ニッポン「産業革命」事始め
山口県萩市の世界遺産をめぐる

山口県萩市の世界遺産
萩市の町並み
(世界遺産「明治日本の産業革命遺産」)

 
 2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』は、吉田松陰の妹というマイナーな人物が主人公です。
 その松陰は、1859年、江戸・伝馬町の刑場で処刑されました。現在、東京都中央区にある十思公園に「松陰先生終焉之地」という石碑が残されています。

江戸・伝馬町牢の処刑場跡地
江戸・伝馬町牢の処刑場跡地


 処刑後、松陰の門下生である飯田正伯(いいだしょうはく)と尾寺新之丞(おでらしんのじょう)は、獄吏に賄賂を渡して、遺体をもらえるよう、手配しました。
 しかし、遺体はすでに小塚原(こづかっぱら)の回向院に移されていました。

 2人が大きな甕と石を買って小塚原に出向くと、連絡を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤利助(伊藤博文)が先に来ていました。刀剣試験場脇の小屋から四斗桶が運び出され、中を見ると、松陰の首と全裸の遺体が入っています。髪は乱れ、大量の血が流れていましたが、顔色はまるで生きているかのようでした。

 飯田が髪を整え、桂と尾寺が血を洗い、ひしゃくで首と胴をつなごうとします。しかし、獄吏に止められたため、飯田は自分の下衣を、桂は襦袢を松陰に着せ、伊藤が帯を結びました。遺体を持参した大甕に入れ、すでに墓のあった橋本佐内の左隣に埋葬、その上に石を置いて仮の墓が完成しました(『至誠殉国 吉田松陰之最期』による)。

 吉田松陰は、1854年、再来航したペリーの軍艦に乗り込もうとして失敗、萩で蟄居を命ぜられます。
 1857年、松陰は松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らを教育しました。伊藤博文は、松陰の処刑後、尊王攘夷運動に加わっていきます。

松下村塾
松下村塾(世界遺産)

桂小五郎の落書き
右から書かれた木戸孝允の落書き
松陰の「士規七則」にも使われた「死而後已(ししてのちやむ=死ぬ気で頑張る)」


 時は幕末、長州藩では「攘夷」が盛んに言われていました。
 幕府は、1853年、ペリー来航を受け「洋式砲術令」を公布、長州藩はお抱えの鋳物一族「郡司家」に大砲製造を命じます。

郡司鋳造所遺構広場
郡司鋳造所遺構広場(右手が在来技術の「こしき炉」)


 1855年には、西洋学問所を開設、翌年、金属溶解炉である「反射炉」を試験的に導入。

萩の反射炉
萩の反射炉(世界遺産)


 幕府は1635年に発布していた「大船建造禁止令」も撤廃し、毛利氏に大船の建造を要請しました。これを受け、1856年、藩は木戸孝允の尽力で「恵美須(えびす)ヶ鼻」に造船所を設立します。

恵美須ヶ鼻造船所跡
突堤にビット(係船柱)が残る恵美須ヶ鼻造船所跡(世界遺産)


 当時、長州藩に近代造船の技術はなかったので、ロシアの沈没船「ディアナ号」を元に西洋帆船「ヘダ号」を新造した伊豆の戸田村から技術者を呼びました。そして、すぐに藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m)の建造に成功。大砲4門を搭載した軍艦の誕生です。この船には高杉晋作が乗艦し、江戸まで行っています。
 なお、軍艦に使った鉄は、江戸時代中期から製鉄場だった「大板山たたら製鉄場」から運んできました。

洋式軍艦「丙辰丸」
洋式軍艦「丙辰丸」(説明板より)

大板山たたら製鉄場
大板山たたら製鉄場跡(世界遺産)


 1859年、幕府は神奈川(横浜)、函館、長崎を開港し、貿易を開始します。そして、同年、松陰は安政の大獄で処刑されました。
 辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」です。

 1860年、造船所では2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水します。1隻目の「丙辰丸」はロシア式(スクーナー君沢型)、「庚申丸」はオランダ式が採用されました。

 1862年、長州藩はイギリスから鉄製の蒸気船を購入し、干支に因んで「壬戌丸」(じんじゅつまる)と名付けました。購入担当者は井上馨ら3名。山田亦介が船長となり、井上馨、遠藤謹助らが乗組員となりました。しかし、操船できず、お雇い外国人に全面的に依存することになりました。
 とはいえ、攘夷を唱えるのに外国人を雇用するのは問題で、結局、江戸幕府の海軍奉行・勝海舟の塾で機関学を教えていた高木三郎を招きいれます。

