「建国記念の日」の誕生
神武天皇の即位を祝う「建国祭」
第1回建国祭(靖国神社、1926年)
1873年(明治6年)1月4日、江戸時代からの祝祭日だった「五節句」と「八朔」が廃止になりました。五節句は人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)で、八朔は8月1日です。
旧暦8月1日は早稲の穂が実ることから「田の実の節句」と呼ばれ、農民にとって豊作を祈願する大事な日です。
一方、武士からは「頼みの節句」に通じることから、こちらも主従関係を強める重要な日とされてきました。徳川家康が江戸城に入城した記念日でもあり、幕府への忠誠を示す特別な日でもあります。
こうした祝祭日がなぜ消えたかというと、この年から太陰暦に替わって太陽暦が採用されたからです。農作業と密接に関わっていた暦が消滅し、1日が24時間となりました。
そして新たに創設された祝祭日は「神武天皇の即位日」(紀元節、旧暦1月1日)と「明治天皇の誕生日」(天長節、旧暦9月22日)でした。のちに太陽暦に変換され、それぞれ2月11日、11月3日になっています。
この後、休みは「孝明天皇祭」(1月30日)、「新嘗祭」(にいなめさい)など、皇室祭祀の日が設定されていきます。農業や幕府と関わりの深かった暦は、明治になって皇室と関連づけられていくのです。
江戸時代の端午(5月5日)
暦の改変という前代未聞の出来事に、当初、庶民は強く反発しました。小川為治が文明開化の啓蒙書として著した『開化問答』では、次のように批判されています。
《改暦以来は「五節句」「盆」などという大切なる物日(=祝祭日)を廃し、「天長節」「紀元節」などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。
4月8日は「お釈迦の誕生日」、盆の16日は「地獄の釜の蓋のあく日」というは、犬打つ童(わらわ=子供)も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というとも知りません》(『開化問答』二篇上)
この文章はさらに続き、祝日に「日の丸」を掲げさせる政府批判となっています。
さて、最初の休日となった「天長節」「紀元節」ですが、天皇誕生日はまだわかります。では、紀元節とはなんなのか。これは初代天皇である神武天皇の即位日で、『日本書紀』の記述から1月1日と定められたもの。まさに建国記念日です。
当初は不評だった紀元節ですが、1926年(大正15年)には、在郷軍人会や青年団が中心となって「建国祭」が各地で開かれるようになりました。以下、第1回建国祭(東京)の写真を公開しておきます。
第1回建国祭(皇居前に集まる軍人)
そのときの様子は当時の雑誌記事(『寫眞通信』1926年4月号)によれば……。
《東京では第1会場を芝公園、第2会場を九段靖国神社、第3会場を上野の森として、心からなる歓喜を満面に漂わして、それぞれ集った大群衆は、司会者の指揮の下に建国祭を行い、各々宮城前の広場に集会する頃は、十数万の民衆の赤誠こめた「日本帝国万歳」の叫びは天地をゆるがして、素晴らしい大和魂の姿となって現れたのである》
建国祭の宣言朗読(1926年)
一方、真珠湾攻撃(1941年12月8日)の2カ月後、1942年の建国祭はかなり大規模なものになりました。
前日夜に日比谷で前夜祭がおこなわれ、翌朝は暗いうちから靖国神社や明治神宮に参拝客が集まります。当日午前11時、まず海上式典が芝浦沖で始まりました。ボートなど20数隻が集合し、隅田川の吾妻橋まで往復するのです。
海上式典(芝、1941年)
陸上では午後1時から7つの会場(靖国神社、芝公園、明治神宮外苑、上野公園、隅田公園、錦糸公園、深川公園)と、皇居前で式典が開かれました。
陸上式典(皇居前、1941年)
「皇威宣揚」が祈願され、そこからブラスバンドや軍楽隊の演奏とともに皇居前まで行進し、万歳を奉唱後、順次解散していきます。沿道では数多くの人が出迎え、軍歌や万歳の声が響き渡っていました。
皇居への愛国行進
なお、この他のイベントとしては、
●児童作品展覧会(上野公園・東京府美術館)
