米国が沖縄におこなった貢献の全貌
プロパガンダ雑誌『守礼の光』(3)経済・インフラ

守礼の光
第2章「成長と進歩(経済)」扉


経済をささえた資金

 戦争終結後の数年間、沖縄の島々は事実上、主として米軍の占有する軍事基地であり、したがってあらゆる活動は、必然的にこの基礎的な事実にそって展開された。戦前の通貨は日本円であったが、沖縄の占領に伴い円はほとんど価値を失い、米軍は沖縄の通貨として特殊な円を発行した。

B印軍票
B印軍票(沖縄郵政資料センター蔵)


 戦争直後の短期間の情勢は、実際複雑なもので、沖縄住民はB円、新日本銀行券、旧日本銀行券(5円以上の)と、さらには特殊な証紙をはりつけて使用が許されていた10円以上の旧日本銀行券という種類の異なる貨幣を使用していたのである。

 通貨がこれほどひんぱんに変わっては経済活動が円滑に行なえないのは明らかで、1948年7月21日にはB円が琉球唯一の法定貨幣に決められ、さらに1958年9月16日には米ドルが唯一の法定貨幣となった。

 琉球経済が立ち直るにつれて、琉球の銀行は業務を開始した。銀行の融資金は琉球の経済復興にとって必要不可欠であった。琉球の融資機関としては琉球銀行、沖縄銀行、相互銀行、貯金局、アメリカン・エキスプレス銀行、アメリカ銀行、農林漁業中央金庫、信用組合、大衆金融公庫、琉球開発金融公社などがある。

 1970年までに、これら銀行の支払準備金は4100万ドルを越え、預金高は合計約3億9100万ドルにのぼっており、これはゼロ同然のところから始まって30年にもならない経済にとっては驚異的な数字である。

 概算したところでは、1947年から1971年までにおけるアメリカの援助計画および行政資金は、約3億3600万ドルにのぼっている。このような資金の流入に助けられて、琉球経済は成長しつつ財政上のゆとりもでき、復帰前には、適切なことばでいってみれば、健全で安定したものになっていたのである。

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左:那覇市の琉球銀行本店。一世代まえのゼロ同然の時点から出発した沖縄の経済界に、今では銀行、信用組合、金融公庫など大きな金融機関が10社を越える
右ページ左:今日、沖縄の銀行では訓練の行き届いた従業員たちが現代的なてきぱきしたサービスをしてくれる。写真は琉球銀行で帳簿に取り組む大城秀子さん
右ページ右:1958年9月10日、那覇の銀行でB円をドルに換える住民たち。ドルの使用で経済活動が簡素化された


生産意欲の盛んな島

 いつ沖縄を訪れても、興味をそそるようなみやげ細工の二つ三つを手に入れることはわけないことではあったが、わずか2、30年前に、この琉球列島が将来、かくも印象的な製造、輸出産業を築き上げることになろうと考えた人はまずいなかったであろう。ところが今日、まさにこれが実現したのである。

 経済的に見ると、製造と輸出を可能ならしめた第一の要因は、合衆国政府が膨大な建設事業、物資購入、人員雇用、直接または間接の財政援助などのために巨額の資金を費やしたことである。ここ数年は日本本土も援助や物資購入の形で沖縄経済に大いに寄与し始めている。

 とはいっても、もし沖縄住民自体の努力がなかったら、これら多額の金をもってしても製造輸出産業を振興させることはできなかったであろう。この経済発展の全容を統計的に物語るのに、このわずかな紙面では説明できないが、そのハイライトのいくつかを述べることにしよう。

 たとえば海運についていえば、ほとんど無から出発した終戦直後から、大きな海運会社数社が成長し、今日では沖縄の船舶が貨客を東南アジアにまで輸送している。その大会社の一つの社長である有村喬氏は、この発展は「米民政府と琉球政府の積極かつ啓発的な指導に負うところが大きい」と述べている。

 ベニヤ板も急速に発展した産業の一つである。沖縄の主要ベニヤ会社二社は、1970年にべニヤ板2440万平方メートルを生産し、その3分の1以上を合衆国に輸出、約3分の1を沖縄の米軍に、3分の1近くを沖縄民間に販売している。

