ニッポン「検疫」の誕生
戦争に翻弄された「似島」の歴史
銃の日光消毒
明治22年(1889年)8月1日、虎列剌(コレラ)患者が発生したことから、新橋駅(鉄道)と品川沖の第2台場(船舶)に検疫所が作られました。幸いなことに、被害の拡大が抑えられたことで、第2台場の検疫所は8月18日に、新橋駅は8月22日に閉鎖されることになりました。
日本では、江戸時代からコレラの流行がありましたが、明治時代になって人の移動が盛んになると、大流行が頻繁に起きるようになります。人の移動で最たるものは「戦争」ですが、日本でも戦争とともにコレラが蔓延し始めます。
その最初とも言えるのが、明治10年(1877年)の西南戦争です。西南戦争を機に日本赤十字ができたのですが、問題はその後です。この年の初夏、長崎で発生したコレラは、兵士の帰還とともに大阪で流行を見せ、数カ月後には東京にも広がり始めました。当時、海軍病院では伝染病患者の収容を行っていましたが、コレラは対処法がわからないことから、海軍病院への収容は極めて危険だと判断されました。
そのまま様子見をしていたところ、神奈川県の浦賀仮病院で患者が発生。やむなく、横須賀の海軍病院の敷地に「避病院」が作られました。その後、品川沖に停泊していた軍艦「摂津」内でも患者が発生。急いで品川の寺に避病院が作られました。
当時はまだ、コレラ患者が出たら、隔離するしか手立てはありませんでした。
しかし、コレラ患者は毎年のように発生します。早急に消毒・治療技術を開発する必要がありました。まもなく、コレラは汚水から感染することが判明します。
患者の衣類はすべて焼き尽くせ
(国会図書館『虎列剌病の心得』より)
明治12年、政府は「虎列剌病予防仮規則」「検疫停船規則」を制定、東京に中央衛生会を設立し、開港場に地方検疫局を置くことにしました。この結果、神奈川県は商船のため、横浜に検疫局を、横須賀(長浦)に船舶検疫所を設置します。
海軍としても独自の検疫所が必要でしたが、予算難もあり、コレラ発生時には神奈川県に消毒を依頼することが決まりました。明治22年に佐世保鎮守府ができて以降は、佐世保近辺で患者が発生した場合、長崎県に消毒を依頼することになります。
ただし、作業は有料で、明治34年に明文化された規定では、軍艦の消毒に際し、排水量100トン未満の船で10円、1000トン以下の船で20円、それ以上の船で30円を県に支払う必要がありました(『海軍衛生制度史』による)。
海軍としては、どうしても独自の検疫所が欲しいのです。
コレラの消毒液「石炭酸」を服用して死亡する事故も
(『漫画明治大正史』より前川千帆画)
一方、陸軍には、広島県に「似島消毒所」がありました。
これは、明治27年(1894年)に勃発した日清戦争が終結したことで、凱旋軍の検疫が問題となったため、明治28年6月に設立されたのです。
当時の陸軍次官・児玉源太郎が実務を任せたのが、西南戦争で医師としてコレラと戦った後藤新平です。
似島への上陸桟橋
後藤は、似島(広島)、彦島(山口)、桜島(大阪)の3カ所にわずか3カ月で検疫部や消毒部を設置。そして2カ月で約23万人の帰国兵と船舶687隻の検疫と消毒を行いました。
銃はクレゾール石鹸で消毒し、服や靴は加熱室へ入れ、フォルマリンを60度に熱して15分消毒。兵士は健康診断の後、消毒風呂に入る必要がありました(『似島 広島とヒロシマを考える』による)。
衣類消毒機
消毒風呂
ちなみに、このとき兵士の移動を担当した最高責任者が、大本営運輸通信長官の寺内正毅です。寺内は、検疫による兵士の足止めに怒り狂い、猛抗議をしてきます。寺内と後藤はお互い罵詈雑言を重ねますが、この2人は後に、首相と内相兼外相としてタッグを組むことになります。
広島の南4kmにある似島は、富士山に似た「安芸の小富士」がある風光明媚な島です。いったいなぜこの島に検疫所ができたのか。
似島
日本が清国に宣戦布告した直後の明治27年9月、広島の第五師団司令部に大本営が移されました。
広島の宇品港は大陸への輸送拠点となり、ここから17万人の兵士が大陸に出発しました。従軍記者だった正岡子規も、宇品から遼東半島に向かいます。
子規は出発するとき「行かば我 筆の花散る 処まで」という句を残していますが、大陸についた2日後、日清戦争は終結してしまいます。子規とともに、当然、多くの帰還兵もまた宇品にやってきたのです。
宇品港
日清戦争の検疫が終わると、陸軍にとって似島消毒所は不要な存在となりました。そのため、明治30年、陸軍は施設を海軍に譲渡します。
ところが、明治37年(1904年)に日露戦争が始まると、再び陸軍にも消毒施設が必要となり、再度、陸軍の所有に。もし海軍で消毒が必要になった場合は、陸軍に依頼する形を取ることになります。
蒸気消毒所
陸軍は、検疫所のそばに俘虜(ふりょ)収容所を作り、日露戦争のロシア軍捕虜を最大で2391名収容しています。
結果、似島における検疫は明治37年に新設された第2検疫所が中心となりました。日露戦争の検疫が終わると、第1検疫所が海軍の、第2検疫所が陸軍の所有となっています。
