刑務所内でおこなわれる凶悪犯罪

メキシカン・マフィア:刑務所内の麻薬売買を独占するメキシコ系

 1992年、メキシカン・マフィアを題材とした映画『アメリカン・ミー』(American Me)が公開された。作中で、グループの創設者が若いときに少年院でレイプされたり、リーダーが仲間に殺害されるといった虚構のシーンが含まれていることに腹を立てたメンバーによって、映画制作のコンサルタント3人が殺害された。このことからも彼らの暴力性を伺うことができる。

 メキシカン・マフィア(La eMe=ラエメ。アルファベットのMの意)は、1950年代、カリフォルニアのトレイシーにあるデュエル職業訓練施設で誕生した。

 もともと若い収容者用に作られた施設であったが、すぐにロサンゼルス東部のバリオ(ギャングの多い地区)のメキシコ系ギャングを多く収容するようになった。
 
 当時、刑務所内では優遇された多くのポジションが白人収容者によって押さえられていた。もちろん、影の部分も白人たちが握っていた。

 メキシコ系の囚人たちは、所内でのドラッグ売買に対し、もっと権限を持ちたいと考えた。そんななか、一部の囚人が、米国におけるイタリア系マフィアの原型となった「ブラックハンド」をモデルに新たな組織を結成した。これがメキシカン・マフィアの誕生である。

 彼らが使う黒い手形のシンボルは、元をただせば、暴力性に突出したこのイタリア系の暴力集団から来るものだと言われている。

 ラエメは、新たに入ってくるメキシコ系囚人たちを次々とリクルートし、すぐにカリフォルニア州の刑務所の多くを手中に収めた。1960年代になると組織も盤石となり、カリフォルニアのほとんどの刑務所における麻薬取引をコントロールするようになった。


メキシカン・マフィアの3つの掟


 かつて、ラエメに入りたいと思う者はメキシコ人でなければならず、正式なメンバーになるには、少なくとも一度殺人を成功させねばならなかった。組織内でのステータスは、年齢とどれだけ組織に尽くしたか、つまり、何度襲撃をおこなったかによって決められていた。

 しかし、次第にルールも変化し、今日では正式メンバー3人の推薦があれば入ることができる。わずかに、組織の掟を裏切ったメンバーを殺害するという、昔ながらのやり方で加入する者もいる。

 現在、ラエメには3つのルールがある。

 1 決して当局に情報を漏らさないこと
 2 同性愛に走らないこと
 3 臆病にならないこと

 同時に、キリスト教に走ることとグループ内で派閥を作ることも禁じられており、違反した者は死をもって罰せられる。

 元メンバーによると、メキシカンマフィアは、ほんの一握りのトップたちだけがいい思いをできる仕組みになっており、99%は1%の者たちに尽くしているだけだという。

 また、さまざまな犯罪行為をしたところで、結局は自分たちの収監が伸びるだけで、それに対して何の見返りもないと指摘する者もいる。
 
 一説によると、メキシカン・マフィアのメンバーは、寝ているときも靴を履いたまま眠ることが義務づけられ、朝、自分たちの房のドアが開いた瞬間から敵対グループに対して攻撃できる態勢を取っていると言われる。彼らは非常に規律に厳しく、運動場でも同じグループで集まって集団体操をする。


分裂したメキシコ・マフィア


 暴力性を身につけた南部の都市出身者たちは、比較的性格のおっとりした北部の農村出身者を差別するようになった。

 
1968年のある日、刑務所内でメキシカン・マフィアのメンバーが北部出身者からスニーカーを取り上げた。これがきっかけとなり、刑務所内のメキシコ系囚人の中で分裂が生じた。それがヌエストラ・ファミリア(「我が家族」の意)で、以後、南出身か北出身によって、ラエメとヌエストラ・ファミリアに分かれるようになった。

 一般に、カリフォルニア中部のベイカーズフィールド(Bakersfield)という町を境に、それより南の者はメキシカンマフィア、北の者はヌエストラファミリアとなる。それに所属するメキシコ系ストリートギャングも、大きくソレニョ(Surenos「南の者」)とノテニョ(Nortenos「北の者」)に分かれることになった。

 ベイカーズフィールドよりも南側のメキシコ系ストリートギャングたちは、外にいるときには各グループ同士で対立していても、いったん刑務所に入ると、ラエメの保護の下、全員が団結することになる。メキシカン・マフィアのメンバー数は比較的少ないが、ソレニョズは献身的に尽くし、そこから次々にメンバーが誕生している。