ガガーリン資料1
「地球は青かった」のオリジナル・インタビュー
好きな作家、スポーツは?
1961年4月13日、ユーリー・ガガーリンと「イズベスチヤ」紙特派員との会話が、つぎのようにおこなわれた。
問い 宇宙船に乗りこむ直前、あなたはどんなことを感じましたか?
答え 宇宙船に乗りこむ直前、わたしは大きな満足を感じました。この宇宙飛行をわたしがやることになったことを、たいへん幸福に思い、誇りに感じました。同時にまた、未知の点が多い宇宙飛行にたいする重大な責任感にみたされ、人間を宇宙空間にはこびうるほど強力な宇宙船をつくりだすことのできたわが国民にたいする誇りの念でいっぱいでした。
問い 飛行中、あなたはなにを感じ、なにを考えましたか?
答え わたしの思考と五感は、すべて飛行計画の遂行にむけられました。わたしはこの課題の項目をすべて遂行したかったのです。しかも、できるだけりっぱに。なすべき仕事は、たくさんありました。飛行全体が仕事だったのです。
問い 上昇につれて重量感がなくなり、またそれが回復したとき、あなたはどういう気持ちがしましたか?
答え 無重量状態があらわれたとき、わたしの気分はすばらしく良好でした。なんでも、らくにできるようになりました。これはもっともなことです。足も手も、まったく重さがなくなりました。いろいろな物はキャビンのなかに浮かび、わたし自身も、それまでのように椅子にはすわらず、空中に浮かび上がりました。
無重量状憩のあいだ、わたしは食べたり飲んだりしましたが、すべては地上にいるときと同じでした。わたしはこの状態でも仕事をし、ものを書き、自分の観察を記録しました。手にはまったく重さがなかったけれども、筆跡は同じでした。ノートだけは、おさえておかなければなりませんでした。そうしないと、手から抜けだしてしまうからです。
いろいろな経路をつうじて地上と連絡をとりました。電信のキーも打ちました。わたしが信じていたように、無重量状態は作業能力になんの影響もおよぼさなかったのです。無重量状態から重量状態への移行、つまり引力の出現は円滑におこなわれました。手足の感じは無重量状態のときとおなじですが、ただ重さが出てきました。わたし自身もイスのうえに浮き上がることをやめて、それにしっかりとすわりました。
問い 高々度からながめると、地球の昼夜双方の面はどんなふうに見えますか? 天空、太陽、月、星はどんなふうに見えますか?
答え 高々度からながめると、地球の昼の面はひじょうによく見え、大陸の海岸線、島、大きな川や大きな貯水池、土地の起伏などがはっきり識別されます。わが国の上空を飛んでいたとき、わたしはコルホーズの広い四角形の畑をはっきり見わけましたし、またどこが耕地か、どこが牧場かを区別することができました。
これまで、わたしは1万5000メートル以上の高度にのぼったことはなかったのです。もちろん、衛星船上からは飛行機からのようによくは見えませんが、それでもひじょうによく見えます。
飛行中にわたしははじめて、自分の目で地球の球形を見ることができました。地平線を見ると、地球はまるく見えたのです。言っておかなければなりませんが、地平線のながめはとても独得で、なみはずれて美しいものでした。地球のあかるい表面から、星の見えるまっくらな空への、すばらしく色どりゆたかな移りかわりを見ることができました。この移りかわりの境目はきわめてデリケートで、ちょうど地球をとりまく薄い膜の帯のようでした。それは淡青色の薄い膜でした。そしてこの空色から暗黒への移りかわりは、すべてきわめてなだらかに、しかも美しくおこなわれていました。それはとても言葉では言いあらわすことができません。
わたしが地球のかげから出ると、地平線はまるで変わって見えました。そこには明るいオレンジ色の帯があって、つぎにそれがふたたび淡青色へ、さらに暗黒色へと移りかわっていきました。わたしは月を見ませんでした。宇宙で見る太陽は、地球上で見るより数十倍も明るくかがやいていました。星はひじょうによく見え、たやすく見わけられました。天空のながめ全体は、地球から見るよりはるかに対照がはっきりとあらわれていました。
問い あなたはたったひとりで宇宙にいて、孤独を感じましたか?
