予防接種のはじまり
「天然痘」撲滅への道

コレラの予防接種
コレラの予防接種


「月が欠けることもない」という権勢を誇った藤原道長の時代は、天然痘とともにやってきました。

《死者は路頭に満ちあふれ、道行く人々は、鼻をふさいで通り過ぎる。死体を食べる鳥や犬も食べるのに飽き、骸骨が、巷をふさいでいる》(『本朝世紀』995年4月24日)

 995年、京都に痘瘡(天然痘)が大流行し、時の政権の重要人物が、次々と亡くなっていきます。関白・藤原道隆(道長の長兄)が死ぬと、すぐに藤原道兼(道長の次兄)が死去。ほかに、源重信、藤原朝光、藤原済時、藤原道頼ら高官があっけなく死んでいきました。兄2人だけでなく、そのほかの権力者もみないなくなり、道長に権力が集中したのです。

 その道長の栄華は、娘の藤原嬉子らが赤斑瘡(麻疹)で亡くなるのと同時に、消えていきました。

 かつて日本では、天然痘と麻疹が、非常に恐れられた2代伝染病でした。
 天然痘は、シルクロードを経由して日本に入ってきたとされます。『続日本紀』に書かれた735年と737年の流行がおそらく最初のもので、このときも藤原不比等の息子4人が全員死んでいます。

《夏より冬に至るまで、天下、豌豆瘡(えんづそう=天然痘)を患って夭死(ようし=早死)する者多し》(『続日本紀』735年)

 天然痘は、高熱が出て全身に発疹が広がります。感染力が強く、致死率も30〜40%と非常に高い疫病です。16世紀にアステカ帝国が滅亡したのは、スペイン人が持ち込んだ天然痘のせいだといわれます。治っても顔にあばたが残るため、江戸時代には「見目定(みめさだ)めの病」として恐れられました。幕末に来日した医師のポンぺは、「日本人の3分の1は顔にアバタがある」と記録しています。ちなみに、伊達政宗が右目を失ったのも天然痘の後遺症です。

右目を失った伊達政宗の銅像
右目を失った伊達政宗の銅像(仙台城本丸)


 江戸時代、鎖国下でも、佐賀藩領の長崎にはオランダから最先端の学問が入ってきており、それを「蘭学」と呼びました。長崎で蘭方医学を学んだ緒方春朔は、中国の医書『医宗金鑑(いそうきんかん)』で種痘(しゅとう)について学びます。種痘とは、天然痘の予防接種のことです。

 春朔の方法は、天然痘の患者から集めたカサブタを粉にして鼻から吸わせ、人工的に免疫を獲得させる「人痘種痘法」でした。1790年の初種痘以来、筑前国秋月藩(福岡県朝倉市)で1000人以上の子供に種痘を施したとされます。(秋月城跡近くには「我国種痘発祥之地秋月」の石碑が立っており、初種痘の2月14日は「予防接種記念日」となっています)。

 1796年、イギリスの開業医エドワード・ジェンナーは、「牛がかかる牛痘に感染した人間は天然痘にかからない」という言い伝えを参考に、牛痘にかかった農民の膿(うみ)を子供の皮膚にすり込みました。すると、確かにその子供は天然痘にならなかったのです。これが「牛痘種痘法」です。ワクチンの語源は、ラテン語で雌牛を意味する「vacca」ですが、それは牛痘から来ていたのです。

ワクチン製造には馬を使用
コレラ、チフスなどのワクチン製造には馬を使用


 ジェンナーの牛痘種痘法を最初におこなった日本人は、択捉島で漁業をしていた中川五郎治です。1807年、ロシア人に捕まり、シベリアで5年間の抑留生活を送り、帰国しました。そのとき学んだ牛痘種痘法を、1824年以降、北海道などで実施しています。

