米国が沖縄におこなった貢献の全貌
プロパガンダ雑誌『守礼の光』(2)統治まで

守礼の光
第1章「時代の夜明け」扉


鉄の台風

 第2次世界大戦中、琉球列島は、不運にも日本侵攻への重要な足がかりとしての地理的理由から激烈な攻防戦の場となった。敵味方の将兵のみならず住民の被害もまた大きなものであった。

 1945年3月、アメリカ軍はまず、沖縄本島の西24キロにある慶良間諸島に上陸、まもなく本島の西18キロの小島から本島への砲撃を続けた。
 1945年4月1日主力部隊の上陸が始まった。日本守備隊の抵抗は海岸ではほとんどなかったが、内陸地点での沖縄防衛戦はものすごいものであった。守備隊を援助するため日本本土から飛来した特攻機を含む飛行機は連合軍の艦船36隻を撃沈、368隻に損害を与えた。アメリカの損害は戦死者1万2500名、日本側は11万の戦死者をだした。

 1945年6月下旬まで続いた戦闘で、那覇市や本島の村々は大々的な打撃を受けた。数知れぬビルや家屋が両軍の砲火で壊滅したが中には、鉄の台風からまぬかれて残り、続く復興再建時代の役にたったものもある。たとえば、校舎などは一般の想像に反し、長い戦闘期間中を無きずで通したものがかなりあった。
 連合軍の前線部隊は、抵抗の拠点を掃討しながら北進中、激しい戦闘が行なわれていたにもかかわらず道路や建物の再建を始めた。

 この激しい戦闘に明け暮れた1945年の春から夏にかけて、沖縄は、最初九州に予定されていた日本本土進攻へのかぎであった。この当時、沖縄がわずか数年後、日本を含めて全太平洋地域の自由世界防衛のかぎとなり、またこの時点での沖縄のその重要性が将来に大きな影響を与えることになろうと想像したものはあるまい。
 わけても、恐ろしい鉄の台風の悲劇が、将釆、かつて琉球住民の経験したこともない平和と成長と繁栄との空前の時代につながることになろうと想像したものは1人としていなかったであろう。

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写真左:上陸用舟艇から沖縄本島へ上陸するアメリカ軍。海岸での抵抗は少なかったが、陸上の防備は堅く激戦が続いた
右上:1945年4月から6月にかけての沖縄戦で両軍の砲火のため市町村の損害は大きかったが、その後の復興再建は足早で続けられた
右下:大きな戦闘は7月初めに終わっていたが日本軍の孤立部隊の抵抗で正式の沖縄降伏は遅れ、日本の降伏後の1945年9月7日となった


友愛の手

 行く先々の住民に救いの手を差し伸べるのがアメリカの軍隊の特徴とされているが、沖縄では特にそれが発揮された。戦闘が続いていたあいだでさえも、兵士たちは住民に自分たちの食料を分け与えたり、医薬品を提供したり、一般住民の病気を治療したりした。
 戦争にはつきものの不正や野蛮な行為もなくはなかったが、こうしたものは親切や寛大さのかげに遠くかすんでしまった。

 琉球列島に正規の軍政府が設けられたのは、1945年9月21日になってからのことではあるが、その年の夏じゅう、アメリカ軍各部隊は、非公式ながら一般住民に必要な奉仕活動を行なっていた。軍が必要とした道路や発電所、水道などの公共施設は、多かれ少なかれ一時的な間に合わせという形で始められた。これこそ、現在琉球各地で利用されているすばらしい公共施設の土台となったのである。

 この当時、沖縄は軍事占領地であり、必然的に軍政府の支配を受けていた。この軍政府は1945年の8月に活動を始めたが、全面的に発足したのは9月であった。
 しかしながら、当時すでに地元政府の設立を望んでいた軍当局は、地元政府に関する勧告を得るため、15人の沖縄住民より成る沖縄諮詢委員会を設けた。この動きこそやがて沖縄の人々が自らの手で住民と土地を管理する権限を広げることになった道を開いたものなのである。

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左下:沖縄戦の最中、米軍々医たちは両軍の戦火で傷ついた住民の治療に全力を尽くした。大量の薬剤も放出された
右上:どこへ行ってもアメリカの兵士たちは子供たちには勝てない。沖縄戦が続いている戦線の後方で一兵士がジープに腰かけた子供たちに気持を通じさせようと努めている
右下:1945年春、沖縄戦の不幸な犠牲者の1人である老女に食料を分け与えるアメリカの一兵士。軍の担架に乗ったこの老女はアメリカ軍の手当も受けた


混乱からの秩序回復

 1945年の秋、戦争はすべての場所で終わりを告げ、世界じゅうの人々がーー勝者も敗者も一様にーーほっとする思いにつつまれた。
 その後数年間に歴史がどう変わって行くかはだれもわからなかった。太平洋地域では日本が敗れたが、日本国民を処罰しようとする意向は見られなかった。日本本土は暫時アメリカ軍に占領されることになったが、その時点ではそれがいつまで続くのかを言いきれる者はいなかったのである。

