モラトリアムと預金封鎖
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「借金チャラ」の日本史
あるいは「支払い猶予」と「預金封鎖」
昭和21年に行われた「預金封鎖」
【室町時代の借金チャラ】
トンチで有名な一休さん(一休宗純)は、48歳のとき、京都・塩小路町(今の京都駅前)にあったボロ家に引きこもります。1441年のことです。一休の死後まもなく弟子達がまとめた『一休和尚年譜』には、このことがあっさりとしか書かれていません。しかし、蟄居した理由は、京都の大混乱を避けるためだった、と言われています。
万里小路時房の日記『建内記』には、次のように書かれています。
《近日、四辺の土民が蜂起している。土一揆と号し、御徳政と称して借物を破棄している。ことの起こりは江州から始まり、坂本・三井寺周辺・鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂のあたりは異常なほど物騒としている。今日は法性寺のあたりで土一揆が起きて、火事になった。侍所が大勢で防戦しているが、引き下がりはしない。土民の数が数万にもふくれあがり、防ぎきれないのだという。賀茂のあたりでは、今夜も鬨の声があがっている。かつて正長年間にも土一揆があって京都にも混乱が及んだ。そのときは畠山満家が管領で、遊佐国盛が出雲路で鎮圧した。今の土民は「将軍の代始めの一揆は前例に従っている」と言うが、言語道断である》(1441年9月3日)
嵯峨には天龍寺が、法性寺周辺には東福寺があり、門前町には土倉や酒屋といった金融業者が集まっていました。まさに京都の繁栄の象徴で、農民はこうした金貸しを襲い、「借金チャラ」を武力で訴えていたのです。農民はさらに東寺を包囲したため、幕府は徳政令を出し、借金を帳消しにしました。
農民が初めて蜂起したのは、1428年(正長元年)の「正長の土一揆」で、このときは徳政令は出ていません。しかし、今回の「嘉吉の土一揆」では、政府の命令で、公式に借金が消されたのです。
室町時代の末期、社会は凶作や病気の流行で混乱し、一揆が多発しました。それに対抗し、6代将軍・足利義教は強権を発動しています。そして、恐怖政治に耐えきれなくなった守護の赤松満祐は、1441年に義教を暗殺します(嘉吉の乱)。
この暗殺事件が「嘉吉の土一揆」を呼び、さらに1467年の応仁の乱につながり、以後、戦国の世が始まるのです。
一休は、自分がいた大徳寺にも一揆の被害が及ぶことを想定し、田舎に引っ込みました。しかし、混乱は収まらず、翌年はさらに山奥に引っ込んでしまったのです。社会不安は、トンチでは解決できなかったわけです。
借金棒引き(徳政令)は、鎌倉時代、元寇以来の貧窮に苦しむ御家人の保護のため、1297年に出された「永仁の徳政令」が最初です。1334年には後醍醐天皇が「建武の徳政令」を出しています。
徳政令を出すと、言うまでもなく金持ちからの反発がすごく、徴税にも支障を来しました。結果、室町幕府は、徳政令による収益増大という裏技を発明します。
1454年、幕府は「分一徳政令(ぶいちとくせいれい)」を発布。これは「分一銭」、つまり借金額の10分の1を幕府に納めた者だけ、借金チャラにするという決まりです。これを「分一徳政令」といいます。
逆に1457年には、分一銭を納入した貸し手に、その債権を保障する決まりを作りました。これは「分一徳政禁制」と呼ばれます。
こうして、財政難の幕府は、民間のカネの借り貸しから収入をあげるという政策を編み出すのです。こうした事情もあり、徳政は庶民にとって歓迎すべきものではなくなっていくのです。
【江戸時代の借金チャラ】
さて、その後も、さまざまな形で借金棒引きが行われますが、江戸時代はどうか。借金棒引きはどんどん複雑怪奇な仕組みへと変化します。
江戸時代、多くの旗本・御家人が、札差(ふださし)という米の仲介業者から借金していました。この借金をチャラにするにはどうしたらいいのか。これは、言い換えれば、商人の富をどうやって武家に移転するか、ということです。
