択捉・国後島「拓殖」の物語
北方領土はこうして奪われた

国後島
国後島


 東京にある拓殖大学は、台湾の開拓を進めるための人材育成機関として開校しています。後にこの大学の学長となる下村宏は、台湾総督府時代、当時世界最大だった「烏山頭ダム(八田ダム)」を作り、近代化を進めました。
 下村は、朝日新聞を経て、1937年(昭和12年)、貴族院議員となりました。

 下村は、1941年(昭和16年)、議員16名の千島列島視察団に参加しています。
 なぜこの段階で視察がおこなわれたのか。日本は1911年(明治44年)、アメリカ、ロシア、イギリスと、オットセイやラッコを保護するための「膃肭獣保護条約」を結んでいましたが、この年の10月、失効が決まっていたからです。

 ラッコは毛皮として重用され、オットセイは漢方薬として使われる貴重な資源です。長年に渡って保護されてきた海獣猟が解禁されれば、ほとんど開発が進んでいない千島列島も、劇的に発展する可能性がありました。

ラッコの毛皮
ラッコの毛皮


 下村たちの乗った鮮海丸は、同年7月11日、禁猟区となっていた得撫島(うるっぷとう)に到着。得撫島には、密漁監視と毛皮用の狐を育てるための農林省の施設があるだけで、住民はいません。天候の関係で養狐場の見学が中止となり、一行はさらに南下し、択捉島に向かいます。

ウルップ島の農林省の越冬施設
農林省の越冬施設(ウルップ島)


 船は、13日の朝、択捉を左舷に見つつ、マッコウ鯨を横付けに黒煙をあげていく捕鯨船に追いつきました。択捉島の中心地・紗那の南に捕鯨基地があるのです。

択捉島紗那近郊の捕鯨基地
紗那近郊の捕鯨基地


 下村は、《千島も択捉までくると旧幕時代からの面影が残っている》と『千島視察録』に記録しています。この「旧幕時代からの面影」とはどういうことか。実は、択捉島や国後島は、江戸時代から漁業で賑わっていました。幕府が東蝦夷地を直轄領にしたのは1799年。幕府の命を受けて、近藤重蔵は最上徳内らと千島列島を探検しますが、国後島から択捉島に渡るのに難儀していました。

国後島の最東端アトイヤ岬
国後島の最東端アトイヤ岬


 このとき、貿易商人の高田屋嘉兵衛が、国後島のアトイヤ岬にやってきて、潮流を3週間ほど調査。択捉島までの航路を発見し、近藤らは無事、択捉島まで渡ることができました。そして、紗那を経由し、この地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てたのです。

「大日本恵土呂府」の木柱
「大日本恵土呂府」の木柱


 江戸時代、千島南部を支配したのは松前藩です。1807年、紗那の集落が、ロシアの武装集団によって襲撃される「シャナ事件」が発生。また1811年、ロシアのゴローニンが国後島に上陸したことで、幕府は島の防護を南部藩、仙台藩に命じます。
 そして、1855年の日露和親条約で、択捉島、国後島の領有が国際的に認められました。

1854年の国後島
1854年の国後島には陣屋や台場(砲台)が
(『アサヒグラフ』1956年9月23日号より)


 下村の報告は、次のように続きます。

《栖原(すはら)家に半世紀以上奉公している坂内老人は函館からわざわざ見えて接待してくれたが、紗那川原に鱒(マス)を網で引き上げ石焼きのもてなしは有りがたかった。扁平な大きな石に味噌をかためて土手をつくり、その中で鱒と玉ねぎの味噌焼きである》

 択捉島の漁業を仕切ったのは、栖原角兵衛と伊達林右衛門です。当時は漁場を「○○場所」といいましたが、択捉場所の請負が両家に決まったのは1841年(天保12年)。さらに、1863年には両家が樺太の漁場も任され、成功に導きます。
 両家は漁業基地を作りに奥地に行くと、そこに神社を建立していきました。

紗那神社
大砲2門が設置された紗那神社

 
 1869年(明治2年)、場所請負制度は廃止され、漁場持(ぎょばもち)制度に変わりますが、択捉島の漁業は、やはり両家が担当します。

 しかし、1875年(明治8年)、政府は樺太千島交換条約をロシアと締結。日本は樺太を放棄し、カムチャッカ以南の千島列島を確保します。樺太の58の漁場は、わずかな補償金で放棄させられました。大きな漁場を失った両家は択捉の漁場をもり立てようとしますが、経営は厳しく、伊達家は撤退。その後、栖原家も事実上撤退し、漁業権は三井物産のものになりました。

紗那
紗那


 1878年(明治11年)、海軍の郡司成忠(作家・幸田露伴の兄)は、軍艦「金剛」でウラジオストックに寄港します。領事館には遠い親族である松本という男がいて、北海道の将来について語り合います。このとき松本は、「日本人に千島は開拓できない。あまりに寒く、草木は生えず、航路も危険だからだ」と言います。これを聞き、郡司は千島の拓殖に強い関心を持ちました。

 郡司は1893年(明治26年)、「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ないます。
 そのとき、防寒テントの作り方をこう語っています。