 沖縄各地にはまた多数の中小生産企業が生まれた。たとえば八重山地方石垣島の川平湾には世界でもここだけという黒真珠の商業養殖に成功している琉球真珠会社がある。

 今日、沖縄の輸出品目は多岐多彩にわたっており、砂糖をはじめとして石油製品、かん詰め、海産物、たばこ、畜産物がこれに続く。繊維および化学製品も輸出されている。輸入は依然として輸出を上回っているが、沖縄の自然環境からみると今後ともこの状態は続くものと思われる。しかし今日行なわれている製造業と輸出は生産意欲の盛んなこの島の生活水準を今後とも向上させていくにちがいない。

沖縄の成長

 近年沖縄の経済成長は日本本土の経済成長よりやや速いペースで進んでいる。このことは、本土の経済がある程度残された産業その他の施設をもってその発展に踏み出したのに対し、琉球の経済が第2次世界大戦後のゼロに近いところから出発したことを考えれば一段とめざましいものといえよう。

 1955年から1970年までの日本の経済成長率を全体としてみれば14.8パーセントとなっており、琉球の13.4パーセントに比べ幾分高目である。ところが1965年から1970年までの比較(最近のドル相場から見る)を示すと次のようになっている。

 平均年間成長率       琉球   本土
  国民総所得      17.4%  16.2%
  国民所得       17.2%  16.2%
  1人当たり国民総生産 16.2%  14.9%
  1人当たり国民所得  16.2%  14.9%

 日本は国民総生産および国民所得については依然として琉球より高い数字を示している。たとえば、1970年度の日本の1人当たり国民所得は1336ドルであり、この意味で琉球の1人当たり国民所得は約770ドルである。しかし、大事な点は成長率であり、この意味で琉球の経済が加速度的なペースで進んでいるということは輝かしい未来を約束するものといえよう。

 この急速な成長の陰にあって大きな力となったものは、琉球におけるアメリカの支出と投資であり、財政援助である。近年日本は返還に備えて琉球経済援助のわくを広げている。

 今日アジアの自由世界各地域は自国の経済発展ならびに自己防衛に関し、より多くの責任を分担してゆく方向に向かっている。経済評論家たちは、沖縄を含めてこのような地域のほとんどが、より安定した繁栄への道をたどっているということを固く信じている。

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左:アメリカの援助で拍車をかけられ、急速なペースで進む沖縄経済の成長に伴い、那覇市繁華街の照明も繁栄の輝きを増す
中:沖縄の経済水準の向上は流行をとり入れた女性のファッションなど生活を色どるさまざまな現象に反映している
右:経済成長のおかげもあって、沖縄の子供たちの健康も服装も以前よりずっとよくなった


畑と山林と海

 琉球はもともと食糧生産地としては恵まれてはいない。これは避けられない事実である。このことは、この島々の歴史と大きなつながりがあり、その影響はおそらく今後もついてまわることであろう。

 全部で73の島々、面積合わせて21万7453ヘクタールのうち、耕作に適する土地はわすか28%である。しかも耕作可能な土地でいちばん恵まれている土地でも、並みの土壌程度にすぎない。とはいえ、気象条件から見ればサトウキビにはむいた土地もあり、丘状の高地帯の酸性土壌はパイナップルには理想的である。

 こうした不利な自然条件を背負っているにもかかわらず、沖縄の人々は農業での進歩を遂げ、これに対してアメリカおよび本土政府から物質的援助を受けてきた。たとえば、日本は琉球の農林業開発改良に1970会計年度には146万8000ドルを供与、アメリカは多年にわたって技術、資金面での援助や公共事業計画を通じて直接あるいは間接的に農業に貢献している。

 1978年の林業生産高は、年産5万立万メートルから2万5000立方メートル弱まで低下したパルプ原材のように下降したものもあるが、全体としては増加し、木材の生産高は7664立方メートルから約2倍の1万3192立方メートルに上昇している。

 漁業は現在沖縄の主要産業となっている。それまで沿岸漁業が主力であった漁業は、過去10年の間に近代的な遠洋漁業にまで発展し、インド洋や大西洋の南西部まで操業範囲を広げている。登録船の数は軽く3000を越え、その約7パーセントが5トン以上の漁船である。1970年の海産物売り上げ高は1710万ドルにまで達した。

 このように、琉球の天然資源が乏しいにもかかわらず、住民たちはその土地からはできるだけの収穫をあげ、海からは非常に大きな利益を収めているのである。これらはすべてたゆみない成長を続ける新時代の沖縄の一面なのである。

