韓国の漁船拿捕
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竹島はこうして奪われた
済州島に並ぶ、拿捕された数十隻の日本漁船
2012年8月、韓国の李明博大統領が竹島を訪問し、日本政府は竹島問題を国際司法裁判所に提訴する方針を決めました。もちろん韓国は応じず、日本の主張はただ「言ってみただけ」で終わりそうです。
竹島をめぐる問題
については別記してるので、ここでは韓国が竹島をどうやって実効支配していったかを見たいと思います。
ラスク書簡(ウィキペディアより)
1951年(昭和26年)8月10日、当時の米国国務次官補ディーン・ラスクから通達された文書があり(ラスク書簡)、ここに「竹島は日本の領土」というアメリカの意向が示されています。
ところが、その半年後の1952年1月18日、韓国の李承晩大統領が竹島を自国領と宣言します(李承晩ライン)。そして、1953年から韓国は竹島近辺に出漁した日本漁船の徹底的な拿捕を開始します。
拿捕された日本の漁船「新興丸」(右)、手前は韓国の巡視艇「203号」
1953年2月4日、「第一大邦丸事件」が発生し、同船の漁撈長・瀬戸重次郎氏が射殺されました。同年2月23日に開かれた第15回国会「水産・法務・外務連合委員会」で、同船の浜行治船長がこう証言しています。
《午前7時、本船の南西方より北上する漁船2隻あり、本船の西方約1マイル附近より順次進路を東に転じて、本船第一、第二大邦丸に接近して来ました。接近して来て日本語で「魚は獲れますか。」と話をした。そのまま行過ぎ、その附近で停止して操業状態にありました。(中略)
第一大邦丸が揚網中ワイヤロープ600メートル、綱約200メートル揚ったとき、右舷船尾距離30メートル附近より突然発砲して来ましたので、その綱を切断して直ちに遁走に移りました》
命中弾の被害があまりにひどく、第一大邦丸が逃走を断念すると、近づいてきた韓国船は「済州島の翰林に行け」と日本語で言いました。このとき、瀬戸漁撈長は右後頭部に被弾し、瀕死の状態でした。翰林入港後、韓国の憲兵に負傷者のある旨を伝えましたが、何の手当てもしてもらえません。結局、船員は私物を売って医師から輸血剤を打ってもらいますが、放置されつづけた瀬戸氏はまもなく死んでしまいます。
《翌日火葬いたしましたが、5日目より警察にいろいろ我々より頼んでみましたが、何の手配もされなかったので、私たちは寝棺から荼毘に至るまで一切我々船員の手でいたしましたが、薪に至っては1把1万いくらもするので、私たちはそれを買う金も持っていなかったので、私物を少々売って少し薪を買いましたが、私物にも限度があり、火葬するだけの薪が集められなかったので、足らない分は付近の松の枝などを折って来て、我々の手で火葬したのであります》
船から漁獲物まですべて没収された一行は、全員警察署の前の防空団詰所に監禁されました。4畳ぐらいの場所に18人が押し込められたのです。しかも食料は一切支給されず、船内にあった食料で食いつなぎました。
李承晩ライン周辺を警戒する韓国船。当時の日本にはこの程度の船もなかった
同じく監禁された第28海鳳丸の久保田伴良船長の証言。
《留置場は1部屋四畳半くらいで、部屋の隅に便所があり、朝鮮人と一緒にぶち込まれて、多いときは1部屋10人、全部で80人以上もおり、憲兵、兵隊、弁護士、刑事など全然区別なくどんどんぶち込んで、ときどきパンパン(売春婦)のかり込みでこれらが入って来れば、女だけの部屋を作るので部屋を空けるために部屋は超満員になって寝ることもできませんでした。又、俗に言う「地獄の沙汰も金次第」の譬(たとえ)の通り、殺人犯も執行猶予で出たりすることもありましたが、中には苦しい余り便所から逃げようとして、便所の中を泳いだ者もおりました。食事は丸麦1合くらいを1日2食、おかずは大根の葉っぱの塩漬を毎日毎日73日間も食わせられて、局長は栄養失調になり、20日くらいも入院しておりました》
一般にこの状態は虐待と言いますね。
済州島で軟禁状態にある日本人漁民。ときどき韓国海軍の軍医が巡回に
その後も多くの漁船が拿捕されます。捕まった漁民は、基本的に全員が済州島で軟禁状態に置かれましたが、1953年11月、釜山に外国人刑務所が新造されると、ほとんどがこちらに送られました。
乗員1人あたり100万韓国円(ウォン)の罰金で解放される決まりでしたが、船員はみな歯磨き粉などの日用品さえ買うカネがありませんでした。この場合、1日1万韓国円相当で留置されたのです。
そして、刑務所でも食料は外米と麦だけで、おかずは塩味の煮大根と実のない汁だけでした。
釜山刑務所の内部の写真はほとんどないんですが、1953年12月、日本からの支援船が釜山に入り、このとき外国人記者がわずかに取材しています。
釜山刑務所
日本からの缶詰の差し入れを楽しむ留置者
その後、12月頃までに、李承晩大統領の「恩赦」という形でほとんどの漁民が帰国を許されます。海上保安庁のサイトによれば、拿捕された漁船は326隻で、乗組員は3904人。海保の巡視船への銃撃なども15件16隻に及びました。
こうして、サバ、ヒラメ、タラ、グチなどの好漁場だった竹島周辺の海域に日本漁船が行くことはなくなり、韓国が実効支配するようになったのです。
韓国から帰国した抑留された日本人
ちなみに、朝鮮戦争が終結したのが1953年7月27日。それまで韓国海軍は、北朝鮮のスパイ密入国の対策などに多大な労力をかけていましたが、戦争終結で、一気に竹島支配を強めたわけです。
当時の韓国海軍は、艦艇が56隻で、乗員は1万人規模。実態はアメリカから与えられたフリゲート艦と、旧日本軍が残した小艦艇が主で、あまりに弱小な海軍でした。とはいえ、前年の1952年までに、海軍士官学校で7期500人が卒業しており、訓練もそれなりに進んでいました。しかも、軍艦以外に漁船を改造した特設警備船200隻も竹島周辺の警備に動員していました。
いくら韓国の海上警備が弱小とはいえ、当時の日本の海上警備隊はさらに弱小で、まったく韓国に対抗することはできませんでした。
竹島問題は、アメリカがマッカーサー・ラインに竹島を含めなかったことが始まりです。前述したように、アメリカはそのミスを認めていますが、当時は、日韓紛争が起きるように、アメリカはわざと竹島を外したという説が流布しました。目的は、日本の再軍備を迅速に進めるためです。
その真偽はともかく、以後、日本の
海上保安庁
と海自は、アメリカの意向どおり拡大していくのでした。
有楽町の「反韓運動」
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制作:2012年8月12日
<おまけ>
釜山刑務所には、韓国人と結婚したものの、死別などで生活できない日本人女性と子供たちが600人以上も収容されていました。日本人は罪を犯してなくても収容所送りというわけです。ここに収容された子供たちは、その後、どんな人生を送ったんでしょうねぇ?
日本からの差し入れに喜ぶ子供たち