『江戸の小判ゲーム』という本によれば、幕府は、以下のような政策を実行します。
●棄捐令(きえんれい)=札差からの借金チャラを宣言
●金銀訴訟の不受理=貸し借りに関する訴訟を受け付けず、当事者同士で解決しろ、という「相対済令(あいたいすましれい)」を出すことで、実質的にチャラにする
●債務条件の緩和=利率を下げたり、返済条件を緩和させる
●会所の設置=豪商から資金を集め、その金を一種の銀行である会所を通じ、武家へ融資する
●御用金の徴収=豪商から巨額の金を半強制的に借り上げ(御用金)、武家の救済費用にする(国債を強制的に買わせてるのに近いかも)
さらに、その後、通貨(小判)を切り替えることで、豪商の資産収奪に乗り出します。高品質の旧小判を回収し、低品質の新小判を広める作戦です。
《古い小判が価値を持ちつづけている限り、人びとはわざわざそれを差し出して新小判と引き替えようとはしない。享保改鋳のように新小判のほうが高品質の時でさえ、引き替えの動きは鈍かった。そこで、古い小判に有効期限を設けるぞと通達する。期限が切れて潰し金扱いになってしまったら大損だから、その前にみんな引替所に駆け込んでくるだろう、しめしめーーところが、案に相違して失敗。
ならば、と次の元文改鋳では作戦を変更し、同額通用策をとった。古い小判を市場で使っても新小判と同じ1両にしかならないけれど、引替所に持って行けば新小判1.65両と交換してくれる。これならみんなお得な引替所に駆け込んでくるだろう、しめしめーーところが、またも失敗》(山室恭子『江戸の小判ゲーム』)
こうして、なかなか新しい小判は普及しなかったのです。
なお、ここで注意したいのが、この時点で「借金チャラ」というより、「金持ちからの資産収奪」に近くなってることです。無制限にカネが作れない以上、どこかでプラスとマイナスの帳尻を合わせなければならないわけで、借金が巨額ならどこかから奪う必要があるわけです。
【昭和時代の借金チャラ】
明治時代になって
銀行が誕生
すると、「国民の借金チャラ」はほぼあり得ない話になり、「政府の借金チャラ」という考え方に変わっていきます。
なにせ、日清、日露戦争でカネはいくらでも必要だったため、巨額の国債が発行されていたからです。とはいえ、明治時代はなんとか経済は回りましたが、1923年(大正12年)に起きた
関東大震災
は、日本経済を破綻寸前に追い込みます。
1927年(昭和2年)、「昭和金融恐慌」が起こります。これは、第一次世界大戦による好景気が一転して不況となり、さらに震災からの復興のために発行された「震災手形」が膨大な不良債権と化していたことが背景にありました。
銀行で取り付け騒ぎが起きると、高橋是清蔵相は片面印刷の急造200円券を大量に銀行にばらまき、騒ぎを終息させます。このとき出されたのが、モラトリアム(支払猶予令)です。高橋は銀行を2日間一斉休業させ、さらに3週間にわたって支払猶予を実施したのです。
モラトリアムというのは、「今すぐは支払いません」という意味で、銀行の借金チャラではありません。しかし、国民からしたら、預金が封鎖されてるわけで、日常生活に支障を来しました。
続いて、1930年(昭和5年)から翌年にかけて、日本経済を
「昭和恐慌」
が襲います。以後、日本経済は「統制」と「通貨管理」が進み、テロと戦争の時代に突入するのです。
そして、敗戦後の1946年。日本経済は物価が5倍になるハイパーインフレが起きていました。そこで、GHQ(政府)は新しい紙幣を発行し、旧円から新円への切り替えに乗じて、市中に流通するカネを減らし、インフレを抑える政策を発動します。
当時の朝日新聞にはこうあります。
《いよいよ新円が登場するーー正確に言へば新日本銀行券と呼ばれるべきものだ。この新円発行の目的と意義は第1に「財産税」「個人財産増加税」等、新税徴収の1つの手段として発行されるもので、財産調査に当(た)って手許現金がいくらあるかを新旧両円の交換によって明るみに出さうといふわけだ》(1946年2月17日)