《氷と氷の間に水をかけて1つのブロックにしたものを積んでいき、その上に柱を立てて、皮で覆ってテントを作る。
 床には穴を掘って、そこに浸水を防ぐためカモメの羽を敷き詰め、その上に枯れ草を敷く。木や魚の骨を刺して飛ばないようにし、さらにその上に蓆(むしろ)を敷く。そして熊やキツネやタヌキの皮をたくさん敷く》(『千島拓殖論』を意訳)

郡司大尉の記念碑(占守島)
郡司大尉の記念碑(占守島)


「報效(ほうこう)義会」と名付けられた拓殖隊はすぐに出発します。このとき同行したのが、後に南極探検で有名になる白瀬矗です。一行の目的地は占守島や捨子古丹島など択捉より北の島々ですが、もちろん択捉島にも寄っています。

《択捉島の紗那一帯は平坦で、肥沃な農地が遠くまで広がっている。役所や警察、病院、学校などはみな紗那にある。「報效義会」の本部もここにある。
 択捉島には紗那や留別、蘂取(しべとろ)などの港があるが、どれも天候が悪いと船が停泊できない。唯一、単冠(ひとかっぷ)のみが安全な港である》(白瀬矗『千島探検録』より意訳)

 報效義会の最初の拓殖は、死人の山を築いて失敗。第2次拓殖は比較的うまくいき、1903年(明治36年)には占守島に定住者が170人いたとされますが、日露戦争を前に開拓団は壊滅します。
 1900年に国後島と根室の間に海底ケーブルが敷かれるなど、徐々に開発は進んでいきますが、1930年になっても、千島列島には1台の電話もありませんでした。道路も、択捉島の一部以外はほぼ存在していません。

国後島と根室を結んだ海底ケーブル
国後島と根室を結んだ海底ケーブル(函館市北洋資料館)


 冒頭で触れた下村宏たちの視察記録によると、一行が訪れた1941年の段階でも、択捉島にまともな港はないとされています。ただ、唯一の例外が、島中央にある単冠です。一行が択捉島を訪れたのは夏ですが、この年の11月23日、単冠は不穏な空気に包まれます。ひそかに連合艦隊が集結しており、26日、艦隊はハワイを目指して出港しました。これが真珠湾攻撃です。

 下村宏は、1943年にNHKの会長になり、1945年には鈴木貫太郎内閣で内閣情報局総裁となっていました。
 1945年8月15日、終戦。昭和天皇による玉音放送をNHKが流した際、放送の前後に国民に向け発言したことで知られています。

歯舞群島
歯舞群島


 敗戦直前に侵攻してきたソ連は、択捉島など北方4島をすべて占領しました。
 当時、択捉島の蘂取に住んでいた山本忠平さんの証言が残されています。

《蘂取村に旧ソ連軍が侵攻した翌日、学校は再開された。霧深い朝の通学路を、山本さんはきょうだいや友人といつものように歩いていた。学校まで5分ほどの道すがら、それは霧の中から現れた。冬用の丸い帽子を深々とかぶり、裾の長いオーバーを着て、自動小銃を肩にかけた赤ら顔の旧ソ連兵。初めて見る外国人だった。
「おはようございます」。
 無言で近づいてきた2人の旧ソ連兵に緊張からか思わず、あいさつの言葉が出てしまった。反応はなかった。

 この日から、旧ソ連兵が家を一軒一軒、検査するようになった。山本さんの自宅にやってきた5〜6人の旧ソ連兵は、子ども部屋の押し入れやタンス、ままごと遊びの道具まで逐一、調べていった。もちろん、こちらもやられっぱなしではない。当時は体を悪くしていた祖母と姉が寝込んでいたが、貴重品や写真など大事な物は、2人が寝ていた布団の下に隠して難を逃れた》(毎日新聞、2012年8月15日)

択捉島留別
択捉島留別


 ソ連の侵攻から2年ほどは、ロシア人と日本人の奇妙な同居が続きます。しかし、1947年(昭和22年)年8月、山本さんたちは「日本」に強制送還されることになりました。

《蘂取村からの強制送還は突然だった。持ち出しが許された荷物は1人15キロ。日記や写真は許されず、服や布団、食べ物ぐらいしか持って行けなかった。船で村から離れる日、村のロシア人が禁止されていたにもかかわらず、大勢見送りに来た。皆、涙を流していた》(毎日新聞、2012年8月18日)

 一家はサハリン・ホルムスク(樺太の真岡)の監獄に入れられ、その後、日本に送られました。
 山本さんが墓参団の一員として再び蘂取村へ帰れたのは、1991年のことでした。すでに村は跡形もなく消えていましたが、唯一、国民学校のコンクリート製の正門だけが草むらの中に倒れていたそうです。


探検と交易のオホーツク海
旧日本領「樺太」紀行
竹島はこうして奪われた
沖縄の土地はこうして奪われた

制作:2018年12月22日

<おまけ>

 1956年、鳩山一郎首相がソ連を訪れ、国交回復で合意します。共同宣言では、平和条約締結後の歯舞群島、色丹島の返還が明記されますが、交渉は進展していません。
 2006年には、日本とロシアの「中間ライン」近辺にカニ漁に出ていた漁船がロシア警備艇から銃撃され、乗組員が死亡する事件も起きています。
 北方領土が返還された場合、米軍はそこに基地を作ることが可能なので、現実問題、ロシアが返還することはほぼないだろうと思われます。

色丹神社
シロナガス鯨の下あごの骨を使った色丹神社の鳥居
© 探検コム メール