「ゼロ戦」巡礼
堀越二郎の証言で見る産業界の敗北

ゼロ戦52型(靖国神社遊就館)
ゼロ戦52型(靖国神社遊就館)



 1939年(昭和14年)年3月23日。
 夜の9時ごろ、名古屋の大通りを2台の牛車がゆっくりと移動していきました。荷台は2つとも真っ黒なシートに覆われ、中身はわかりません。時速3キロにも満たないスピードのため、市電も長く停車する羽目になりました。人々は何を運んでいるのか訝しみましたが、牛車は三菱マーク入りの提灯を持った男たちに先導されています。勘のいい人は気づきました。「もしかして軍用機を運んでいるのかな?」

 このとき運ばれていたのは、ゼロ戦第1号機です。3月16日に名古屋航空機製作所(三菱重工業)で完成した機体を、丸一日かけて、48kmほど離れた岐阜県各務原市の飛行場に運んでいたのです。
 なぜトラックを使わなかったかというと、当時は穴ぼこだらけの砂利道で、木材や軽金属で作られた機体が振動で傷む可能性があったからです。

各務原市飛行場(米軍の空撮)
各務原市飛行場(米軍の空撮)



 この機体は、4月1日に各務原飛行場で初飛行しました。エンジンは「瑞星13型」でしたが、出力不足だったため、3号機からエンジンが中島飛行機の「栄12型」に変わりました。初号機はA6M1と呼ばれましたが、この3号機からA6M2になりました。そして、翌1940年7月24日、A6M2零式一号艦上戦闘機一型が「11型」として制式採用されました。これがゼロ戦の誕生です。

 ゼロ戦の開発は1937年10月、海軍の計画要求書を受けて始まりました。
・高度3000メートルまで3分30秒で上昇できること
・高度4000メートルで時速500km以上出せること
・高度3000メートルを全速力で飛んで1.2〜1.5時間飛べること
 ……など極めて厳しい注文でした。
 
 ゼロ戦の設計主任だった堀越二郎が、後に、《10種競技の選手に対し、5000メートル競争で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、その他の種目でも、その種目専門の選手が出した世界最高に近いものを要求しているようなもの》と著書『零戦 その誕生と栄光の記録』で描いたほど過酷な要求でした。

 ライバルの中島飛行機はあまりの要求の厳しさに辞退。三菱重工は強くて軽い「超々ジュラルミン」などの使用で要求をクリア。実践に投入されると、向かうところ敵なしの活躍を果たします。

ゼロ戦21型(国立科学博物館、現在は科博廣澤航空博物館)
21型(国立科学博物館、現在は科博廣澤航空博物館)



 アメリカは、中国戦線で投入されていたゼロ戦の実力を、正確に把握していませんでした。そして、真珠湾攻撃でレベルの高さに驚愕するのです。

 戦後、アメリカの航空記者デヴィッド・アンダーソンは、航空雑誌『エアトレールズ』(1949年4月号)に「ゼロ戦の謎」という記事を書いています。そこには次のように書かれていました。

「1941年12月の第1日曜日の朝、パールハーバー怒り立った空に、小型の細長い灰色の戦闘機が乱舞した。専門の見張も、その形を見るのははじめてだった。日本が旧式の複葉機や角張った単葉機を廃止し、この古今に類なき最優秀の飛行機の一つを、まったく極秘裏に設計、生産・使用していることを、世界はこの日はじめて知った。これこそ三菱の零戦で、のちに “Zeke” とあだ名された第2次世界大戦最大の謎の飛行機だった」

 なお、真珠湾攻撃に投入されたゼロ戦は、空母への搭載を前提に量産された「21型」です。空母内で移動しやすいように、翼の端を50cmずつ折り畳める機能などがついています。

ゼロ戦21型(河口湖自動車博物館・飛行舘)
21型(河口湖自動車博物館・飛行舘)



 ゼロ戦の空戦能力の高さは、「超々ジュラルミン」による軽量化などが理由ですが、実は防弾性能を犠牲にしていました。
『読売評論』(1950年11月号)で、堀越二郎がこう語っています。

《零戦の計画要求は九六艦戦とは段違いのもので、もしこのとおりのものができれば、攻撃力では世界にならぶものがないだろうという底のすこぶる苛酷なものだった。しかしここに見のがし得ない大きな過ちをやった。