これはつまり、国民の資産を奪ってインフレを抑えるのが目的でした。
その流れをまとめておきます。
まず1946年2月16日(日曜日)、「金融緊急措置令」等が発令されました。
預金封鎖を報じる日本産業新聞(現・日本経済新聞)1946年2月17日
(1)現存の預貯金は2月17日をもって封鎖され(預金封鎖)、以後は毎月世帯主300円、家族1人につき100円しか引き出せない
(2)2月25日に新紙幣が発行される。手持ちの現金(旧紙幣)は3月2日以後は無効となるから、なるべく早く新札と交換しなければならない。交換期間は3月7日まで。また、交換した新札は1人あたり100円までしか受け取れず、それ以上は封鎖される
新100円札
新10円札
この新10円札には、当時、盛んに陰謀論がささやかれました。紙幣の表に「米日」と書かれ、米国の中に国会議事堂があり、日本の皇室は鎖につながれ、それを米兵が監視しているというものです。
(3)3月9日、銀行と日銀の紙幣交換も終了し、旧札の回収が完了
なお、上記の例外規定として、法人は社員1人あたり500円までの給料を引き出せました。当時、サラリーマンは超エリートだったので、例外扱いされたわけです。ほかに、戦災者は1人1000円(一世帯5000円)まで、さらに保険、冠婚葬祭、教育、選挙、定期代などに例外がありました。
新円切り替え。新札の印刷が間に合わず、旧札に証紙を貼って10月末まで通用させた
(4)4月1日、世帯主も100円までしか下ろせなくなる。また戦災者の特別枠も中止
預金封鎖された通帳
(世帯8人なので月800円)
(5)5月29日、戦前の軍需産業への戦時補償打ち切りが報道される
(6)8月11日、個人の預貯金は、最高3万2000円の第1封鎖預金と、それ以上の第2封鎖預金に分別する(法人は1万5000円以下が第1封鎖預金)。第2封鎖預金は、財産税を徴収した後、封鎖を解除。
財産税算定の基礎は、臨時財産調査令によって3月3日午前零時現在で調査済みです。すごいのが、財産税の税額でした。なんと、最低で25%、最高で90%だったのです。もともと政府には1400億円もの
戦時公債
がありました。しかし、財産税で大富豪から財産のほとんどを収奪し、戦時補償の打ち切りで軍需産業などに払うべき借金を踏み倒したのです。
財産額と税率
10万円以上25%、11万円以上30%、12万円以上35%、13万円以上40%、
15万円以上45%、17万円以上50%、20万円以上55%、30万円以上60%、
50万円以上65%、100万円以上70%、150万円以上75%、300万円以上80%、
500万円以上85%、1500万円以上90%
この預金封鎖の被害を受けたのが、斎藤茂吉でした。その様子を、息子の北杜夫が書いています。若干長いですが、引用しておきます。
《2月17日、新円発行が発表になった。私はこれで物価も下ると単純に考えていたが、インフレはますます激しくなり、なにより預金封鎖のため、本当はまずまず金に困らぬ身分であったはずの私の家も、月々定められたわずかな引出し額で暮さねばならなくなった。
父はもっと単純であった。元来が彼は貧乏性で金銭に無知で、病院も家も焼けたため、相当の金を持っているくせに、今にも一家が路頭に迷うかのような幻想を抱いていた。
ようやく新しい雑誌が矢継早(やつぎばや)に刊行され、父はそこに沢山の歌や随筆を書いた。隠し持った金だの稿料だのを疎開先の押入れの蒲団の下にぎっしりと押しこみ、貧乏の涯のごとく暗澹(あんたん)とした顔をしていた。そこへ新円切りかえで、このままにしておけば旧円は使えなくなるというニュースである。彼はおそるおそる蒲団の下の札束を数えてみた。10万円もあった。
当時にしては大金である。かなりの土地なり買える金である。しかし父は、これで物価は下ると思ったし、金はなにより大切と思ったし、せっかくの現金をわざわざ預金してしまった。それはそのまま封鎖され、まったく無価値同然となった》(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』)
