「電通」の誕生
国際ニュース戦争の始まり

シベリア出兵を伝える日経新聞
かつて「路透」「ロイテル」「ルーター」と呼ばれたロイター通信
(シベリア出兵を報じる「中外商業新報」=現在の日経新聞)



 1922年7月、ニューヨーク。
 1人の日本人が新聞社「ニューヨーク・タイムズ」の社屋を訪問し、6階の編集長室で主筆と面談していました。その人物、光永星郎(みつながほしお)は主筆に次々と質問していきます。

 ・1日あたりどれくらいのニュースが入り、実際に使われるのはどれくらいか
 ・ヨーロッパ、オーストラリア、南米、日本からの通信所要時間はどれくらいか
 ・これまでに払ったなかで一番高いニュース代はいくらか
 ・政府と新聞社の関係、企業と新聞社の関係、新聞の品位、発行部数と販売分布
 ・広告スペースと記事スペースの割合……
 

 会談は数時間続き、光永は深夜にホテルに戻りました。そして最後に、通訳を務めた「ニューヨーク新報」の日本人記者にこう訊ねました。
「アメリカ文明の中にいて、日本精神がわかりますか?」

 光永星郎は、日本電報通信社、つまり現在の「電通」の創業者です。電通は単体で世界最大の広告会社ですが、もともとは日本最大のニュース通信社でもありました。ニューヨーク・タイムズへの関心も、広告より記事の方が圧倒的に高かったことがうかがえます。

 世界中のニュースを集め、それを日本の新聞に販売する。新聞社はその分の経費を、広告によって回収する。しかし、広告を集めるのは大変だから、広告枠を電通に丸投げする。
 つまり、電通は、記事と広告の両方を新聞に売って丸儲けという、素晴らしいビジネスモデルを日本で初めて成立させたのです。
 逆に言えば、新聞の経営は、完全に電通に支配されていたともいえます。

 とはいえ、光永星郎が電通を創設したのは、新聞で儲けるためではなく、日本のことを世界に伝えるためでした。どうしたら、世界は日本のことを正しく理解してくれるのか? その思いが「アメリカ文明の中にいて、日本精神がわかるか」という言葉に結びついたのです。

 そんなわけで、今回は日本の通信社の誕生です。

電通創業者・光永星郎
電通創業者・光永星郎


 熊本で生まれた光永星郎は、19歳のとき、同郷の上野岩太郎(上野靺鞨)とともに上京します。
 上野は朝日新聞に入社して、のちに初代北京特派員となりました。日露戦争に従軍し、遼陽で撮った戦地写真が、朝日新聞に掲載された最初の写真となりました(1904年9月30日)。

 一方の光永は、一時期軍人を目指しますが、夢破れ、東京でフラフラしているうち、「保安条例」に引っかかります。保安条例は、少しでも政治的に過激な意見を言うと、24時間以内に東京追放という厳しい法律でした。
 本人曰く、「『どうしてこの法律が自分に適用されるのか』と聞くこと自体が法律違反」(『貧困との闘ひ』)という乱暴なものでした。

 1年ほどで東京追放が解除になると、光永は新聞社とつながり、日清戦争で従軍記者となりました。今でいうフリージャーナリストで、前線まで行って、記事を新聞社に売るのです。

 支那兵は残虐で、敗戦色が濃くなってくると、日本兵に懸賞をつけ、首は50両、手足は1本5両で買い上げました。日本兵の死体はどれも裸体で、無惨に切り刻まれています。日本軍は全体に統制が取れていたものの、義憤に駆られた一部は暴走した可能性もあります。

 日本は、旅順を48分で攻め落としました。敵兵の一部は民間人になりすまし、ゲリラ戦を仕掛けてきたので、夜、掃討作戦を行います。このとき、逃げ惑う婦女子に流れ弾が当たり、民間人にも犠牲が出ました。
 これをニューヨーク・ワールド紙の記者が「旅順大虐殺」として報道し、一大センセーションを巻き起こします。