守礼の光
左:きゅうりは沖縄で栽培される作物の一つ。耕作適地はわずか28パーセントにすぎないが、めざましい進歩が、特にサトウキビやパイナップルなどの作物に見られる
中:琉球政府が行った植林計画に基づく植樹、病害虫駆除、自然管理などによって森林地帯(全体の61パーセント)は改良された
右:カツオの大漁。現在遠洋漁業による漁獲高は沖縄全体の47パーセントに上り、漁船の操業範囲はインド洋まで達している


生きている記念碑

「20世紀の終期も近づいている……。琉球列島ならびに住民は有望な将来に向かって堅実に進まなけれはならない。」
 ジェームズ・B・ランパート高等弁務官は1969年10月に行なったスピーチの中でこう言った。

 このスピーチが行なわれた当時、琉球は既に近代社会に足を踏み入れていた。これを何よりもはっきりと物語っているのは、電力、水道、下水道、港湾、空港など近代社会に不可欠な数々の公共施設が存在していたことである。一般に公共施設と呼ばれているこのような施設なしには、いかなる社会といえども、近代的な方法で物を生産したり、商業に従事したり、あるいは社会を構成する人々のためのより安全な、より健康的な、そしてより快適な生活を保証する役目を果たしうるものではない。

 そのほとんどが過去20年の間に着手されたか、あるいは現在の規模まで発展をとげた沖縄の公共施設について、住民は誇りに思ってしかるべきである。
 必要とあれば財政的、技術的援助を与えて公共施設の建設を推進することは、琉球に活力あふれた近代的繁栄社会を育て上げようとする多年にわたったアメリカの計画の重要部分であった。返還を前にして、日本はこの計画に尽力する面でアメリカと漸次協力し、援助、推進の責任を肩代わりすることになった。

 今日の沖縄電力施設の成長は、これまで築かれた公共事業の中でも典型的なものである。第2次世界大戦前のごく限られた電力施設は那覇地区にだけ送電し、その他の地域で電気の必要な人は私設の発電機にたよる以外に方法がなかった。のちに牧港発電所の6基のディーゼル発電機と海岸に係留した2隻の発電船とが本島だけに11万2500キロワットの送電をした。このうち、米軍が60パーセントを使用し、40パーセントが民間に回されていた。

琉球電力公社
琉球電力公社(1969年5月号より)


 1954年の初め、米民政府は琉球住民の福祉ならびに産業用の電力供給を図るため、琉球電力公社を設立した。
 当初アメリカの管理下にあった電力公社に1963年沖縄人の総裁が任命され、1965年にはすべての電力系統の運営を始めた。当時すでに資産1600万ドルを越えていた。1970年には電力公社の施設もまた年間、本島に対してゆうに10億キロワット、離島に対して190万キロワットの電力を供給できるほど大きなものとなった。そのうえ、料金率が下げられ、すべての消費者により安い電気が供給されるようになった。

 水も電力供給と同じような管理方法で沖縄の住民に供給された。
 1958年琉球水道公社が設立され、1970年までには、貯水池、ポンプ場、タンク、浄水場という一連の施設を通じて約600億リットルの送水が行なわれるようになった。北部沖縄にある工費1200万ドルの福地ダム・貯水池が完成する今年(1972年)には、約370リットルの貯水量が水道体系に加わることとなる。

 アメリカの計画および財政援助(3000万ドルの経費中約2000万ドル)によって、多くの下水道および処理場から成る沖縄下水道公社の運営する統合下水道体系もできあがった。

 程度の差こそあれ、アメリカの援助は、道路、橋、港湾、空港、電話等の公共施設の拡充にも注がれた。1970年までに施行された公共施設工事は2400万ドル、これに対する資金内訳は、日本政府1046万5816ドル、米陸軍および民政府835万2880ドル、琉球政府528万9951ドルとなっている。

 沖縄が歴史的な本土復帰を迎えるにあたり、公共施設が整備されているということは、今20世紀後半に出合うさまざまな挑戦を受けて立つ用意があるということを表わすものである。これらの公共施設は琉球住民が現代社会に向かって正に歩を進めた20数年間にわたる成長期の思い出としていつまでも姿をとどめることであろう。これこそ沖縄の生きている記念碑なのである。

那覇空港
那覇空港(1964年4月号より)

●米国が沖縄におこなった貢献の全貌
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(1)総論
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(2)統治まで
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 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(4)社会・医療
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(5)琉球八景図

沖縄土建王国の誕生

制作:2012年11月4日
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