昭和天皇の防空壕
東京脱出して、目指すは長野か岐阜か

昭和天皇の防空壕
英国の「タイムズ」と米国の「星条旗新聞」を読む昭和天皇


 第2次世界大戦が終結して半年後、アメリカで発売された写真週刊誌『LIFE』(1946年2月4日号)が一大センセーションを巻き起こしました。
 そこには、笑顔でほほえむ昭和天皇一家の写真が、5ページにわたって掲載されていたからです。

 昭和天皇の写真といえば、それまでは軍服姿のいかめしいものばかりでした。しかし、このとき公開された写真には、リンカーンの銅像を飾り、イギリスとアメリカの英字新聞を熱心に読む「普段着」の姿が写っていました(上の写真)。この写真が、天皇制の解体論議に大きな影響を与えたのです。

 カメラマンの名前は公表されていませんが、天皇一家が暗殺を恐れたため、アメリカ人ではなく、日本のサン・ニュース・フォトスの日本人カメラマンが選ばれました。そのせいもあり、かなりくだけた一家の様子が記録されています。

 一家の写真が撮影されたのは、皇居内の「御文庫」と呼ばれる小さな建物の周辺です。一見洋風の瀟洒な家ですが、実はこの建物は巨大な防空壕でした。事実、昭和天皇が植物に水をやる写真のキャプションには、「the front terrace of the bomb shelter」とさらりと書かれています。

昭和天皇の防空壕
防空壕前で植物に水やり


 昭和天皇は、明治宮殿と呼ばれる大宮殿に住んでいました。しかし、宮殿が昭和20年5月に焼失して以来、この小さな御文庫に住んでいたのです。ここを出るのは、1961年(昭和36年)に、隣接して吹上御所が完成してからのことです。

 そんなわけで、今回は『昭和天皇実録』から、皇居の防空壕の歴史をまとめておきます。
 ただし、御文庫の防空壕の写真はこれまで1枚も公開されたことがないので、残念ながら画像はありません。

宮内省
宮内省


 皇居内にあるいちばん最初の防空壕は、昭和10年(1935年)に完成しています。場所は、宮内省第2期庁舎(現在の宮内庁庁舎)の地下です。これを宮中では「金庫室」と呼んでいました。
 金庫室は鋼鉄の扉をつけた防空用の部屋ですが、内部は狭く、航空爆撃の発達にともない、強度が足りなくなっていました。

 そこで、御所の近くに、本格的な防空建造物を作ることになったのです。これが御文庫で、地下の工事開始は昭和16年5月21日。どうして御文庫と呼ぶかというと、

《防空造営物という名称ではいかにも逃げ腰風に聞こえ「英米の野望打破」「100年の長期戦」などと叫ばれる当時としては、大元帥陛下にふさわしくないという配慮から「御文庫」と名付けた》(岡部長章『ある侍従の回想記』)

 しかし、御文庫の工事は時間がかかることが予想され、まずは予備の防空壕が観瀑亭の近くに作られました。これは、陸軍築城部本部が指導し、近衛第一師団が建造にあたったもので、工事現場は秘密保持のため「陸軍戌号演習場」と名付けられました。工事開始は昭和16年8月12日です。9月29日には完成していますが、当初はほとんど使われなかったようです。
 この場所は「大本営防空壕」と呼ばれるようになります。

 この予備の防空壕が完成した29日、皇太子の避難場所が決まりました。春から秋は日光の田母沢御用邸、冬は千葉の三里塚牧場です。こうして、両方に250トン爆撃に耐える防空壕の建設が決まりました(ともに現存)。

御文庫の昭和天皇
御文庫の昭和天皇


 昭和16年10月17日、非常時における金庫室の用途が決まりました。

(通常時)→(非常時)
・侍従職皇后官職着替室
 →聖上御座所兼奥御食堂
(昭和天皇の部屋)
・侍従職皇后官職食堂
 →皇后宮御座所(皇后の部屋)
・宮内大臣控室
 →両陛下御寝室(寝室)
・大膳頭室
 →各内親王御座所
・第3応接室
 →皇子御寝室
・宮内大臣控室附属室
 →賢所剣璽の間
・地下金庫室
 →地下御座所
・内大臣応接室控室
 →常侍官候所
・内匠寮監守掛室
 →大本営会議室
 
 この日、避難に関するルールである「非常御動座奉仕要綱」が定められました。
 第2期庁舎への移動は、原則として宮内大臣が決定するものの、状況によっては侍従長、さらに緊急の場合には侍従でも判断できることになりました。

 ここで重要なのは「賢所剣璽の間」(かしこどころ・けんじのま)です。
 天皇は常に三種の神器を携帯しなければなりません。その三種の神器はどのように保存されているかというと、「剣璽の間」に神剣(天叢雲剣)と神璽(八尺瓊勾玉)が安置されていて、「賢所」に神鏡(八咫鏡)がご神体として安置されているのです。

 現在でも大きなイベントのときはそうですが、かつて天皇が宿泊旅行に行くときは、必ず、侍従が神剣と勾玉を持って随行していました。これを「剣璽動座」といいます(神鏡はご神体なので移動せず)。