答え もちろん、孤独感などはぜんぜん味わいませんでした。友人諸君が、全ソビエト国民が、いまわたしの宇宙飛行を見まもっていることをよく承知していました。もしわたしが困難な状態におちいっても党と政府はいつでもわたしを助けてくれる用意があると、信じて疑いませんでした。
問い ソビエトの最初のスプートニクが打ち上げられたとき、あなたはどこにいましたか、なにをしていましたか、また自分が最初の宇宙飛行士になるだろうと考えていましたか?
答え ソビエトの最初の人工衛星が宇宙に打ち上げられたとき、わたしはオレンブルグ飛行学校の卒業まぎわでした。その日、われわれは学課からはなれて、「ミグ」機で飛んでいました。わたしも同僚たちと同じように、ソビエト科学技術の大きな成功にたいする誇りの念でいっぱいでした。人間が宇宙を飛行する日も遠くないことは明らかでした。それでもやはり、そうなるまでには10年ぐらいかかるだろうと思っていました。ところが、実際は4年しかかからなかったのです。もちろん、わたしもそのころから、宇宙へ飛び立ちたいと思ってはいましたが、しかし、ほかならぬ自分がまっさきに衛星宇宙船で飛び立つようになるとは、考えてもみませんでした。
問い 学生のころ、あなたはどんな学科がいちばん好きでしたか?
答え わたしはグジャツクの中学の6年級を修了しました。それからリュべルツィの職業学枚に学び、
ついでサラトフの中等工業技術専門学校でまなびました。学生時代をつうじて、わたしは2つの学科ーー物理学と数学にいちばん引きつけられました。
問い あなたがはじめてツィオルコフスキーの名を耳にしたのは、いつですか?
答え ツィオルコフスキーの名をはじめて耳にしたのは、まだ中学校にいたころでした。中等工業技術専門学校と飛行学校で勉強していたころ、この名前は、われわれみんなにとって貴重なものでした。われわれはかれの労作を研究しました。ツィオルコフスキーはその著書『地球のそと』のなかで、わたしが飛行中に自分の目で見る機会をえたすべてを、きわめてはっきり予見していた、といえるでしょう。
コンスタンチン・エドアルドビッチは、宇宙を飛行した人間のまえにひらかれる世界を、だれよりもはっきりと想像していました。
問い あなたの好きな小説中の主人公、すきな作家はだれですか?
答え わたしの好きな作家はたいへん多いのです。ソビエトの作家もいるし、古典作家もいます。チエホフ、トルストイ、プーシキン、ポレボイなどを読むのがとても好きです。わたしのもっともかがやかしい文学上の主人公、子どものときから好きだった主人公は、ボリス・ポレボイの小説『真実の人間の物語』の主人公です。いままでそのマレショフ氏にお会いする機会がなかったことを、とても残念に思っています。
わたしはジュール・べルヌも読みました。もちろん、かれはおもしろく書いていますが、ご承知のように、実際にはかれの空想のようにはいかなかったのです。小説『アンドロメダ星雲』はすぐれています。それはわたしの気にいりました。しかし、宇宙を見てきた人間としてのわたしの立場からいうと、そこに書かれていることは、かならずしもすべてが事実どおりではありません。それでもやはり、この書物は有益です。
問い 自分の身体のぐあいから判断して、あなたはもっとながく宇宙にとどまっていることができたでしょうか?
答え わたしはもっとずっとながく衛星船のなかにいることができたでしょう。しかしわたしの飛行時間は、あらかじめ計画できまっていました。わたしは船内でうまく仕事ができたし、からだの調子も気分もとても良好でした。そしてわたしは、もし課題が必要とするならば、それだけ宇宙飛行をつづけることができたでしょう。
問い あなたがふたたび地球にふれたとき、最初の感情は、どうでしたか?
答え わがソビエトの国土をふんだときにわたしのあじわった感情を、言葉でお伝えすることはできません。なによりもまず、任務を首尾よくはたしたので、たいへんうれしく思いました。要するに、わたしの心をみたしたすべての感情は、ただひとつ、喜びだったのです。着陸したとき、「祖国は聞いている、祖国は知っている…」の歌をうたっていました。
問い あなたは宇宙飛行準備の申し入れをどんなふうに受けいれましたか?
答え 宇宙飛行の希望は、わたし自身の希望でした。わたしは宇宙飛行士になりたいと思っていました。わたしにその任務があたえられたときから、わたしは飛行の準備をはじめました。そして、このとおり、わたしの希望はかなえられたのです。
問い あなたはスポーツをやっていますか? あなたのいちばん好きなスポーツは何ですか?