そして、北杜夫は、
《あのときの金のほんの一部で、せめて闇の缶詰なり買いこんでおいたら、とあとになって私は何十回となく夢想したものだ》
と悔しがるのです。
「本日より入場券は新円でお買い下さいませ」。昭和21年の松竹座の入場料は10円
(国鉄入場券20銭、公衆電話20銭、エンピツ50銭、映画3円、戸建て家賃50円)
預金封鎖中は、1人100円しか下ろせなかったわけで、家族5人いれば500円。昭和21年の公務員の初任給は540円なので、庶民から見れば、かなり苦しいとはいえ、ギリギリ生活できる額でした。
やはり、ターゲットは金持ちだったのです。
預金封鎖は、1948年7月に解除されました。斎藤茂吉だけでなく、皇族も大損しました。
《財産税の対象になったのは50数万人だった。GHQは皇室財産も含めて課税するように命令した。天皇家の財産は約37億円と認定され、この内の9割に当たる33億円相当分が物納されることになった。皇室御料や御用邸は、宮城内の旧本丸一帯や赤坂離宮等を除いて処分された。宮家では高松宮家が最高額の1000万円相当の土地家屋を徴収された》(太田晴雄『預金封鎖』)
しかし、このとき大儲けした人もいます。「強盗慶太」こと五島慶太や、「ピストル堤」こと堤康次郎は、紙屑同様の国債を市民から安く買い集め、広大な土地を旧円や国債で買ったと言われています。五島慶太は
東急グループ
を作り、堤康次郎は西武グループを作り上げました。堤康次郎は
宮家の屋敷
にターゲットを絞ったため、それが赤坂プリンスホテル、高輪プリンスホテルとして姿を変えたのです。
制作:2013年4月1日
<おまけ1>
冒頭で触れた一休さんですが。
一休は、前述の通り、48歳のとき、土一揆の混乱を避けて郊外のあばら屋に引っ込みます。こうしたことから、まるで清貧の生活をおくったような印象がありますな。確かに20代の頃は、カネがなければ食事を抜くか、京都で薬草を売るなど、ちょっとした貧乏生活をしています。
が、65歳のころ、荒廃した龍翔寺に個人としては巨額の21貫500文の修繕料を寄進していることからも、実際はほとんど金に困っていなかったことが伺えます。まぁ、一休宗純は後小松天皇の落胤とする説が有力なんで、単なるボンボンだった可能性が高いんですな。借金苦とはほど遠かったんでしょうね。
<おまけ2>
国が外国から借りた金をチャラをすることを「デフォルト」といいます。
有名なのが、2001年に国家破綻したアルゼンチンですね。もともとアルゼンチンは、世界トップレベルの農業国で、20世紀半ばまで南米一の経済大国でした。通貨ペソは米ドルと等価で固定されており(ドルペッグ制)、国民は安い外国製品を買い求めました。ところが、ペソの過大評価で輸出が低下、さらに、大衆迎合的なバラマキも止まらず、ある日突然、アルゼンチン国債は暴落したのです。
こうして2001年12月1日に預金封鎖が起き、国民が銀行から引き出せる額は週250ドルに制限されました。アルゼンチン国民はこれに懲りて、次は米ドルで預金していました。しかし、2度目はその米ドルも預金封鎖されてしまいました。
借金をチャラにするためには、誰かを損させないといけない。外国への借金をチャラにするなら、言うまでもなく、国民全員が泣くわけですな。ちなみに、2013年にはキプロスで預金封鎖が行われました。
また、「モラトリアム(支払い猶予)」も国際的に実例が多くあります。有名なのは、1930年代、ドイツに対してアメリカが行った「フーバー・モラトリアム」ですね。
意外に知られてませんが、日本では2013年3月31日まで3年間にわたる「モラトリアム」が実施されていました。これは中小企業への貸し剥がしなどを防ぐ「中小企業金融円滑化法」です。要は返済条件の緩和ですが、同法の期限切れにより、大量の倒産が危惧されています。