日清戦争に従軍中の電通創業者・光永星郎
日清戦争に従軍中の光永星郎
(国会図書館『新聞総覧』大正4年版より)


 世界的な報道合戦が始まるなか、ニューヨーク・タイムズなど「虐殺はなかった」と報道するマスコミもありましたが、多くの欧米メディアは日本に批判的でした。現場を知る光永にとって、それは劣等国民への差別だとも感じました。
 当時、日本の言い分を世界に伝える手立てはありませんでした。日本の立場やニュースを正確に世界へ伝えるにはどうすればいいのか。こうして、光永星郎は通信社の設立を思いつくのです。

 もうひとつ、光永が従軍で思い知らされたことがあります。

 当時、外地の報道は、値段の高い電報はほとんど使わず、多くが軍事郵便で送っていました。平壌戦が終了し、各記者が仁川まで出向いて原稿を発送しようとしますが、このとき、東京日日新聞の記者が時事新報の記者に郵送を依頼したのです。
 時事の記者は、この原稿をパクって自社に電報で送り、東京日日へは郵便で送りました。時事はパクリだとは思わず、すぐに1ページ大の記事にします。その後、1カ月たって、同じ記事がようやく東京日日に到着したのです。もちろん、使い物にはなりませんでした。

 このとき、光永はニュースの速報性について痛感しました。

 さらに、こうした外信記事が地方にはほとんど伝わらないことも問題でした。世界情勢を知ることができるのは、ほぼ東京と大阪の読者に限定されてしまいます。これでは日本が世界に雄飛する際の大きな壁となる——これも、通信社ができれば解決する問題でした。

 光永は帰国後の1901年(明治34年)、電報通信社と日本広告を創業。1906年、両社を合併して、日本電報通信社(以下「電通」)を作るのです。

日本広告株式会社の開業広告
日本広告株式会社の開業広告
(東京日日新聞、1901年7月28日)


 すでに日本にはいくつかの通信社があり、合併などで、帝国通信がひとり気を吐いていました。しかし、事実上、中央のニュースを地方に配信するだけで、国際ニュースは扱っていませんでした。ここに、電通が殴り込んだのです。

 電通は、1907年には日本各地50カ所以上に加え、北京、ソウルにも通信員を置きました。この上で、さらに国際ニュースを扱うには、外国の通信社と提携を結ぶしかありません。しかし、選択肢は限られました。

 実は、もともと日本には、外国の通信社はロイター通信しかありませんでした。いったいなぜか?

ロイター通信東京支局
ロイター通信東京支局


 世界初の通信社は、1835年、パリで創設されたアヴァス通信(現AFP)です。後に、そこで学んだ2人が、ドイツでヴォルフ通信、イギリスでロイター通信を創業します。3社は激しい競争の末、1870年、世界ニュース市場の分割に合意します。
 具体的には、
 
○アヴァス:フランス領、南欧、南米など
○ヴォルフ:ドイツ領、北欧、ロシアなど
○ロイター:イギリス領、トルコ、極東(中国、日本)など

 こうして、ながらく日本はロイター通信の支配下にあったのです。

 とはいえ、日本で外国のニュースを買う人は少なく、日本のニュースに興味ある国もなかったので、当初、日本にロイターの支局はありませんでした。横浜に英字新聞はあったので、一応、横浜のホール商会が取り次ぎ業務は行っていました。各新聞は、横浜のデイリー・メールに載ったロイター電を翻訳して載せるのがせいぜいだったのです。