 というのは、攻撃ばかりを考えて防弾を見のがしたことである。操縦者や燃料タンクの防弾は結構だが、1グラムの贅肉をものこすまいとして節減した重量を食って空戦力が低下するのはつらいし、そのうえ日華事変の経験では未だ防弾の必要を痛感しないという理由で防弾の要求がまったくなかった。終始防御的な爆撃機さえも当時は防弾しなかったのだから、これは当然のことだった。

 このため日本のような弱小工業国では一朝一夕にはできないタンクの防弾材料の研究工業化のスタートがおくれ、ようやく太平洋戦争も末期になった1944年のはじめごろから操縦者の防弾を、同年の暮ごろからタンクの防弾を実施したがもう手おくれであった》(「私が『ゼロ戦』の設計者だ」)

スケルトン状態のゼロ戦21型(河口湖自動車博物館・飛行舘)
スケルトン状態の21型(河口湖自動車博物館・飛行舘)



 被弾すればたちまち火だるまになることから「一式ライター」と呼ばれていたゼロ戦ですが、空戦能力の高さから初期は問題視されませんでした。

 真珠湾攻撃で、ゼロ戦は9機撃墜されました。米軍は撃墜機の調査から、防弾装備の弱さに気づいていましたが、この理由がわかりませんでした。事実上、ゼロ戦の特性は謎のままです。

 しかし、1942年7月、21型ゼロ戦がアリューシャン列島のアクタン島に不時着し、米軍はついにほぼ無傷のゼロ戦を手に入れます。この機体は「アクタン・ゼロ」と呼ばれ、徹底的な調査が始まり、打倒ゼロ戦の動きが活発化します。

アクタン・ゼロ(米国海軍航空博物館サイトより)
アクタン・ゼロ(米国海軍航空博物館サイトより)



 1942(昭和17)年8月、西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐり、日米の熾烈な戦いが起こります。米軍の反攻の第1歩ですが、この戦いをきっかけにゼロ戦の改造命令が下ります。当時、ラバウルにいたゼロ戦隊は、ガダルカナルまで1500kmを飛んで攻撃隊を援護していました。いくら航続力の高いゼロ戦でも、これは相当な負担です。そこで、空母用に短くした翼を長くし、1時間ほどの燃料を積めるように改造したのです。これが「22型」です。

ゼロ戦22型(アメリカの財団所有の飛行可能機)
22型(アメリカの財団所有の飛行可能機)


 なお、同時期に大規模改修が行われ、エンジンを「栄21型」に換装した「32型」も登場しています。しかし、ガダルカナル戦と重なったことで、こちらはあまり活躍することはありませんでした。

ゼロ戦32型(筑前町立大刀洗平和記念館)
32型(筑前町立大刀洗平和記念館)



 米軍は、ゼロ戦の弱点である急降下や高々度性能の低さに対抗して、より高性能の新鋭機を続々に繰り出してきます。すでにゼロ戦より速い機体も登場しており、ゼロ戦の苦戦が目立つようになりました。当時、基地防空を担う「雷電」の完成が期待されたものの、その完成は遅れに遅れています。そこで、後継機の代わりに、ゼロ戦の性能を少しでも高めるため、新たな改造がおこなわれました。

 速度と急降下速度を上げるため、排気管を工夫。最大速度が20km以上も増え、時速565kmになりました。これが、零戦の各型のなかでもっとも多く生産された「52型」です。ただし、22型より翼面積が少ないため、空戦性能は低下したようです。また、ガダルカナル戦に52型の生産は間に合わず、日本軍は大きな敗北を喫することになります。

ゼロ戦52型(河口湖自動車博物館・飛行舘)
52型(河口湖自動車博物館・飛行舘)



 本土への攻撃とともに、三菱のゼロ戦生産数は激減します。1944年10月は145機でしたが、1945年7月にはわずか15機でした。こうした状況を堀越二郎はどう見ていたのか。

ゼロ戦52型甲(航空自衛隊浜松基地・浜松広報館)
52型甲(航空自衛隊浜松基地・浜松広報館)