 沖縄ーーすなわち琉球列島ーーは日本の一部ではあったが、やや特殊な状況におかれた。地方行政は失なわれ、事態収拾のため何らかの措置がただちに必要であった。
 1945年9月21日、琉球列島米軍政府が設置された。米海軍が初代軍政府の統治権行使にあたることになり、ジョン・D・プライス海軍少将が軍政府長官に任命された。翌年7月、統治権は米陸軍に移譲された。

 以後、歴代の軍政府の下で、道路、発電所、水道などの公共事業が推し進められた。これらの事業は、そもそも在琉米軍のためのものであったが、のちに今日全島いたるところで役だっている公共施設の基礎となったのである。それに、最初から沖縄の人々に仕事を提供したことは、経済再興の種の植え付けともなった。

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左:1953年当時の国際通り
中:戦争直後の沖縄における電力源の一つは、瑞慶覧に停泊した米軍政府のジャコナ号から提供された
右:今日の那覇市繁華街


高等弁務官府と民政府

 1950年を前にして、世界の一部アジアに侵入してきた新しい政治勢力によって、この地方の平和と安全が脅かされていることが明らかになってきた。共産主義政権は、中共全土と朝鮮の北半分を支配したのである。その政治指導者たちは、アジアを支配する決意を公然と宣言し、1950年には南鮮が北鮮から侵略されるというように、脅威の一部は実際の行動となって現われた。南鮮が危険となり生き抜くために戦い日本もまた脅かされるに及んで、沖縄は戦略地域内で非常に重要な地点となった。

 過去、琉球列島が戦略的に重要視されていたときでも、住民自体がまず考慮されるとはかぎらなかったのである。しかし今回はそういうわけにはいかなかった。もし沖縄の住民を踏みつけ、不満足をしいるようなことがあれば、沖縄を効果的な戦略地点として維持することはほとんど不可能であることが、アメリカの為政者たちにはよくわかっていた。

 さらに、どのような所であれ、そこの住民を服従させるということは、アメリカの道義に反することなのである。
 1950年12月5日、琉球列島に軍政府に代わって民政府が設立された。それは琉球列島米国民政府(USCAR)と呼ばれた。1957年には民政府の上に高等弁務官がおかれた。民政府の目的はその使命の中に明らかにされている。すなわち、

 1.効果的、民主的な琉球政府の発展を助長する。
 2.自由企業制度の下に琉球の経済を育成する。
 3.琉球住民の保健と生活水準の改善を図る。

 アメリカ合衆国は、1951年9月8日サンフランシスコで日本との間に調印された平和条約によって、琉球列島を無期限に統治する権限を与えられた。しかしながら同時に合衆国は潜在主権と呼ばれた琉球列島に関する日本の基本的領有権を認めたのである。

 このことは、合衆国が他日国際情勢が許すようになれば領土を完全に日本に返還するという条件で、脅威が存在すると思われるかぎり日本を含む極東の戦略防衛のために琉球列島を使用するということを意味したものなのである。
 この方針に沿って、歴代の高等弁務官は、琉球列島に新生社会を育成し、住民自らの手で行政事項を管理してゆくように着々と移行させる仕事を進めていった。

琉球政府

 1951年4月1日、琉球臨時中央政府が設立され、沖縄の人々は自治への第一歩を大きく踏み出した。ちょうど1年後、臨時中央政府は行政、立法、司法の各部をそろえた琉球政府となった。この政府の行政府の長を行政主席と呼び、1962年には立法院の指名によって任命される規定ができ、1968年、行政主席はついに公選によって決められることになった。

 全部が沖縄出身の人々によって構成される琉球政府は、創立以来20年、終始その統轄範囲を拡大しつつ琉球の内政にあたった。
 琉球政府はその力と影響力を増大するにつれて、伸びゆく琉球社会建設への貢献度をますます加えるようになった。たとえば、琉球政府の予算にしても、1970年度は、歳入8400万ドル、資金運用部からの借入金1470万ドル、米国援助1890万ドル、日本の援助4590万ドルで合計1億6350万ドルという額に達している。

 沖縄の住民がおそらく史上最大の平和と成長と繁栄の時代を享受できるに至ったかげには大量の援助があったとはいえ、住民自身の勤勉さがこの成功に大きな役割を果たしているのである。順応性の強い沖縄の住民は事あるごとに新しい文化的要因に順応し、商取り引きあるいは生産方法の新しいあり方を身に付けることができた。

 その結果、天然資源の乏しい限られた土地にすばらしい産業社会を作りあげたのである。

 沖縄で行なわれたことが、沖縄住民の福祉と安全に寄与していることはもちろんのこと、大局的に見れば、このことは世界の安全にも寄与しているのである。というのは近代的政治理論では、経済と政治が安定していれば、動乱はきわめて容易に防ぎうるということが示されているからである。しかもまた、あらゆる地域が密接なつながりのある現在の世界では、きわめて小さな場所で起こったできごとでも他の大きな地域に影響を与えやすいものなのである。

琉球政府本庁舎
米国の援助で完成した琉球政府本庁舎ビル


●米国が沖縄におこなった貢献の全貌
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(1)総論
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(2)統治まで
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(3)経済・ インフラ
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(4)社会・医療
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(5)琉球八景図

沖縄土建王国の誕生

制作:2012年11月4日
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