米国が沖縄におこなった貢献の全貌
プロパガンダ雑誌『守礼の光』(5)琉球八景図
第4章「本土への復帰」扉
※注:第4章は本土復帰への流れを書いたものですが、ニクソン佐藤声明など歴史的事実と法律の引用ばかりなので割愛します。
以下は、第2章と第3章の間に挟まれている葛飾北斎の「琉球八景図」のページです。まぁ、箸休め的な位置づけですね。
左上:この「臨海湖声(りんかいこせい)」は那覇港を描いたものといわれている。堤道の先端にある丘は人々が出船に別れを告げたところ
左下:この「城嶽霊泉(じょうがくれいせん)」は最近、北斎研究家によって那覇港の奥武山であることが明らかになった。奥武山は当時那覇市内の小島、現在は沖縄のスポーツセンターとして知られる
右下:「長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)」 尚金福王(1398−1453)のころに造られたという堤道が描かれている。那覇港の風景
北斎の琉球八景図
日本の浮世絵の大家の描いた琉球の風景画は、この「守礼の光」特別号を飾るにふさわしいものと申せましょう。ここにご紹介するのは葛飾北斎が描いた唯一の琉球風景画として知られているものです。
1760年に生まれ1849年に没した北斎は、一生の間に数えきれないほど多くの絵を描いた強烈で多作な画家であり、ある意味では、現代になってから再発見された画家です。日本では北斎の風景画は本や掛け軸あるいはマッチ箱の絵で昔からおなじみですが、戦後はアメリカの日本との接触によって、浮世絵は西欧諸国の一般大衆にも知られるようになったのです。
当時は通俗的な町人芸術であった北斎の色刷り木版画は、現代に至って美術専門家の賛嘆の的となり、美術品収集家の珍重する作品となっています。
ここに掲載した「琉球八景図」は1833年ごろの作で、当時北斎は74歳でした。注目すべきことに、北斎は実際には一度も琉球を訪れたことがなく、琉球王から日本の徳川幕府へのみつぎ物の中にあった墨絵の沖縄風景を見て、画想を得たものと思われます。
北斎がみごとに描き出した沖縄特有の野性的な美しさは、今日の沖縄にもたやすく見いだせます。沖縄の人々は、島々の美しい風景が、復帰前にすでに確立している収益の多い観光産業の魅力の一つになるであろうと信じています。
上段左:「竜洞松濤(りゅうどうしょうとう)」 画中の湖は、現在那覇市首里の琉球大学のそばにある竜潭池と思われる。北斎は雪景色にしているが、琉球の事情に精通しなかったためであろう
上段中:「粂村竹籬(くめそんちくり)」 約500年前までは、今日の那覇市の東部を流れて那覇湾にそそいで国場川の下流の小さな島が那覇であった。久米村はこの島の一部で、中国からの帰化人の子孫が住んでいた
上段右:「旬崖夕照(じゅんがいせきしょう)」 画中の丘の上の神社は、那覇市にある現在の波之上神社の昔の姿と考えられる
下段左:「中島蕉園(なかしましょうえん)」 琉球の歴史家、東恩納寛惇(ひがしおんな かんじゅん)の書いた「南島風土記」によると、中島というのは、現在の那覇市内を流れている久茂地川の河口の干潟であった
下段右:「泉崎夜月(いずみざきやげつ)」 両面中央の橋は、久茂地川にかけられて、久米村と那覇湾に突き出た泉崎とを結んだ昔の泉崎橋と思われる
那覇市街(『守礼の光』1964年4月号より)
●米国が沖縄におこなった貢献の全貌
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(1)総論
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(2)統治まで
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(3)経済・インフラ
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(4)社会・医療
プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(5)琉球八景図
●沖縄土建王国の誕生
制作:2012年11月4日