日本赤十字社の誕生
「人類みな兄弟」の博愛主義
濃尾地震での救護
1867年(慶応3年)、パリで万博が開かれました。その前年に薩長同盟が結ばれ、幕府の威信が揺らいでいたこともあり、将軍・徳川慶喜は、弟の昭武を名代としてパリへ派遣します。当時13歳ですが、要人と面会させることで、江戸幕府の存在を世界にアピールする計画でした。
パリ万博に派遣された幕府一行(中央が徳川昭武)
しかし、パリに到着すると、驚くことに薩摩藩と佐賀藩が独自に参加していました。しかも、薩摩藩は「薩摩琉球国勲章」を作り、各国要人に配っていたのです。あわてた幕府側は抗議しますが、もちろん聞く耳を持ちません。
協議の結果、幕府は「日本大君政府」、薩摩藩は「薩摩太守政府」、佐賀藩は「肥前太守政府」と掲げることになりました。日本には「政府」が3つあると各国に知らしめることになったのです。この失策で、幕府は600万ドルの借款に失敗し、大政奉還に追い込まれたとされます。
パリ万博に、佐賀藩の使節団長として参加していたのが、佐野常民です。後に佐野はオランダで軍艦を発注するなど西洋技術の導入を進めますが、万博で驚くべきものに出合っています。敵・味方に関係なく負傷者を救護する「国際赤十字」です。
赤十字は、スイスの実業家アンリ・デュナンが、1859年のイタリア統一戦争で戦傷者を救護した経験から始まっています。当時、敵味方を区別しない理由を問われ、「人類みな兄弟」と答えています。1863年には、ヨーロッパ16カ国が「赤十字規約」を採択し、翌1864年、戦傷者保護を明示したジュネーブ条約が結ばれています。1867年には、パリで万博に赤十字展示館を出展し、さらに第1回赤十字国際会議を開いています。
1873年、佐野は明治政府の代表団としてオーストリアのウィーン万博を見学し、やはり赤十字展示館を見学します。国際的な広がりを知った佐野は、赤十字のような組織を作ることこそ、文明開化だと確信するのです。
1877年、西南戦争が起こると、元老院議官だった佐野は政府に「博愛社」設立を願い出ますが、「敵も救う」という考えが理解されず、いったんは却下されます。しかし、官軍の総督として熊本に赴任していた元老院議長・有栖川宮熾仁親王に直訴し、許可を得ることができました。これが1877年5月1日だったため、いまも日本赤十字社の創立記念日は5月1日になっています。
博愛社の設立願書(佐賀城本丸歴史館)
当時、有栖川宮熾仁親王は、熊本洋学校に招かれた米国人教師L.L.ジェーンズの邸宅を宿舎としていました。この場所で親王が博愛社創設を許可したことから、日本赤十字社の発祥の地とされています(ジェーンズ邸は2016年の熊本地震で崩壊し、現在、復旧作業中)。
親王からは許可されたものの、実際に明治政府は動きません。そこで、佐野は政府の実力者・岩倉具視に博愛社の必要性を訴えたところ、政府トップの三条実美に説明の機会が与えられ、設置が了解されました。
博愛社が設置されると、佐野は救護班を現地に派遣し、薩摩軍・官軍を問わず治療に当たりました。ただし、赤十字の標章はジュネーブ条約加入国しか使えないため、赤一文字の上に日の丸をつけた標識を使っています。
実は、1872年(明治5年)、陸軍は衛生部の標識に赤十字を使いたいと考え、太政官に確認したところ、キリスト教に関係するマークの使用など許可できぬと却下されたため、赤一文字のマークを採用しています。このときの経緯を知っていたため、博愛社も、赤一文字の上に日の丸をつけた標識を使ったのです。
西南戦争での救護
佐野は「日赤の父」と呼ばれますが、「日赤の母」と呼ばれる人物が元老院議官だった大給恒です。大給の旧名は松平乗謨(のりかた)で、徳川将軍家の親戚にあたる元大名です。太給は博愛社本部を開き、熊本、長崎、鹿児島、大阪などの支局を設け、ひろく資金を集めました。記録によると、西南戦争の救護に活躍したのは120人以上、救護した傷病兵は1400余名、費用総額7000余円とされています。
西南戦争が終わると、博愛社の存在理由が議論されることになりますが、常設にすべきとの意見が勝り、小松宮彰仁親王を初代総長に、佐野、大給を副総長にして、本格的に発足します。事務所は東京・芝公園内に新設されました。
設立に際し、天皇・皇后両陛下から1000円を下賜されますが、国民の認識はまだまだ薄く、設立当初の社員(寄付会員)は伊藤博文や夏目漱石など38人だけでした。
1886年、政府はジュネーブ条約に加入します。翌年、博愛社は日本赤十字社と改称し、佐野が初代社長に就任しています。
創立当初の日本赤十字社(東京・飯田町)
1890年、東京の日本赤十字社病院で看護師の養成が始まりました。初めて戦時救護に従事したのが、1894年の日清戦争です。このとき作られた歌が「婦人従軍歌」。
1番は「火筒(ほづつ)の響き遠ざかる/跡には虫も声たてず/吹き立つ風はなまぐさく/くれない染めし草の色」、5番は「味方の兵の上のみか/言(こと)も通わぬ敵(あだ)までも/いとねんごろに看護する/心の色は赤十字」などとなっています。赤十字看護師は1904年の日露戦争でもロシア人捕虜の看護にあたりました。
石黒忠悳の「幻燈演説」
日本赤十字社は、補助金を受けることもありますが、基本は社員や寄付金で運営されています。そのため、広報活動が重要となりますが、もちろんこれは簡単ではありません。