答え わたしはスポーツが好きです。いちばん好きなのはバスケットボール。そのほかスキー、スケート、バドミントンがすきです。バドミントンはすぐれた遊戯で、しっかりした運動になります。
問い あなたの好きな仕事は?
答え わたしのいちばん好きな仕事は飛行することです。これまでは飛行機で飛びましたが、こんどの宇宙飛行はまったくわたしの気にいりました。飛行機によるわたしの最初の飛行と、きのうやったあの飛行とを比較することができるでしょうか? 比較することはむずかしいです。一方は翼のある機械での飛行、もう一方は翼のない機械での飛行です。まえの機械は時速150キロメートルで、あとの機械は時速2万8000キロメートルで、飛びました。まえのばあいは高度1500メートル、あとのばあいは300キロメートルで
す。
問い 地球にかえってきたとき、あなたはなにをいちばんうれしく思いましたか?
答え 地球にかえってきたとき、わたしはとてもうれしかったのです。わがソビエト国民があたたかく迎えてくださいました。ニキータ・セルゲービッチ・フルシチョフの電報には、感動のあまり涙が出ました。かれの配慮、親切、好意に感動しました。フルシチョフ首相およびブレジネフ最高会議幹部会議長と電話でお話ししたとき、最大の喜びをあじわいました。ニキータ・セルゲービッチがしめしてくださった配慮にたいし、息子として心からお礼を申しあげます。
問い 外国新聞の報道によると、アメリカも宇宙へ人間を打ち上げるつもりだということです。この点についてのあなたの意見は?
答え わが党および政府は、宇宙の平和的利用の問題、平和競争の問題を出しています。われわれはもちろん、アメリカの宇宙飛行士たちが飛ぶならば、かれらの成功をよろこぶでしょう。宇宙には、だれにとってもありあまるほどの余地があります。しかしこの舞台は、戦争目的に利用してはならず、平和目的に利用すべきであります。アメリカの宇宙飛行士たちがわれわれに追いつくこともあるでしょう。われわれはかれらの成功を歓迎するでしょうが、しかし、いつも先頭をきるように努力するつもりです。
問い こんどの飛行以前におけるあなたの生括で、もっとも重要な出来事といえばどんなことですか?
答え 1960年の夏に、わたしは入党しました。これこそ、こんどの宇宙飛行をやりとげる以前のわたしの生活における、もっとも大きな、もっとも輝かしい出来事でした。わたしはわが党に、わが政府に、第22回党大会に、また人類の先頭にたってすすみ、新しい社会を建設しつつある全国民に、わたしの飛行をささげます。
問い あなたの将来の計画は? あなたはもう一度飛ぶつもりですか?
答え わたしの将来の計画はつぎのとおりです。宇宙空間の開発にたずさわる新しい科学に、わたしは自分の生活、自分の活動、自分の思考と感情をささげたいと思います。わたしは金星にいって、その雲の下になにがあるかを見たいと思います。また、火星を見て、そこに運河があるかどうか、自分の目でたしかめたいと思います。月はもうそれほど遠くないわれわれのおとなりです。月にむかって、また月のうえを飛行するようになるのは、それほどさきのことではないと思います。
問い 最初のスプートニクの打ち上げ以来、自分を宇宙へ派遣してもらいたいと願う人々から、数千通の手紙がきていることを、あなたはご存知でしょう。あなたはこれらの手紙を読みましたか?
答え そのとおり、わたしはそれらの手紙を読みました。手紙はみな真心から書かれています。わたしはもちろん、それらの人が飛行をやれなかったことを、お気の毒に思います。しかし、労働組合発行の乗船証で地球周辺旅行に出発できるようになる時がくるものと信じています。
問い なにかあなたのご両親と同郷人にお伝えすることはありませんか?
答え わたしの両親および同郷の人々に、わたしのあいさつと心からの希望をお伝えください。労働と生活で大きな成功をおさめられるように、と……。
出典:「人類最初の宇宙飛行 ソ連人間宇宙船の成功」(1961年5月、ソ連大使館広報課)
制作:2013年2月17日
●4月12日、宇宙飛行の様子(総論)
●4月13日、ガガーリンのインタビュー(「地球は青かった」の出典となった「イズベスチヤ」紙の全文)
●4月14日、祝賀会の様子
●4月16日、ソ連邦科学アカデミーでの記者会見
●幼少期から家族まで27歳の履歴書
●宇宙船「ボストーク1号」の構造
●宇宙飛行士の訓練方法
●NASAの誕生・宇宙開発の歴史