 しかし、結果はさんざんで、2日かかってようやく機関を焚いたかと思えば、突然、後ろに動き出す始末でした。その後、前に動き出しますが、錨が上がらず、やむなく錨を水中にぶら下げたまま、品川まで回航するありさまでした。
 こうしたことがあって、長州藩は外国で若手に航海術を学ばせようと考えはじめました(『伊藤博文伝』による)。

 当時、まだ洋行は禁止されていました。見つかれば死罪です。
 しかし、長州藩では、山尾庸三が幕府の船でロシアへ行ったり、高杉晋作が同じく幕府の船で上海へ行くなど、外国への渡航経験を積んだ若者が数人いました。
 その上で、井上馨(当時29)、遠藤謹助(28)、山尾庸三(27)、伊藤博文(23)、井上勝(21)の5人の長州藩士が密航を企てたのです。平均年齢は25歳。

長州五傑・長州ファイブ
上段左から時計回りに遠藤謹助、井上勝、伊藤博文、山尾庸三、井上馨(ウィキペディアより)


 しかし密航するにしても、費用がどれくらいかかるかもわかりません。
 そこで、まず山尾が英国領事ガウワーと面会し、洋行の許可を得ると同時に、費用を確認します。
 1人1年1000両(現在の値段で約5000万円)という返事です。しかし、長州藩が用意した金は1人200両で、3人分600両だけでした。

 5人で5000両をどう工面するのか。
 井上馨は、江戸に出ていた伊藤博文を頼りにします。
 いったい、どういうことか。後に、伊藤博文自身がインタビューに答えています。

《「いよいよ攘夷をやることになると、武器を買わなければならぬというので、その時分、江戸の屋敷に金がなんでも古金で6、7万両も残っている。この金をもって横浜へ行って、横浜にあるだけの武器を買えということを(藩が)言ってきた。
 横浜を段々さぐったところが、武器はない。西洋馬鞍の見本に小銃の見本が少々あるくらいで、短銃(ピストル)くらいのものでも、とても1万両(約5億円)の金を使うほどもない。仕方がないから、その金を持って国へ帰ろうということで、江戸にいるうちに、井上(馨)らが洋行するといって京都から出てきた。
『ぜひ貴様と一緒に行こう』と言う。
『金はいくら持っているか』と言ったら、『金は持ってこぬ。たった300両(200両の間違い?)ずつもらってきた。金は君がどうかしてくれると思って来たのだ。別に相談しなくては、これではとても行かれやしない』というような話で、それからこっちもどうしようかと思って村田蔵六(大村益次郎)に相談したところが、村田が『それは宜(よろ)しかろう』と言うので、村田と万事相談の上で洋行をすることにした」》(末松謙澄『維新風雲談 伊藤・井上二元老直話』)


 井上馨と伊藤博文は、武器購入費を担保に横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)から5000両を調達しました。
 その金をガウワーに渡し、イギリスへの密航が実現します。この2人はもともと品川に建設中のイギリス公使館焼き打ち事件で親交を深めたんですが、目指す国もイギリスでした。

イギリス公使館襲撃
イギリス公使館襲撃(東禅寺事件)


 出発を前に、一行は藩の上層部に「生きた器械を買ったと思ってお許しを」という手紙を書いています。
 そして、伊藤博文は「国家のために行く」という決心をこんな歌で詠みました。
「大丈夫(ますらを)の 恥を忍びて行く旅は 皇御国(すめらみくに)の 為(ため)とこそ知れ」

 1863年、一行は横浜から上海に移動、ここで数百隻の外国の軍艦や商船を目の当たりにします。
 上海からは、井上と伊藤が「ペガサス号」で、他の3名は「ホワイト・アッダー号」でロンドンを目指すことになりました。
 乗船前に洋行の目的を聞かれ、「ネイビー」(海軍研究)と答えるつもりが「ナビゲーション」(航海術)と言ってしまったことで、4カ月もの間、全員が水夫と同格の扱いを受け、非常に苦しみます。

《上海を発してインド洋に出るまでは幾多の島嶼の間を経過するので、風の方位はときどき変更するのを常とした。その風位の変更するごとに帆の方向を変更する必要があったので、(井上)公らはその都度、帆綱をひく用務を命ぜられ、そのほか甲板の掃除や喞筒(ポンプ)の使用等に駆使せられ、まったく水夫同様の取扱に図らずも非常の困苦を極めた。食物は水夫用のビスケットと塩漬牛肉とで、茶器は把柄(はへい)あるブリキ製の缶を用い、これに混入する砂糖は赤色最下等品であった》(『世外井上公伝』)

