「伝染病研究所」の誕生
日本の細菌・ウイルス研究史

ワクチンの製造
ワクチンの製造(1927年)


 1878年(明治11年)、東京から北海道まで旅をしたイギリス人の女性旅行者イザベラ・バードは、秋田県で、脚気の流行を目撃します。

《最初の症状は、脚に力がなくなり、膝ががくがくしてきて、ふくらはぎが引きつり、腫れぼったくなり、神経が麻痺してくる。慢性のものは、症状がゆっくり進行し、神経を麻痺し、身体を消耗させる。もしこれを抑えないと、6カ月から3年の間に、麻痺と消耗の結果、死を招く。
 患者は、身体を横にすることもできない。額にしわをよせ、不安そうに眼をぎょろつかせ、皮膚の色は黒ずみ、青黒い唇は開けたままで、鼻孔を広く開け、頭をぴくぴくさせている》(『日本奥地紀行』より省略引用)

 近辺では、この7カ月で人口約1500のうち100人が死んだと書かれています。

 江戸時代、玄米の精米化が進み、白米が食べられるようになりましたが、当時の一汁一菜の食生活では、ビタミンが不足したため、脚気になったのです。ビタミンB1の欠乏が原因ですが、長らくその正体は不明でした。

日本初の徴兵
日本初の徴兵


 明治になって、軍隊ができると、脚気患者が激増します。「徴兵令」の目玉として「1日6合の白米を食べられる」という特典があったため、軍人に患者が増えたのです。

 原因追求に当たり、海軍は栄養説をとりました。海軍軍医の高木兼寛は洋食・麦食を試みた結果、発症率を激減させることに成功します。しかし、陸軍では石黒忠悳と森林太郎(作家の森鴎外)が細菌説をとったため、白米主義が続き、患者も減ることはありませんでした。

 森鴎外は、ドイツ留学にあたり、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者であるコッホの研究所に入っています。このとき一緒に行ったのが、北里柴三郎。

コッホ研究所時代の北里柴三郎
コッホ研究所時代の北里柴三郎


 脚気の原因が何かという論争は、軍だけでなく、医学界でも盛んにおこなわれました。

 北里柴三郎は、1875年、東京医学校(現東大医学部)に入学します。同期には、同郷の緒方正規がいました。緒方は優秀で、東大医学部の教授と、内務省衛生局東京試験所の所長を兼任していました。東大卒業後、内務省衛生局へ就職した北里柴三郎にドイツ留学を勧めたのも緒方です。

 北里はコッホの研究所で、破傷風菌の培養に成功し、さらにその毒素を少しずつ注射し、血清に抗体を生み出す血清療法を開発します。このやり方はジフテリアにも応用されました。

 帰国後の日本では、相変わらず脚気の原因は何かという論争が続いています。東大医学部の緒方正規は細菌説を取っていましたが、北里はそれを批判したことで、日本での活動に大きな制約がかかることになりました。その窮地を救ったのが福沢諭吉です。

 福沢諭吉は、1892年、伝染病研究所を設立し、北里柴三郎を所長に据えました。北里は、1894年、東大の青山胤通とともに、香港でペスト菌(黒死病菌)を発見することになります。

 伝染病研究所には、黄熱病を研究した野口英世、赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬サルバルサンを開発した秦佐八郎など、優秀な研究者が数多く在籍し、医学の一大研究拠点となっていました。

伝染病研究所
伝染病研究所・旧1号本館


 面白くないのは東大医学部ですが、決定的な対立があるわけでもなく、伝染病研究所との不和はなんとなく水面下で続いていました。1914年、そうした不和が政治問題として噴出します。大隈重信内閣の行政改革の一環で、内務省所管の伝染病研究所が文部省に移管されることが、北里に無断で決まったのです。研究所は東大傘下となり、所長は青山胤通が務めることになりました(伝研移管事件)。

伝染病研究所
伝染病研究所・新館(現存)


 怒った北里柴三郎は、私費を投じて北里研究所を設立。ここで、狂犬病、赤痢、発疹チフス、インフルエンザなどの血清開発に取り組みます。福沢諭吉没後の1917年には、慶応義塾大学医学部を創設し、初代医学部長となっています。

慶応病院
慶応病院(1930年頃)


 なお、鈴木梅太郎は、1910年、白米で飼育して脚気のような症状が出た動物に米糠、麦、玄米を与えると快復することを報告し、その成分(ビタミンB1)をオリザニンとして販売しました。これがビタミンの発見ですが、医学界も軍もその成果を無視し続けました。

北里研究所旧本館
北里研究所旧本館(博物館明治村)

 
 1918年から1919年にかけて、世界中で「スペイン風邪」が大流行し、世界で4000万人が死亡したといわれます。
 スペイン風邪はインフルエンザですが、この当時はまだインフルエンザの原因が不明でした。そこで、北里研究所と伝染病研究所は別々のワクチンを開発し、お互いに非難し合います。

 それ以前、1892年のインフルエンザ大流行を受けて、コッホ門下生のパイフェルは「インフルエンザ菌」なるものを発見していました。その名前をとって「パイフェル氏菌」と名づけられましたが、これが本当の原因なのかは不明でした。ですが、スペイン風邪の患者からは、パイフェル氏菌と肺炎双球菌が高い確率で見つかりました。