 そのため、昭和天皇が防空壕に移動するときには、どうやって三種の神器を移動させるかが、非常に大きな問題だったのです。

賢所
賢所


 昭和17年8月12日、新規に完成した「御文庫」と「斎庫」で「修祓の儀」(お祓い)がおこなわれます。

 御文庫(おぶんこ)は宮内省工匠寮の設計によるもので、地上1階、地下2階からなっています。間口は75m、奥行は20m。
 工事は6月24日に終わるはずでしたが、建物外壁の色を、モルタル吹付から迷彩塗りに変更したため、7月15日までかかりました。

 御文庫の内部には、天皇・皇后の寝室、居間はもちろん、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあったようです。ここで映画『桃太郎の海鷲』などを見ています。

昭和天皇の防空壕
内部の図解(『天皇裕仁と東京大空襲』より)


 御文庫の西側には、鉄筋コンクリート造りの貯水池が2つありました。1つは長さ25m、幅8m、深さ1m20cm〜3mで、もうひとつが長さ6m、幅2m、深さ75cm〜1m30cm。もちろん、飲料水タンクの代わりですが、ふだんはプールとして使われました。

 斎庫は、宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)のための防空施設です。宮中三殿は「賢所」「皇霊殿」「神殿」の3つで、

・賢所 :天照大神を祀り、神鏡を奉斎
・皇霊殿:歴代天皇および皇族の霊を祀る
・神殿 :天神地祇(日本中の神)を祀る

 となっています。地下室で、その上には盛り土が施されていました。建坪は、なんと24万平方メートルに及んでいました。巨大なため工事は時間がかかり、昭和16年10月14日に着工し、昭和17年6月20日に完成しています。

宮中三殿
宮中三殿(奥、向かって左から皇霊殿、賢所、神殿)


 昭和17年9月11日、防空演習がおこなわれ、昭和天皇は終日、御文庫で過ごしました。
 9月30日、現実に警戒警報が発令され、天皇は皇后と金庫室に移動します。天皇は御文庫への移動を強く希望しましたが、御文庫の地下はあまりに湿度が高く、5女の貴子内親王(当時3歳)への悪影響を考え、断念しています。
 昭和天皇は御文庫が気に入ったようで、10月以降、週末は御文庫で過ごすことが増えていきました。

 昭和20年になると、空襲も大規模なものになっていきます。
 5月26日、アメリカの爆撃機が大挙して押し寄せ、警視庁方面からの飛び火で明治宮殿が全焼。明治宮殿だけでなく、大宮御所、東宮仮御所、青山御殿などもすべて灰燼に帰しました。霞関離宮も炎上し、これで、昭和天皇が幼少から過ごしてきた場所は、御文庫以外、すべて焼失しました。

霞関離宮霞ヶ関離宮
霞関離宮


 以後、昭和天皇はつねに御文庫で起居することになりました。2日後、天皇は庭に出て、塩原の野草を植える作業を1時間ほどしています。

 6月1日、侍従長から大本営防空壕の補強工事について報告を受けます。大本営防空壕は御文庫から90mほど離れた地下10mの場所にあり、地下道で結ばれています。この防空壕を補強し、御文庫附属室とする計画です。工事は6月5日から、陸軍省によっておこなわれました。この工事は「1号演習」と呼ばれていました。

『入江相政日記』によれば、補強工事後の附属室は広さ330平方メートル。56平方メートルの会議室と2つの控室、機械室があり、床は板張り。各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていました。

 6月2日以降、附属室が大本営会議室になり、昭和天皇は御文庫から地下トンネルを通って附属室へ行くようになりました。

松代大本営
松代大本営の構造図


 陸軍は、皇居への攻撃を恐れ、密かに長野県松代町に「地下皇居」の建造を進めていました。いわゆる松代大本営です。このことは天皇には秘密でしたが、いつまでも隠しておくことはできず、ついに6月13日、松代移転が奏上されます。ですが、天皇は拒否。怒りのあまりか悲しみのあまりか、珍しく翌日から2日間体調を崩します。

 7月25日、内大臣の木戸幸一が「陸軍の言う本土決戦に失敗すれば、皇室も国体も護持できない」と奏上します。
 昭和天皇は徐々に決意を固めていきます。
 7月29日、御文庫附属室の補強工事が完成。その2日後の7月31日、昭和天皇は木戸幸一に次のように話します。

《伊勢と熱田の神器(=三種の神器)は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而(しか)しこれを何時(いつ)御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程(よほど)慎重を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。此辺、宮内大臣と篤(とく)と相談し、政府とも交渉して決定して貰(もら)ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ》(『木戸幸一日記』より)

 松代への移転を認めた瞬間です。
 ところが、『昭和天皇実録』では、三種の神器の移転先が松代ではなく、なぜか岐阜県の「飛騨一宮水無神社」を候補地としています。
 昭和天皇は、三種の神器の避難先を、岐阜と長野のどちらに決めたのか。これは、おそらく永遠にわからない話だと思われます。

飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社

 そして、8月10日。昭和天皇は、御文庫附属室でポツダム宣言の受諾を決定するのでした。

 

制作:2015年2月15日

<おまけ>  2015年8月1日、御文庫附属庫の写真が宮内庁より公開されました。これは会議室の写真です。
御文庫附属庫

<『昭和天皇実録』の世界>
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