RCAと家電物語
驚異の画像ワールドへようこそ!
テレビとビデオの誕生
テレビ発祥の碑
静岡県浜松市に「イ」という文字が書かれた記念碑があります。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)があった場所で、この地で高柳健次郎が世界で初めてブラウン管に画像を映し出すことに成功したのです。1926年(大正15年)12月25日、大正時代最後の日でした。
高柳健次郎は、戦後、日本ビクターに入り、テレビ開発に専念します。テレビだけでなく、ビデオ開発にも大きな貢献をしています。
こちらNHK浜松放送局の碑
しかしながら、テレビもビデオも現実はほとんどアメリカで技術開発されたものです。その蓄積の上で、日本の家電産業が花開いたのです。そんなわけで今回は、アメリカRCA社と日本メーカーの家電開発史。
マンハッタンにそびえるRCA本社
RCAはRadio Corporation of Americaの略で、1919年、アメリカ海軍の肝いりで設立されました。無線事業が主ですが、放送事業にも進出、1926年には後に米3大ネットワークの1つとなるNBCも創設しています。
これがハリウッドにあったNBC
1920年には210万ドルだった売上高は、1952年には7億ドルと300倍になっていて、世界最大の家電メーカーとなりました。
さて、このRCAが与えた家電産業へのインパクトとは?
●ラジオ
日本ビクターは、1927年、アメリカのビクタートーキングマシン社の日本法人として設立されました。ところが1929年に米本社がRCA社に吸収され、親会社はRCAビクターとなりました。
RCAビクターの工場
日本ビクターは蓄音機・レコードの製造から始まりましたが、まもなくラジオ生産で大きく潤います。
1920年、アメリカで世界初の民間ラジオ放送が始まるんですが、RCAはラジオ受信機メーカーとして有名でした。1925年には日本でも
ラジオ放送
が始まりますが、当時、ラジオを生産できる日本メーカーは少なかったからです。
なお、国産ラジオ受信機(鉱石ラジオ)の第1号は早川電機工業、つまり今のシャープで、1925年のことです。
一方、松下電器がラジオの製造を始めたのは1931年。その5年ほど後には、国内のラジオ生産でトップとなります。それはNHKが公募したラジオセットで1等を取ったことが大きいのですな。
それともう1つ。ラジオ生産に必須の多極真空管の特許を個人発明家から松下が買い上げ、全メーカーに無料で公開したことがあげられます。当時大きな話題となり、松下の名を高めました。
これがNHKのコンペで1等を取った松下のラジオ。皇室にも納入されました
●白黒テレビ
戦争の影響もあり、1938年、RCAは日本から撤退し、ビクターは日産コンツェルンの傘下に入ります。日産コンツェルンの代表・鮎川義介は、
1940年の東京オリンピック
までにテレビを開発すると意気込んでおり、RCAとビクターの技術交流は続きました。しかし、戦争の激化で、テレビ開発は停滞してしまいました。
日本ビクターの工場
前述したとおり、高柳は戦後ビクターに入るんですが、日本初のテレビ受像器を開発したのはビクターではなく、ラジオ同様、早川電機工業でした。基本特許を持つRCAと技術提携し、1953年1月、発売にこぎつけます。NHK東京テレビ局が開局して
本放送
が始まるのは、翌月のことです。
赤坂にあったNHKの電波塔
ちなみに、国産テレビ1台の値段は17万5000円。当時、公務員の初任給は5400円なので、庶民が簡単に買えるはずもなく、街頭テレビが盛んになっ たわけです。もちろんこれは白黒テレビ。
1953年に発表された、真空管を使わず、トランジスターを37個も使ったテレビ
●カラーテレビ
カラーテレビはどうか?
実はRCAは、すでに1950年の段階で3色カラーテレビの実験管を開発しています。国産初のカラーテレビ受像機を発表したのは東芝で、1957年のことでした。ただし、日本でカラーの本放送が始まったのは1960年。この標準方式もまた、RCAの開発したNTSC方式です。
1954年 改良を重ねた3色カラーのブラウン管
●トランジスタ
1955年、ソニーが日本初のトランジスタラジオを発売し、1959年には東芝が日本初のトランジスタテレビを発表しています。
このトランジスタもRCAが大きく関わっています。トランジスタを発明したのはは1948年、米ベル研で、特許は関連会社のウエスタン・エレクトリックが持っています。しかし、RCAも関連技術を多数持っていて、両者の争いが激化していました。
日本では、ソニーがウエスタン・エレクトリックから技術を導入し、日立、東芝、三菱電機がRCAから技術を導入しています。
●ビデオ
ではビデオはどうか?