 井上馨と伊藤博文が乗った「ペガサス号」は300トンと小型で、水夫用のトイレはついていません。そのため、用を足すには、船から張り出した横木につかまるしかありませんでした。平常時でも危険なのに、伊藤は重度の下痢に悩んでいたため、回数が多く、なおさら危険でした。そのため、嵐のときは、井上が伊藤の体を縄で縛って保護しました。

 1863年、ようやくたどり着いたロンドンは、信じられないほどの近代都市でした。
 最初に驚いたのは鉄道で、巨大な機関車が40年近く前から走っていることに言葉も出ませんでした。さらに、この年からロンドン地下鉄も営業を開始しており、日本との落差に愕然とします。

スチーブンソンが設計した蒸気機関車
スチーブンソンが設計した蒸気機関車「ロケット号」(1830年)
(マンチェスター・リバプール鉄道)


 一行はロンドン大学で物理学、化学、土木工学、地質鉱物学などの研究を重ねます。そして、紙幣の印刷工場、鉱山、工場など、ありとあらゆる近代化の現場を目撃するのでした。

 半年後、下関での砲撃を受け、英仏蘭米4カ国が長州藩へ報復攻撃するというニュース(下関戦争)が新聞に出ます。これを受け、伊藤と井上は急遽帰国し、和解工作を行います。
 そして、残りの3人も5年ほどで全員帰国します。

下関戦争
下関戦争(大砲は郡司鋳造所で製造されたもの)


 帰国後、5人は長州藩を超え、日本の近代化に貢献しました。

 伊藤博文は、初代内閣総理大臣になる前、初代工部卿(工部省の長)として、殖産興業を推進します。
 井上馨は、造幣局を設立し、大蔵省で活躍。さらに鹿鳴館を作り、不平等条約を改正します。
 遠藤謹助は、造幣局で通貨の製造技術を確立、「造幤の父」に。
 山尾庸三は、東大工学部の前身となる工学寮を創立し、造船などの「工学の父」に。障害者教育にも熱心でした。
 井上勝は、1872年、新橋—横浜間に鉄道を開通させ「鉄道の父」に。

 その活躍ぶりから、この5人を「長州五傑」「長州ファイブ」などと呼んでいます。

工部省
工部省


 近代日本を作った伊藤博文と井上馨の親交は、終生、続きました。
 1909年10月、伊藤が満州で暗殺されると、国葬で井上は「50年以上も心は一緒だった」と弔辞を読みました。

《予、君と交わる50余年、異体同心、生死患難(かんなん)を共にし、国歩艱難(かんなん)の秋(とき)に始まり、太平富貴の日に至り、始終渝(かわ)ることなく、金石も啻(ただ)ならず》(『嗚呼伊藤公爵』による)


制作:2015年10月12日


<おまけ1>
 今回の登場人物は、ほぼ全員が山口県萩市で活躍しました。
 ほかに、1841年、萩で生まれた藤田伝三郎は、藤田組を作り、東洋紡、南海電鉄、関西電力、三和銀行などを創業。さらに児島湾を干拓し、椿山荘(もとは山縣有朋の屋敷)、箱根小涌園などを経営する藤田観光を作りました。
 藤田伝三郎の甥の田村市郎は日本水産を作り、同じく甥の久原房之助は日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業などの基盤を作ります。
 久原房之助の義兄・鮎川義介は、久原房之助から企業群を引き継ぎ、日産コンツェルンの創始者となりました。
 鮎川義介は満州に進出し、そこで岸信介と産業発展に尽くします。その岸の孫が、安倍首相となるのです。
 近代日本は、まさに萩を中心とした山口県から生まれたのです。

<おまけ2>
 長州ファイブの井上馨と伊藤博文が帰国した後の1865年、今度は薩摩藩から14名が密航してロンドン大学に入学しました(薩摩スチューデント)。そのなかには、初代文部大臣となった森有礼や、東京国立博物館の初代館長となった町田久成らがいました。
 ほかに密航した留学生としては、
 1864年、アメリカに渡った新島襄(同志社大学を設立)
 1865年、イギリスに渡った石丸安世(佐賀藩士、後に工部省の初代電信頭として東京—長崎の電信開通)、野村文夫(広島藩士、ジャーナリスト)、南貞助(長州藩士)らがいます。
 南貞助は、1873年、イギリス人女性ライザ・ ピットマンと結婚、これが日本政府公認の国際結婚の第1号です。
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