●児童学芸会(日本青年館)
●実業青年の集い(神田一ツ橋の共立講堂)
浪曲大会、名人会、演芸大会など
●建国祭の集い(日比谷公会堂)
さまざまな健全娯楽
●「梅の節句」華道大会/茶道会(三越、高島屋、松屋などの都内デパート)
●武装行軍競走
学生が1組10名で、外苑(日本青年館前)〜九段(靖国神社)〜上野(東照宮)〜本所(小梅国民学校)〜深川(深川八幡宮)〜芝(芝公園水泳場)の6カ所、34kmを武装して行軍……などがありました。
武装行軍競走
武装行軍競走ルート図
紀元節が開催される2月11日は、大日本帝国憲法の発布(1889年)や金鵄勲章の制定(1890年)がおこなわれ、国家主義や軍国主義の宣伝に大いに役立つのです。
■根拠のない祭日
実は、この2月11日という日時に歴史的な根拠はありません。
神武天皇が橿原神宮で即位した日は『日本書紀』の記述から正月元日となっています。原文は「辛酉(かのととり)年の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)」というもので、辛酉元旦は今の太陽暦に直すと紀元前660年の2月11日になるわけです。
『日本書紀』はなぜ、神武天皇即位の年を紀元前660年にしたのか。
古くからの定説が、歴史学者・那珂通世(なかみちよ)が唱えた「辛酉(しんゆう)革命説」=「讖緯説(しんいせつ)」です。
讖緯説によると、60年に1度の辛酉の年には異変が起こるとされ、とくに21巡目(1260年ごと)は、天地がひっくりかえるような大革命が起こるとされています。
『古事記』が編纂されたのは712年で、編者の太安万侶は辛酉の年に当たる推古天皇9年(601年)を基点に、この年から1260年前に大革命が起きたことにした、というのです。
この長い年月に天皇を順番に当てはめていった結果、歴代天皇は異常に長生きとなりました。神武天皇137歳、崇神天皇168歳、垂仁天皇153歳、景行天皇137歳といった具合です。
しかし、「辛革命説」を採用するなら、601年にも革命的な出来事が起きてなければなりませんが、実際には大した事件もなく、この説には強い疑問が残ります。
こうした根拠のなさが、建国記念日の設定にも大きな影響を与えることになります。
神武天皇が即位した橿原神宮
戦後、紀元節はGHQによって廃止されますが、1951年、吉田首相が「独立後は紀元節を復活したい」と意欲をみせ、1957年、2月11日を「建国記念の日」とする議員立法が提出されました。しかし、議論は紛糾、衆議院で可決されたものの、参議院で廃案となりました。
その後、10年ほど事態は進展しませんでしたが、佐藤内閣時の1966年6月、ようやく敬老の日、体育の日とともに祝日となりました(改正祝日法)。
このときも日付をいつにするのか論議となり、6カ月以内に政令で定めることになりました。同年12月、建国記念日審議会の答申を受け、2月11日と定められましたが、結果として、建国記念日のみ、法律に日付が明記されなかったのです。
反対も多かった建国記念の日ですが、2月11日には、長らく神社本庁などによって祝典が続けられていました。初めて政府(総理府)が後援したのは1978年で、1983年、中曽根首相が歴代総理として初めて祝電を打つことができたのです。
●文化の日の秘密
●勤労感謝の日の秘密
●神武天皇の即位/国体の始まり
制作:2021年2月8日
<おまけ>
神武天皇の即位は、『古事記』『日本書紀』でどのように記述されているのか。
『日本書紀』では《天皇(すめらみこと)、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す》で、非常にあっさり。『古事記』では《荒ぶる神どもを平定し、伏(ふく)せぬ者どもを撃退して、畝傍(うねび)の白檮原(かしはら)宮にあって天下を治めた》といった感じです。原文の《坐畝火之白檮原宮、治天下也》はわずか漢字12字です。
意外にも、国の始まりの記述はこれだけです。その理由は、即位に関する伝承がこの程度しか伝わっていなかったからでしょう。つまり、かつて神武天皇の即位は、あまり重要だと思われていなかったということです。