 北里研究所は、「パイフェル氏菌」が原因だとしてワクチンを作ります。一方、伝染病研究所は、なにか別の原因があり、普段は無害なパイフェル氏菌と肺炎双球菌が活性化したと考え、混合ワクチンを開発します。両者ともそれなりに効いたとされますが、実はインフルエンザ本体に効いたのではなく、細菌による二次感染に効いたことが後に判明します。

ワクチン
ワクチン(左上から時計回りに赤痢、ペスト、腸チフス、ペスト血清、破傷風血清、ジフテリア血清)


 1933年、インフルエンザの本当の原因は細菌ではなく、ウイルスだと判明しました。
 細菌は、1つの細胞だけでできている小さな生物で、顕微鏡で見ることができます。抗生物質を飲めば、細菌は退治できます。一方、ウイルスは細菌の50分の1程度の大きさで、細胞を持ちません。電子顕微鏡でないと見ることができず、口蹄疫、インフルエンザ、ノロ、狂犬病などの原因となります。抗生物質は効きません。

ウサギを使った狂犬病ワクチンの製造
ウサギを使った狂犬病ワクチンの製造(1946年)


 1929年、イギリスの細菌学者フレミングが青カビを使ったペニシリンを発見します。10年以上も注目されませんでしたが、1943年ごろ、アメリカ兵の治療に使われはじめました。ペニシリンは肺炎、敗血症、破傷風、ジフテリアなどの治療に用いられました。当時は淋病や梅毒などの性病にも使われる万能薬となっていました。

 1944年1月27日、新聞に「イギリスの首相チャーチルの肺炎が新薬ペニシリンで治った」との記事が出ました。これを見た陸軍省は、即日、ペニシリン研究を陸軍軍医学校に命じます。軍医学校では1943年からペニシリンの開発が始まっていましたが、このとき初めて軍のお墨付きがついたのです。

培養基質(伝染病研究所)
培養基質(伝染病研究所)


 実は、チャーチルを救ったのはペニシリンではなく「サルファ剤」でしたが、結果的に日本でもペニシリンの開発が進みます。第1回ペニシリン委員会は、1944年2月1日に開かれ、15万円(現在の3億円)ほどの予算が計上され、伝染病研究所や各大学を含めた開発競争が始まりました。

 1944年11月、陸軍は和製ペニシリン「碧素(へきそ)」の開発成功を発表し、企業の協力で大量生産に入ります。しかし、戦局の悪化で、実際にはほとんど使われませんでした。それでも、こうした下地があったことで、戦後日本はペニシリン大国となり、抗生物質の研究でも世界に冠たる地位を築くのです。

ペニシリンに使う青カビ
ペニシリンに使う青カビ(1946年)


 戦後の1947年、伝染病研究所は、ワクチンの検査・製造部門などを国立予防衛生研究所(厚生省所管)として独立させ、これが現在の国立感染症研究所(感染研)になりました。
 伝染病研究所は、1967年、東大医科学研究所(医科研)となっています。

 和製ペニシリンを開発した陸軍軍医学校は、敗戦で廃絶されますが、その土地に感染研が存在しています。近くには、国立国際医療研究センターがありますが、これは元をたどると、東京第一陸軍病院です。

 海軍の高木兼寛は、後に東京慈恵会医科大学(慈恵医大)を創設しました。
 石黒忠悳は、日本赤十字社の社長となっています。
 青山胤通は癌研究会を設立しました。
 脈々と続く日本の医療研究が、新型コロナウイルスの専門家委員会につながっているのでした。

細菌を集める様子
細菌を集める様子

検疫と衛生の誕生
コレラ対策史
梅毒500年史
結核という文化
栄養学の誕生
予防接種の誕生/天然痘との戦い


制作:2020年3月25日

<おまけ>

 陸軍軍医学校は、満州国ハルビンで細菌戦研究をしていた関東軍防疫給水部(731部隊)石井四郎部隊長の肝いりで設立されました。軍医学校の防疫研究室では、ペスト菌の大量生産やフグ毒の大量精製法などの研究が進められていました。
 軍医学校で和製ペニシリンの開発を指揮したのは、稲垣克彦という元陸軍軍医少佐です。ペニシリンの開発競争が始まると、731部隊の幹部から「ペニシリン研究はこちらがやる。中止せよ」と脅されたと証言しています(読売新聞、2000年5月29日)。
 ワクチンや特効薬というのは、昔から大きな利権だったことがわかります。

七三一部隊
731部隊

<おまけ2>

 上記以外の東京の私立医大といえば、日本医科大学と順天堂大学の名前が浮かびます。
 日本医科大学は、伝染病対策のため制度化された「医術開業試験」(1875年〜)向けの予備校「済生学舎」がもとで、創設者の長谷川泰は、のちに内務省衛生局長を務めています。
 順天堂大学は、江戸時代、下総佐倉藩につくられた蘭方医学塾「和田塾」がもとで、佐倉藩で牛痘(天然痘ワクチン)の普及に努めました。
 日本の病院は、どこも伝染病対策のために始まったといっても過言ではないのです。

順天堂病院
順天堂病院(1930年頃)

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