赤十字の活動を広めた有名なエピソードが、軍医総監だった石黒忠悳(いしぐろただのり)の「幻燈演説」です。石黒は赤十字の事業を一般に説明するため、名高い五姓田芳柳に原画を依頼し、日本全国でスライド上映を続けたのです。
この全国行脚の話が明治天皇の妻(昭憲皇太后)の耳に入り、皇太子殿下(後の大正天皇)の前で2時間にわたって披露され、絶賛されました。これが新聞に報じられたことで、各地から寄付の申し込みが殺到することになりました。これこそ、日本初のプレゼンといってもいいと思われます。
赤十字と皇室との関係は深く、1892年(明治25年)、豊島御料地の一部を宮内省から借りて新病院を建設した際も、6月17日の開院式に昭憲皇太后が行啓しています。昭憲皇太后は後に10万円(現在の3億5000万円)を寄付し、1912年には「昭憲皇太后基金」が始まりました。毎年、昭憲皇太后の命日にあたる4月11日、基金の利子が世界の赤十字社に配分されています。
1892年に完成した日本赤十字社病院
赤十字の事業には大きくわけて2つあります。戦時の救援である「戦時事業」と災害救援の「平時事業」です。
以下、それぞれを箇条書きでまとめておきます。
【戦時事業】
●日清戦争
はじめて大陸の戦地で活躍。1894年8月から1895年12月までの17カ月間で、救護した傷病者は10万1675名、そのうち捕虜が1484名。この救護に従事した者は1387名。救護活動以外に出征軍人の慰労、慰問品の募集など関連事業も多く、赤十字社の活動が一般に認知されるようになる
日清戦争の救護
●台湾出征
1895年5月、台湾人民義勇軍の抵抗に対して、日本は近衛師匠を遼東半島から台湾へ転身させる。63日間で4351名を救護
●北清事変
1900年6月、北京の義和団事件に際し、日本は第5師団を出動。日本赤十字は病院船「博愛」「弘済」2隻を派遣し、傷病兵を広島で治療。救護員450名で、日本人1万2586名、外国人249名を救護
日本赤十字社の病院船
●日露戦争
1904年から1905年にかけて、152班4847名の救護団を海外と国内各地、船舶に派遣。患者実数は111万220名に達し、そのうち捕虜患者は2万8957名、占領地住民1万4名。救護員も108名が死亡。このときの活動で、天皇陛下から勅語を、皇后陛下から令旨をたまわる
●第1次世界大戦
1914年7月、日本は日英同盟を理由に青島に派兵。日本赤十字は青島などで2万4666名を救護、うち捕虜患者は5440名。この戦争では、各国赤十字を助けるため、イギリス、フランス、ロシアにも救護団を派遣し、国際親善に貢献
●シベリア出兵
1918年から1922年の4年3カ月に、5万5697名の患者を救護
シベリア出兵時の病院列車
●満州事変
1931年9月におこった満州事変に、日本赤十字の救護班1637名が戦地にわたり、1万4605名を救護
● 第2次世界大戦
1937年7月の日華事変以降、終戦まで戦地に送った救護員は2万6522名。救護患者数は記録できないほど膨大で、犠牲になった救護員の数も不明
東京駅を出発する臨時救護班
【平時事業】
●磐梯山噴火
博愛社が日本赤十字社と改称した翌年の1888年7月15日、会津磐梯山が噴火。当時の規約では戦時以外の救援は不可能だったが、昭憲皇太后の御内意で直ちに災害派遣
磐梯山噴火での救護
●濃尾地震
1891年11月28日の大地震で、1万194名の患者を取り扱う
●三陸津波
1896年6月15日、三陸地方に未曾有の大津波。宮城・岩手・青森に175名の救護員を派遣し、4958名を救護
●ポーランド孤児救護
第1次世界大戦でポーランドが戦場となり、1万人以上のポーランド人がシベリヤヘ避難。流浪生活で孤児が急増し、日本赤十字社がウラジオストクから東京へ移送。375名を救護し、のちに帰国させる。1921年の第2回救済では390名を救護
●関東大震災
1923年9月1日の大地震。救護員派遣は4466名で、平時における最大の救護活動となった
上野公園で開かれた創立25年式典(1902年)
敗戦により、日本赤十字社の立場も不安定なものとなりました。
GHQとの協議の末、1946年、民法による社団法人として厚生省の監督下に入りました。1947年には、災害救助法により、国の医療代行機関として赤十字が選ばれます。
しかし、予算難を受け、「白い羽根募金」が立ち上がりました。その後の1952年8月14日、日本赤十字社法が制定され、特殊法人化が決まりました。
その1952年、日本赤十字社は「血液銀行」を開設。国内で唯一、献血による輸血用血液製剤を製造することになりました。戦後しばらく、生活のため何度も売血する人が増え、赤血球が少ない「黄色い血」が社会問題になりました。1964年、アメリカのライシャワー駐日大使が輸血によって肝炎に感染。同年、政府は献血の体制強化を決まるのでした。
血を保存する採血ビン
●伝染病研究所/国立感染症研究所の誕生とワクチン開発
●似島/戦争と検疫
●天然痘との戦い/予防接種のはじまり
制作:2021年1月17日
<おまけ>
大規模な戦争となった日露戦争で、巨額の寄付をしたのが玉井喜作です。
玉井は、先進技術を学ぶため、1892年11月、日本を発って、単身でシベリア横断してドイツへ。ドイツでは、雑誌『東亜』を発行して、日本の立場を説明しました。この雑誌で募金活動が始まり、玉井は集まった寄付金の7割以上を日本赤十字社に送付、日露戦争での活動を支えたのです。
日本赤十字社の事務所