するに努力すべし。苟(いやしく)も国際法に戻(もとらざ)る限り、各々権能に応じて一切の手段を尽すに於て必ず遺漏なからむことを期せよ》


 と国際法遵守を冒頭に謳っていました。

 どうしてかというと、豊島沖で撃沈した「高陞号」はイギリス船籍であり、宣戦布告前の第三国の船舶撃沈が、国際法に適っているかどうか大きな議論になっていたからです。
 高陞号の撃沈は、巡洋艦「浪速」の艦長だった東郷平八郎の命令ですが、東郷はイギリス留学で国際法を熟知していました。実際、最終的にイギリスも撃沈を合法としています。

広島大本営
広島大本営


 9月13日、大本営が広島に移転。
 15日、平壌戦で日本軍が勝利。平壌戦では、玄武門の城壁をよじ登った原田重吉がヒーローとなりました。

《原田一等卒はもとより死を決したることとて、敵の動揺(どよ)めく間に得たりや応と身を翻すより疾(はや)く、群らがる敵中に飛び入り、銃剣を振るって当たるに委(まか)せて衝き伏せ衝き伏せ、猛虎のごとく奮闘せる中、三村中尉も続いて飛び入り、白刃を閃(ひらめ)かして右に左に敵を悩ますその勢い、面を向くべき様もなきに、敵はにわかに気色沮(しぼ)み、目に余る数百の清兵脆(もろ)くも浮き足立ちて2、3歩引き退きし間に、原田一等卒は中尉とともに脱兎のごとく門の扉に取りつき、力を戮(あわ)せてエイヤとばかりに内より門を打ち開くや、我が兵は怒濤の寄するがごとく門内に乱入し、ついにさしも堅固なりける平壌の一角を破るに及べり。この一挙、実に平壌の清兵をして軍門に白旗を樹てしむるに至れり》(読売新聞、1894年10月23日)

日清戦争・平壌の戦い
16名の決死隊が撃破したピョンヤンの玄武門

日清戦争・平壌第5師団司令部
朝鮮の行政庁「宣化堂」に置かれた平壌第5師団司令部


 9月17日、黄海海戦。この海戦の当時の報道を引用しておきます。

《日本艦隊は12隻の軍艦よりなり、清国艦隊は10隻よりなりて、その位置は日本艦隊にありては外洋面にあるをもってすこぶる利益なりしも、清艦隊にありては運動の場面狭く、丁(汝昌)提督はその大艦をして適当の位置を取らしむるためよほどの困難を感じたるも、6000メートルの距離において発火を始めたりしに、遠距離のため弾丸達せず。これその命中距離5000メートルなるをもってなり。(中略)
 この戦いは正午前後に始まりしが、間もなく清艦「致遠」の艦長鄧氏は全速力をもって敵艦に接近し、撞角をもって突撃せんと試みたり。突撃功を奏せしか、はた水雷の結果によるか、1隻の日本軍艦たちまち転覆して沈没せり。4隻の日本軍艦はかくと見て斉(ひと)しく「致遠」に接近し、これを取り囲みて砲撃す。「致遠」は吃水以下に数弾を受け、乗組員一人も残らず艦とともに沈没し、艦長鄧氏及び機関士外人パーヴィス氏また死者中にあり。
 日本軍艦は更に旗艦「定遠」及びその姉妹艦「鎮遠」に向かって激烈に砲撃したるため、「定遠」の砲術士官外人ニコルス氏はここに死せり》 (東京日日新聞、1894年10月4日)


 この海戦の勝利で、日本は制海権をほぼ掌握します。

日清戦争・西京丸
軍令部長・樺山資紀が乗った「西京丸」。敵の猛攻を潜り抜けたと伝説に


 なお、このとき戦死した三浦虎次郎は、後に「勇敢なる水兵」として佐佐木信綱による軍歌として歌われることになります。

《この戦闘中、或る水兵(三浦虎次郎)のごときは身に十余箇所の創(きず)を被り、面部一体に火傷して気息奄々たりしも、余(軍艦「松島」の向山副艦長)の通行を見て副長殿と呼び、苦しき声にて、
「定遠はまだ沈みませんか」
 という故、余は、
「心配するな、定遠はもはや発砲のできないまでにヤッつけたれば、これからは鎮遠をヤルのだ」
 と答えたるに、彼は微笑して、
「どうか仇を打って下さい」
 との一言を最期としてそのまま絶息せし》(時事新報、1894年10月6日)


日清戦争・勇敢なる水兵
勇敢なる水兵(北蓮造・画)


 10月24日、日本は第一軍が鴨緑江渡河を開始し、第二軍が遼東半島上陸を開始します。
 
 鴨緑江渡河では、軍服を脱いで濁流を渡り、敵弾をものともせず敵船を奪ってきた川崎伊勢雄が軍国美談としてしばしば取り上げられます。

 一方、従軍記者として遼東半島上陸に同行したのが作家の国木田独歩。
 先遣隊の活躍で清兵が陸上に隠れていないとわかり、いよいよ本隊が上陸する場面で、こんな高揚した記事を書いています。