《初期のころは軽快な運動性と大きな航続距離がものをいっていたが、戦局のすすむにつれて(1)防弾(2)火力増大(3)水平および急降下許容速度の増大の必要が痛感されてきた。ところが3項目ともつまるところ発動機の変更、胴体および翼の大改造を要す根本的設計変更であるため、防弾材料がまにあったとしても、設計の人手のやりくり難から実行が大いにおくれた。

 当時三菱の海軍戦闘機設計団は「零戦」のほかに、試作機「雷電」の実用化、あたらしい試作機「烈風」「閃電」(終戦まぎわに「閃電」を中止し、戦闘機「秋水」が加わった)の設計等を一手に引受けていたが、「雷電」「烈風」の試験飛行が予期しないあるいは予想できた故障によって非常に手間をくったため、「零戦」「雷電」「烈風」の三者に並行的に力をいれるか、それともいずれか1つか2つに重点的に力をいれるかが深刻な問題となってきた。

 ところが三者に並行的に力をいれることになったため、かつ連合軍の進攻が意外に速かであったため、結果から見ると虻蜂とらずになってしまった。もう少し人手か時があったら三者とも相当なものになったであろうが》(『読売評論』)

ゼロ戦52型甲(海上自衛隊鹿屋航空基地・史料館)
52型甲(海上自衛隊鹿屋航空基地・史料館)



《かくて零戦の改造が戦局の進展に追従し得なかったところへ、米国は人的にも物的にも実力を発揮し、現用機に対する改造も、新設計の試作機もどしどしはかどって戦力化されてきた。そこへもっていって、こちらの事情は訓練不足の操縦者が大部分を占めるようになり、かつ燃料の質の低下による発動機の馬力低下、粗製濫造による抵抗増加等、悪条件がかさなって、零戦の性能は逆に相当下がってきた》(同)

 これを読むと、現在に通じる、選択と集中が苦手な日本の製造業の限界が見えてきます。

ゼロ戦52型丙(知覧特攻平和会館)
52型丙(知覧特攻平和会館)



 敗戦が濃厚になると、日本は特攻を前提とした作戦を立案するようになります。
 ゼロ戦も、52型が改良されて、爆弾の懸吊架を設けた戦闘爆撃機型に変更されます。特攻機として使用された機体には500kg爆弾を搭載したものもあったとされます。

ゼロ戦62型(呉市海事歴史科学館)
62型(呉市海事歴史科学館)


 
 ゼロ戦が初飛行したときのことを、堀越は《ぴんと張りつめた翼は、空気を鋭く引き裂き、反転するたびにキラリキラリと陽光を反射した。私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることも忘れて、「美しい!」と、咽喉(のど)の底で叫んでいた》(『零戦 その誕生と栄光の記録』)と書いています。

 しかし、ゼロ戦への評価は、1944年ごろになると大きく下がっていきます。なかでも堀越が辛辣だと思ったのは「ゼロ戦は若いとき鳴らした婦人のようなものである。若いころ見た人と晩年に見た人ではその批評が違う」というものでした。「これには苦笑しながら同意せざるを得ない」と堀越は明かしています。時代の変化についていけなかったゼロ戦、そして日本の製造業の敗北でした。


零戦パイロット最後の証言
零戦の「栄」エンジン

制作:2021年12月27日


<おまけ>

 ゼロ戦の生産は、1939年から1945年8月の終戦まで続き、1940年秋からは中島飛行機も参入しています。終戦までの生産は三菱約4000、中島約6500で合計で約1万500機に達しました。これは太平洋戦争が始まって以降の、日本の飛行機総生産の約6分の1、1926年(大正15年)以降終戦にいたる20年間の日本の飛行機総生産数の約8分の1にあたると、堀越は指摘しています。

 敗戦で日本の航空産業は壊滅しますが、ゼロ戦のエンジンを作っていた中島飛行機は富士重工になり、スバル360で軽自動車に革命を起こします。三菱重工は、国産旅客機YS-11の製造に成功しました。また、航空機が飛行する際に起きるフラッター現象の解析が、鉄道の脱線事故の原因究明に生かされました。ゼロ戦の技術が、戦後日本の産業に役立ったのは間違いありません。

ゼロ戦のコックピット
ゼロ戦のコックピット
 
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