 1846年、佐賀藩で天然痘が大流行します。蘭学に通じていた藩主の鍋島直正は、長崎の藩医・楢林宗建に種痘技術を入手するよう指示。1849年、バタビア(現在のジャカルタ)からワクチンを入手し、種痘に成功します。そこから佐賀藩江戸屋敷へ伝わり、さらにそこから、佐倉藩(千葉県)、水戸藩(茨城県)、壬生藩(栃木県)など少数の藩に伝わりました。

楢林宗建『牛痘小考』
楢林宗建『牛痘小考』(国会図書館)


 壬生藩では、斎藤玄昌が種痘を実施。
 佐倉藩では、佐藤泰然が実施しています。なお、泰然が1843年に開設した医学塾「順天堂」が、現在の順天堂大学です。

 長崎で蘭学を学び、大坂に蘭学を教える「適塾」を開いた緒方洪庵も、種痘をおこなう「除痘館」を開設。
 洪庵の義弟、緒方郁蔵は、種痘マニュアルとして『散花錦嚢(さんかきんのう)』を書き残しました。種痘のやり方は「児を介者の膝上に抱かしめ」から始まっています。

適塾
適塾(大阪)


 なお、洪庵は後に江戸の「西洋医学所」の責任者になりますが、これが後に東大医学部に発展します。適塾は大阪大学の原点となり、出身者の福沢諭吉は、慶応大学を創設します。

東大医学部
東大医学部


 人痘種痘法は、中国式とトルコ式の2つがあるとされます。患者のウミやカサブタの粉末を鼻から吸引させるのが中国式。腕や足に傷をつけ、擦り込むのがトルコ式。しかし、「適塾」の塾頭を務めた長与専斎の「旧大村藩種痘の話」によると、吸引では100人につき数人が死亡、腕への種痘では3年に1人が死ぬ程度で、安全性にはばらつきがありました。結局、牛痘がもっとも安全性が高く、これが主流になっていくのです。

 明治政府は、1876年(明治9年)、天然痘予防規則を制定し、幼児への予防接種を義務づけました。「小児初生70日より満1年迄の間に必ず種痘すべし」とあり、違反者へは罰金もありました。

 しかし、当初は、「頭から角が出て牛になる」「人の言葉が話せなくなる」などのデマが広がりました。しかも、やっと説得して接種すると、善感したのを「伝染した」と泣き出す始末でした。もちろんこうした騒動も初期だけで、後には誰でも平気で予防接種するようになりました。

種痘に使われた道具
種痘に使われた道具(佐賀城本丸歴史館)


 森鴎外の『渋江抽斎』には、天然痘について次のように書かれています。

《種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆(ろう=結核)を恐れ、癌(がん)を恐れ、癩(らい)を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛(さかん)なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた》

 予防接種が普及しても、なかなか根絶には至りません。たとえば、1886年(明治19年)年には7万3337人の患者が発生し、1万8676人が死亡しています。死亡率も25%を超えています。

種痘済証
昭和15年の種痘済証

 日本では、戦後の1948年に「予防接種法」が施行されます。国内最後の発症例は1955年です(国外からの持ち込みで1973年と1974年に発生)。天然痘自体は、1980年5月8日、世界保健機関(WHO)総会で撲滅宣言が出され、自然界から消滅しています。天然痘こそ、人類が勝ったほぼ唯一の伝染病なのです。

伝染病研究所の誕生
検疫と衛生の誕生
コレラ対策史
梅毒500年史
結核という文化
栄養学の誕生


制作:2020年3月30日

<おまけ>

 天然痘はウイルス感染症で、人から人へ空気感染します。しかし、ウイルスの知識がない江戸時代には、さまざまな原因が考えられました。
『日本疾病史』によると、麻疹も天然痘も古来、「天地の気の流行」とされましたが、ほかに母親の「胎毒」によるという説も根強かったようです。母親の不摂生や「淫火」が原因だというのです。いずれも中国からの受け売りの説ですが、子供が死んだ母親は、こうした差別とも戦うことになったのです。
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