《天明、大艦巨船(形容にあらず)数十艘、盛んに黒煙を吐きつつ海を圧して来たる。真紅の朝暾(ちょうとん=朝日)瞠々として昇りそめたり。水平線上無数の群島と見えしは、一時に黄金色の雲と変じぬ。北風そよそよと吹き送り、艦上の人凛(りん)として気象おのずから昂然。
 軍艦大和、吾(わ)が艦側を過ぎて進む。信号台上に信号兵立ち、赤白二流の旗を朝風に翻して、しきりに吾が艦に向かいて信号を試む。
「リクジョウヘイナキヤ」(「陸上兵なきや」)
 当直士官(第二番分隊長)傍らにあり、笑いていわく、「ナシ」と答えよ。
 互いに顧みていわく、支那の運命もまた窮(きわ)まれるかな、天特に我が国を佑(たす)く、陸上一兵なく、天気かくのごとく晴朗、万歳、万歳!と》(国民新聞、1894年11月11日)

 
 第一軍は10月26日に九連城を、11月6日に金州を落とし、大連湾を占領。
 第二軍は11月21日、旅順口を占領します。

日清戦争・九連城の敵塁
占領した九連城の敵塁内部

日清戦争・金州城敵兵の死体
金州城敵兵の死体


 年が明け、威海衛の戦いで北洋艦隊が降伏(2月15日)。
 この戦いに参加していた軍艦「高千穂」の水兵が読んでいた手紙も、国語の教科書に必ず載ったエピソードです。豊島沖の海戦に出ず、威海衛の攻撃でも特に功績のなかった息子に対し、「そなたの無事を祈るのではなく、あっぱれな手柄を立てるよう、鎮守の神さまに日参する」という母からの手紙です。「一命を捨てて君恩に報いよ」が「感心な母」として有名になったのです。

 その後、陸軍による牛荘攻略が成功し、まもなく遼東半島全域が日本の占領下に入ります。もはや清軍の勢いは風前の灯となりました。

日清戦争・牛荘市街戦
牛荘市街戦(明治28年3月4日)


 1895年(明治28年)3月19日、清の全権大使・李鴻章が門司に到着。4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払いが決まりました。
 その後、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉で、遼東半島を清に返還。


日清講和条約
日清講和条約(国立公文書館)


 講和条約が発効すると、日本は割譲された台湾に近衛師団を派遣、6月17日に台北で台湾総督府の始政式を開きました。初代台湾総督は、黄海海戦を戦った樺山資紀です。

 台湾全島が平定されたのは11月18日。
 そして、台湾進軍中、近衛師団長として出征し、戦病死したのが北白川宮能久親王。新造された台湾神宮に祭神として祀られ、西京丸で遺体が日本に運ばれました。「能久親王」は、もちろん修身教科書に取り上げられています。

日清戦争・台湾を進軍
日本領になった台湾を進軍(五姓田芳柳・画)


 さて、正岡子規は、講和成立後の4月、旅順港の見学に出かけています。

《そも旅順の地たる、山脈を繞(めぐ)らしたる一(ひとつ)の小港湾にして、市街は岡陵に凭(よ)り、一層は一層より高く造りなしたり。新たに開きたる港なればにや、四方を囲む城壁もなく、家屋は公署めきたる所多ければ、西洋風の崇高なる建築立ち並びて、金州よりはやや清潔なり。
 我等の宿所は旅順市の最高処に在り。これより下瞰すれば、2本の帆檣(はんしょう)屹然として眼下に聳ゆるもの「鎮遠」なり。船渠に在りて日夜に修繕を急ぐ音、錚々(そうそう)手に取るがごとし。
 湾を隔てて巍然空を衝くものは黄金山の砲台なり。去年の戦争にはなんらの抵抗もなく、風を望んで落ちたりと聞こゆ》(新聞「日本」、1895年5月16日)


日清戦争・清の軍艦「鎮遠」
捕獲された清の軍艦「鎮遠」


 国民は、新聞や錦絵で次々に繰り出される「軍国美談」に熱狂しました。その勢いが10年後の日露戦争にダイレクトに繋がっていきます。

日清戦争・日比谷の凱旋門
日比谷の凱旋門


 正岡子規が旅順港で見た軍艦「鎮遠」は、日本海軍に編入され、10年後、日露戦争でロシア軍と戦って勝利を収めます。
 しかし、子規が「四方に城壁がない」と書いた旅順は難攻不落の要塞となっており、日本軍はロシア軍の徹底抗戦に大きく苦しめられることになりました。
 そして、その日露戦争で、初めて戦死者が「軍神」となっていくのです。  

制作:2015年11月22日


<おまけ>
 平壌の玄武門をこじ開けたことで、国民的英雄となった原田一等兵は、金鵄勲章を授与されます。
 しかし、一説には平壌一番乗りは村松秋太郎だったといわれており、原田は名誉の重圧に悩み、酒と女に溺れていきます。田舎回りの舞台で「勇者・原田重吉」を演じ続け、観客の喝采を浴びつつ、次第に身を持ちくずしていったのです。
 萩原朔太郎の「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」によれば、

《次第に重吉は荒(すさ)んで行った。賭博をして、とうとう金鵄勲章を取りあげられた。それから人力俥夫(じんりきしゃふ)になり、馬丁になり、しまいにルンペンにまで零落した。浅草公園の隅(すみ)のベンチが、老いて零落した彼にとっての、平和な楽しい休息所だった》
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