沖縄の土地はこうして奪われた

キャンプ・シュワブ
キャンプ・シュワブ


 1853年、日本にやってきたペリーは、途中で沖縄(琉球)に寄港しており、当局を恫喝した上で、石炭庫の建造を認めさせています。『ペリー提督日本遠征記』には、

《わずか2日前に工事に取りかかった石炭倉は、出発の日には骨組みができており、その後2日ほどであらかた出来上がったということだ。ゆうに500トンの石炭を保存できるが、また必要に迫られて増築させた》(抄訳)

 とあり、賃貸料月10ドルで、半強制的に石炭基地を建設することに成功しました。アメリカは、最初から恫喝外交で土地を押さえに来たのです。

那覇の市場(『ペリー提督日本遠征記』)
那覇の市場(『ペリー提督日本遠征記』)


 しかし、アメリカにとって沖縄は遠く、その後の1879年(明治12年)、沖縄は日本の都道府県になりました。このとき、琉球藩の廃止により、琉球藩王・尚泰は東京居住と首里城の明け渡しを命じられています。

「琉球藩を廃し沖縄県を置く」
「琉球藩を廃し沖縄県を置く」(国立公文書館)


 太平洋戦争で、米軍が沖縄に上陸したのは1945年4月です。米軍はまっさきに陸軍航空隊の中飛行場を接収。これが現在の嘉手納基地です。
 金武村の農地にも約2000mの滑走路が建設されました。これが現在のキャンプ・ハンセン。
 宜野湾一帯でも土地が接収され、2400m級の滑走路を持つ飛行場が建設されました。これが普天間飛行場です。

普天間飛行場の滑走路
普天間飛行場の滑走路


 敗戦により、沖縄はアメリカの支配下に入ります。
 1946年1月、連合国からアメリカ軍政へ移管され、4月、米軍は沖縄民政府と沖縄議会を発足させます。いったんは強制収用が減りますが、1948年、アメリカは態度を変えます。この年、朝鮮半島が分断され、韓国と北朝鮮が成立すると、米軍は沖縄を恒久的に保持することを画策し、基地の建設方針を固めるのです。

 そして、朝鮮戦争勃発後の1950年12月、アメリカの沖縄統治機関は「米国民政府」(略称USCAR)と改称され、沖縄は司法、行政、立法すべてにわたってアメリカの指揮下に入り、以後、大規模な基地建設が始まりました。

 1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立すると、沖縄の基地の重要性が増しました。
 米国民政府は「民政府布令第91号」によって、軍用地を賃貸借契約によって土地の継続使用を目指します。しかし、賃貸借期間は20年という長期で、1坪あたり年1円8銭とタダ同然(支払いは軍票のB円)。反対運動により、この案は失敗します。

B円
B円(沖縄郵政資料センター)


 1954年3月17日、今度は、米陸軍省による「軍用地一括払い」方針を発表します。軍用地代を10年分一括で支払うというものですが、実質的な土地買い上げにあたるとして、大きな反対運動が起きます。
 このため、琉球政府は「軍用地処理に関する請願決議」を可決。請願の内容は「土地を守る4原則」として掲げられたもので、「一括払い反対」「適正補償」「損害賠償」「新規接収反対」です。

米軍が接収すると宣言したイモ畑
米軍が接収すると宣言した伊佐浜のイモ畑
(『アサヒグラフ』1956年7月8日号)


 反対運動が続く1955年5月、琉球政府はワシントンに代表団を送って「土地を守る4原則」を採用するよう、直接アメリカ政府に訴えます。
 当時、沖縄では日本へ復帰運動が盛んでしたが、琉球政府の行政主席である比嘉秀平は、下院の軍事委員会で「日本とアメリカどちらに忠誠を誓うのか」と聞かれ、「占領中なのだからアメリカです」と答えています。こうした恫喝はあったものの、結果、沖縄の意向を鑑み、アメリカは調査団を派遣することを決めます。

プライス勧告
プライス議員


 メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団は、10月23日、嘉手納飛行場に到着しますが、わずか2日で、沖縄を引き上げます。
 そして、1956年6月9日、米国民政府は「プライス勧告」を沖縄に伝えました。プライス勧告は、沖縄の期待を裏切る内容でした。日本復帰には一言も触れず、米軍が沖縄を統治する利点を強調していたからです。こうして、沖縄では「島ぐるみ闘争」という大規模な反対運動が始まります。

 冒頭のキャンプ・シュワブは、辺野古にありますが、プライス勧告後に使用開始されました。

米軍防諜部から力ずくで排除された人々(伊佐浜)
米軍防諜部から力ずくで排除された人々(伊佐浜)


 米国民政府は、反対運動に対抗して「オフリミッツ」を発動。米軍関係者を民間地域に立入禁止にして、沖縄経済に大きなダメージを与えます。比嘉秀平も、この島ぐるみ闘争のさなか急死。米軍は「銃剣とブルドーザー」によって土地を強制接収していくのです。
 
 結局、琉球政府は米軍基地の使用を認め、米国民政府は適正価格を払うということで最終的に決着しました。

 しかし、米軍への反対運動はその後もくすぶり、日本への復帰運動が大きくなっていきます。
 1960年、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、この団体が中心となって運動が続きます。

追い出された人たちは米軍が用意した天幕で
追い出された人たちは米軍が用意した天幕で暮らす(伊江島)

 
 1969年11月21日、佐藤=ニクソン共同声明によって、沖縄返還が決まりました。しかし、その直後、米軍は基地労働者の大量解雇を発表。1970年12月20日にはコザ反米騒動が起き、対立が続くなか、1972年5月15日、沖縄の施政権がようやく日本に返還されたのです。

 2018年、辺野古の埋め立てが始まりました。
 米軍はなぜ辺野古にこだわるのか。辺野古の弾薬庫には核弾頭が置いてあるからとの説もあります。現在、沖縄に核兵器があるかどうかは不明ですが、米国防省は「1969年、日米両政府は沖縄返還後の核再持ち込みを認める密約をした」と2015年に公表しています。この密約は、もちろん現在も有効なのです。

辺野古移設
辺野古移設で埋め立てられる海岸


琉球から沖縄へ、普天間基地の解説
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む
竹島はこうして奪われた
北方領土はこうして奪われた

制作:2018年12月26日

<おまけ>
 
 朝鮮戦争以降、沖縄に基地が増加したのは、アメリカで採用された「大量報復戦略」が強く影響しています。1954年、ダレス国務長官が演説したもので、戦略爆撃機や戦術核などの圧倒的な兵器保有により、ソ連に対して優位に立つことを目的としています。
 しかし、ソ連も弾道ミサイルや核爆弾を実戦配備するなかで、大量報復戦略は意味がなくなっていき、「相互確証破壊」という考え方(いったん核戦争が始まれば相互が壊滅)に変わっていくのでした。
辺野古埋め立て反対の看板
辺野古埋め立て反対の看板

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