発掘資料で見る「五一五事件」

五一五事件
事件を報じる大阪朝日新聞

 昭和7年(1932)5月15日、海軍将校を中心とした部隊がクーデタを起こしました。世に言う「五・一五事件」です。

 当時の「実行計画概要」によれば、

  本隊1 17時 靖国神社集合 →17時30分 首相官邸襲撃
    本隊2 17時 泉岳寺    →17時30分 内大臣官邸襲撃
  本隊3 17時 新橋駅    →17時30分 立憲政友会本部襲撃
  本隊4 17時 東京駅か宮城 →18時    三菱銀行襲撃
   各隊とも次いで警視庁襲撃、警官隊と決戦
  別働隊 19時 6カ所の変電所襲撃、東京暗黒化
 
 というもので、結果的に犬養毅首相が暗殺されました。

 暗殺の瞬間を、実行犯・三上卓中尉はこう語っています。

《我々が首相を囲んだ時、首相は見廻して「靴位脱いだらどうぢゃ」と云ひました。私共は勿論軍服軍帽の儘(まま)で客間に入ってゐたが、その一言に私は「靴の心配はあとでも宜(よ)いではないか」ーー暫く経って我々は何のために来たかは分るだらう、この際、何か言ひ残すことはないかと尋ねると、首相は頷きながらやや身体を前方に乗出し、両手をテーブルに置いたまま、何事かを語り出さんとした其の瞬間、山岸は叫んで曰く「問答無用撃て」と言葉が終るや否や飛込んできた黒岩が山岸と村山の間から拳銃を発射した音を聞きました。

 私は山岸の声に「宜し」と叫んだが、「宜し」の終らぬ中に黒岩の第一弾は放たれてゐた。

 首相は下腹部を両手で押へて更に前に身体を屈した。
 私は黒岩の拳銃発射と同時に右手の拳銃を首相の右こめかみに擬し、黒岩の発射に次ぎ引金を引いた。すると首相の右こめかみに小さな穴が明き、そして右頬を伝って、血が流れるのを目撃した》(第8回公判/時事パンフレット「五・一五事件陸海軍大公判記」より)

 恐慌による経済破綻、政治の混乱、農村の疲弊など、不満が鬱積していた庶民は、クーデタを支持、実行犯たちには、かなり軽い判決が下されました。
 そして、この事件を機に政党政治が終わり、以後、日本は軍部が力を強め、4年後には二・二六事件が起こるのでした。

 さて、今回、本サイトは五・一五事件の新資料を発掘しました。これは海軍の弁護を担当した林逸郎の弁論要旨で、これにより、当時の時代背景がくわしく判明しました。

海軍軍法会議
海軍軍法会議の様子


 林弁護士は、大きく分けて次の2つの方向で弁護を進めています。

①「支配階級の横暴」
 ここには、当時でも知られていなかった(と思われる)さまざまな汚職やら癒着が延々と書かれています。こんな政治では、クーデタも当然だ、という論理ですね。

②「ロンドン海軍軍縮条約(1930)への不満」
 ここには、司馬遼太郎が日本をつぶした最大の原因とした「統帥権干犯」について詳しく述べられています。「統帥権干犯」とは、一言でいえば政府は軍部に干渉できない、という理屈ですが、この裁判をきっかけに、軍部の暴走が始まったのは間違いありません。

 また、若槻礼次郎全権が清酒20樽を持っていって、まるで一家団欒の物見遊山だったとか、財部海軍全権が最終日、妻と繁華街でおみやげを買っていたとか、海軍軍人が聞いたら怒り狂いそうなエピソードも書かれています。

 ちなみに殺された犬養首相については「天国でニッコリ笑ってるでしょう」とあって、時代の不思議な空気が読みとれます。


 林逸郎は五・一五事件で評価をあげ、東京裁判にも参加しています。A級戦犯である東條英機らの遺骨をGHQから盗み出すなど、武勇伝でも知られていて、戦後は日弁連の会長も務めました。

 というわけで、この弁護記録は、昭和史を考える上で必読の資料なのだ! 関連資料もあわせ、一挙公開です!

●五・一五事件 檄文
●五・一五事件(海軍側)弁論要旨
●発掘資料で見る「昭和恐慌」

更新:2003年5月26日


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