 その後、ロイター電はジャパン・タイムスが一手に取り扱い、それを翻訳して掲載する状態が続きました。
 
 通信社によるニュースの世界分割を壊したのは、新進のアメリカの通信社です。アメリカには、APとUP(現在のUPI)の2大通信社がありました。

 電通はロイターと契約しますが、のち喧嘩別れし、UPとの関係を深めます。電通は、日本で初めて、日本のニュースを海外にも配信しました。
 一方、国内では新たに外務省の支援で「国際通信社」が1914年に設立されます。これはアメリカの排日運動への対抗策の意味合いもありました。しかし、国際通信社はロイター以外の契約は許されず、あくまでロイターに隷属したままでした。

 当時のニュースの流れをざっとまとめるとこんな感じです。

○UP ←→電通→各新聞
○ロイター→国際→東京・大阪の新聞
○ロイター→国際→帝国→地方新聞

電通社屋
電通社屋
(国会図書館『新聞総覧』大正2年版より)


 1923年、国際通信の社長・岩永裕吉は、2万ポンドの補償金を払って、ついにロイターを日本から完全撤退させました。その後、上海で設立された東方通信社を吸収し、新聞大手8社(東京日日、大阪毎日、東京朝日、大阪朝日、国民、時事新報、中外商業新報、報知)が出資して、1926年、「日本新聞聯合社」を設立。

 帝国通信は関東大震災後、経営が悪化し、1929年に破産。以後、電通と聯合の2大勢力の時代が到来します。聯合は再びロイターと結び、さらにAPとも提携し(1933年)、ニュースの流れはこう変わりました。

○UP     ←→電通→各新聞
○AP、ロイター←→聯合→各新聞

上海事変を報じる朝日新聞
上海事変を報じる大阪朝日新聞(1932年1月29日)


 ロイターは、海底ケーブルを長らく独占しており、その強さは圧倒的でした。
 第1次世界大戦のとき(1914〜)、ドイツ側の見解がまったく世界に流れなかったのは、ロイターの通信網に負けたからです。また、日本が国際連盟を脱退したとき(1933年)、日本の立場が世界に伝わらなかったのも、同じ理由です。

 戦争や外交は、その国の通信社の強さによって、大きく動くことが明らかになりました。
 こうして、日本政府は、電通の通信社部門を聯合と強制的に合併させ、1936年(昭和11年)、「同盟通信社」が発足します。電通は純粋な「広告会社」として再出発するのです。

光永星郎
全社員の前で訓示する光永星郎
(1936年5月30日)


 通信部門分離を受け、光永星郎は全社員を集め、こう訓示しました。

「電通のマークはレポーター(報道)のRとアドバタイジング(広告)のAを組み合わせたものです。そのRとAの関係は、今後も新聞の経営には絶対必要な条件だと思います。RとAは、同盟通信と電通の関係を、天が予見して付けさせたのではないかと思うのです」

 戦後、同盟通信は解体され、共同通信と時事通信に分割されましたが、両社とも経営基盤は安泰とは言えません。
 ロイターもUPも経営危機から身売りしており、民間通信社は過渡期を迎えているのです。


広告会社としての電通

2014年11月24日


<おまけ> 
 日本最古の英字新聞「ジャパンタイムズ」もまた、日清戦争後、日本の立場を世界に発信するため、創刊されました。中心になったのは、伊藤博文の秘書官だった頭本元貞(ずもともとさだ)で、福沢諭吉、伊藤博文、そして三井、三菱、日本銀行、正金銀行、日本郵船の援助を受けて創刊しました。創刊号の社説には、

《わが帝国臣民と居留外国人が、互いに交際して以来40年経つのに、依然としてまったく知らない者同士のような関係なのは、慨嘆に堪えない。これは治外法権の影響もあるが、それよりも外国人が日本語を理解できないことが大きいだろう。一方、日本人の英語の知識も皮相的だ。こうした事情を知れば、欧米人と日本人の意思疎通を図り、お互いに接近できる「公共機関」が必要だ》


 と英文で記されていました。
ジャパンタイムズ
ジャパンタイムズ 1910年1月30日号(御木本、三越、高島屋、三井銀行の広告が)
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