なお、第1検疫所周辺は、皆実町の陸軍弾薬庫で起きた爆発事故を受け、弾薬庫として使われました。また、海軍は第1検疫所を避病院(隔離施設)としましたが、老朽化のため、昭和3年(1928年)、施設そのものを三ツ子島(みつごじま)に移転しています。
第一次大戦が起きた後の1917年(大正6年)2月、陸軍の管理下にあった検疫所に「似島俘虜収容所」が設立され、大阪から捕虜が移送されてきます。このとき、中国の青島にいた菓子職人ユーハイムが連行され、日本で最初にバウムクーヘンを焼いています。
酒も買えた収容所の売店「酒保」
(国会図書館『大正三四年戦役俘虜写真帖』)
収容所の様子は資料が少ないんですが、警備の様子はどんな感じだったのか。小説ですが、『似島1918』から引用しておきます。
《敷地の中は俘虜の居住区と軍用区に二分されており、俘虜居住区の門を入ると左手に事務室、病舎右手に面会所や酒保の建物がある。その奥には7棟の廠舎が並んでいる。1廠舎は大小4室に分割され、大きな部屋には下士官や兵を60人収容し、小さな部屋には将校など4人を収容した。大阪では畳敷きで靴を脱がせていたが俘虜の風習に合わないため、畳を全て撤去の上、二段ベッドが入れられた。
この俘虜居住区画を将校1名、下士官1名、上等兵3名、ラッパ卒1名、兵卒27名の合計33名で警備する。また、広島憲兵隊宇品分派所より憲兵1名が、広島県警察部からは警官12名が派遣され、収容所構外の廠舎に詰め切り、周囲の警備や付近住民の取締などの任務についた》
収容所では比較的、自由な生活が送れたとされますが、1918年には、筏による脱走事件も起きています。収容所は、1920年に廃止されました。
似島のバウムクーヘンが展示された
商品陳列所(原爆ドーム)
広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日です。
市内の病院が壊滅したため、検疫所は臨時の野戦病院となりました。宇品にあった陸軍船舶司令部の暁部隊が、20日間で負傷者約1万人を運び込みました。
5000人分の医療品はすぐに底を尽き、麻酔なしで手足を切断したり、海水を補液剤(リンゲル液)として使いました。その多くが亡くなって島内に埋葬されましたが、焼却が間に合わず、島の防空壕にそのまま埋めるケースもありました。
当時、陸軍軍医として似島で検疫業務に就いていたのが、森鴎外の孫の森富(とむ)医師です。森医師は似島から被爆地に駆けつけ、1週間にわたって野宿しながら治療にあたりました。当時の様子を、妻に「溶けたチョコレートのような姿の人から名前を聞くのがやっとだった」と語っています(読売新聞、2007年10月2日)。
宇品駅のプラットフォーム敷石
広島の原爆投下から1年後、似島に、親を失った子供たちを集めた「似島学園」ができました。原爆で20万人が亡くなった広島には、孤児たちがあふれていたからです。
場所は第1検疫所があった場所で、弾薬庫などを潰して設置されました。開園時に集められた子供は34人。食糧難だったため、畑を開墾し、海でカキの養殖に取り組みました。
第2検疫所があった場所には、現在、老人ホームと似島臨海少年自然の家が開設されています。
海に浮かんだカキの養殖いかだ
似島からは、人骨がたびたび見つかっています。1971年、旧陸軍馬匹(ばひつ)検疫所跡地から、推定617体の遺骨が見つかりました。翌年、建立された慰霊碑は幅2m、高さ1.2m。中央に「慰霊」の文字が刻まれています。1971年から2004年の調査でも、周辺で約700体の遺骨などが発見されました。2018年にも、沖縄の大学院生が骨片100個ほどを見つけています。
似島で亡くなくなった人が何人いるのか、いまも正確な人数はわかっていないのです。
慰霊碑
制作:2019年8月8日
<おまけ>
日本の近代水道は、1887年(明治20年)、横浜にできたのが最初です。2番めが函館で、1889年のことです。
函館は水に恵まれなかったため、早くから水道が要望されていました。1879年、開拓使がアメリカ人技術者に水道プロジェクトを依頼しますが、大火により中断。
明治12年、「虎列剌病予防仮規則」の施行により、函館にも検疫所が設置されることになりました。このとき、内務省衛生局の技師だった後藤新平がやってきて、「コレラ撲滅には検疫所だけでなく、上水道が必須」と主張したのです。こうして、函館に上水道が設置されました。
西南戦争で後藤新平を見出したのは、後に森鴎外の上官となる陸軍軍医・石黒忠悳です。石黒の後押しを受け、初代衛生局長・長与専斎が後藤を衛生局に採用します。この長与こそ、「生を衛(まも)る」という意味から「衛生」という言葉を作った人物です。
函館五稜郭の上水(水道歴史館)
<おまけ2>
集団感染の原因や予防法を研究する学問を「疫学」といいますが、この始まりも、やはりコレラにありました。1831年、ロンドンにコレラが侵入。当時、空気感染すると考えられていましたが、医師のジョン・スノウは、患者が出た家でも感染しない人がいたり、飛び飛びに患者が出たりすることから空気感染説に疑問を持ち、原因が汚染水にあることを突き止めました。
このときのデータ処理の方法が「疫学」だけでなく、「統計学」にもつながるのです。