日本初のテープレコーダー
を発売したのはソニーで、1950年のことです。当然、普通の技術者だったら、次は映像の記録だと発想します。
RCAがVTR実験に成功するのは1953年12月。ところが試作品は、直径1メートルの巨大なリールに4分間しか録画できませんでした。
実際にVTRを商品化するのは、1956年、米アンペックス社です。
この段階では、日本のメーカーもかなり育ってきていました。で、東芝の沢崎憲一がヘリカル方式と呼ばれるヘッドの斜め回転方式を発明し、記録時間を大幅に増やすことに成功。これは後に全メーカーに搭載された基本特許です。
一方、テープレコーダーを開発したソニーの木原信敏は、ノイズを飛躍的に減少させる回転ヘッド方式を開発。この両発明により、日本が事実上、VTRの開発覇権を握りました。
1971年10月、ソニー、日本ビクター、松下電器は3社統一規格のVTR「Uマチック」を発表しますが、これはまったく受け入れられず、各社大赤字となりました。
その後、ビクターの「VHS方式」、ソニーの「ベータマックス方式」、東芝・三洋電機の「Vコード方式」と規格が乱立し、大戦争が始まったわけです。VHSを開発したのが日本ビクターの高野鎭雄で、これは『プロジェクトX』にも登場しています。
●液晶
世界最大のテレビメーカーRCAの偉大さはそれだけではありませんでした。実は 1968年、RCAは液晶のデジタル表示にも成功してるんですよ。
液晶の歴史はけっこう古く、オーストリアの植物学者ライニツァーが発見したのが1888年。そしてそれから80年ほど経って、RCAが液晶の電気的な特性を発見し、液晶表示装置を製作しています。
液晶には安価なSTN液晶があるんですが、これはコントラストが低く、テレビには不向き。その問題を解決したのが、TFT液晶(アクティブ・マトリクス駆動)です。
これを最初に提案したのがRCAの技術陣でした。1968年の記者会見のとき、すでに「液晶テレビの基本的な概念はここに完成した」と宣言しており、今現在もその原理がすべての液晶テレビに使われています。
液晶電卓を初めて制作したのがシャープで、1973年のことでした。
ところが世界で初めて液晶テレビを商品化したのは、シャープではなくてエプソンなんですな。もちろんシャープは試作機は完成しさせていましたが、商品化は遅れてしまったのです。とはいえ、液晶テレビを普及させたのはシャープの功績がもっとも大きいですね。
余談ながら液晶と並ぶプラズマは、1964年、米イリノイ大が動作原理を発見し、商品化したのが最初です。
有機ELは1987年、コダックが発明しました。
光の三原色なので、有機ELは赤・緑・青色で構成されます
さて、このようにほとんどの家電で影響力を発揮したRCAですが、液晶テレビの商品化には乗り遅れ、次第に業績が悪化していきます。
結局RCAは1986年にゼネラル・エレクトリックに買収され、家電部門はフランスのトムソンに売却されました。
いま、アメリカには家電メーカーは1つもないのです。
制作:2008年9月5日
<おまけ1>
正力松太郎が全国テレビ放送網を作り上げるという「日本テレビ放送網構想」をぶち上げたのは1951年。日本テレビが予備免許を獲得したのは1952年7月で、NHKはその5カ月後です。
ところが本放送開始は、NHKが1953年2月で、日本テレビは半年後の8月。日本テレビが本放送で後れをとったのは、RCAの放送機器の納入が遅れたためとされています。
<おまけ2>
1953年、日本初の国産テレビが発売された年、三洋電機が洗濯機第1号を発売しています。日本初の冷蔵庫を発売したのは東芝(1930年)ですが、多くのメーカーから家庭用が出たのはやはり1953年。これを受けて、評論家の大宅壮一は1953年を「電化元年」と名づけました。
その大宅壮一が、「1億総白痴化」とテレビを批判したのは、1956年のことでした。