東京ガスの誕生

明治10年の博覧会で出展されたガス灯
明治10年の博覧会で出展されたガス灯


 明治40年(1907)、上野公園で東京勧業博覧会が開催されました。このとき、3万5000個の電球を使って、史上最大のイルミネーションが行われました。
 イルミネーション自体は第5回内国勧業博覧会(明治36年、大阪)が最初とされていますが、東京では初の大イベント。当然大きな話題となり、観客が押し寄せました。
 
 夏目漱石の『虞美人草』には、その夜景が登場します。

《「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点(さ)す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善(よ)く出来ている。ねえ甲野さん」
(中略)
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。 あの左にある高い丸い屋根が三菱館。——あの恰好(かっこう)が好(い)い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠(かんむり)に紅玉(ルビー)を嵌(は)めたようだ事」と藤尾が云う。》


イルミネーション
これがそのイルミネーション写真(左から三菱館の一部、外国館、台湾館)


 不忍池ごしに夜景を楽しんだ糸子たちからは見えないのですが、台湾館と外国館の間に瓦斯(ガス)館がありました。瓦斯館は東京ガスが出展したため、もちろんガスの宣伝を目的としています。そのため、電気ではなく日本初のガスによるライトアップがされていました。満場の電飾のなか、ガスによるイルミネーションは異彩を放っていたと言われています。
 ガス会社と電気会社、永遠のライバル会社の「エネルギー戦争」は、実は100年前から始まっていたんですな。

瓦斯館のイルミネーション
瓦斯館のイルミネーション

 世界最初のガス事業は、1812年、ロンドンで始まりました。

 日本初のガス事業の記録は、慶応3年の新聞『万国新聞紙』に書かれています。「アメリカ人が横浜でガス灯をつけようとしている」との記事で、資本の4分の1を横浜が引き受け、2000の顧客があることが条件でした。しかし、横浜居留地の外国人が支持しなかったので、この事業計画は失敗しています。

 その後、ごくわずかプライベート・ガス灯が存在しましたが、ようやく明治5年(1872)、横浜でガス事業が始まりました。事業を開始したのは後に高島易断を創始した高島嘉右衛門。横浜を中心に活躍した実業家で、横浜港の埋め立てをしたことで有名です。
 高島はフランス人のアンリ・プレグラン(ペレゲレン)を雇い、イギリスで資材購入させ、工場を作りました。

 最初にガス灯が立ったのが新暦で10月31日だったため、この日がガスの記念日とされています。

横浜のイギリス波止場
横浜のイギリス波止場


 東京では遅れること2年、明治7年にガス事業が始まります。
 もともとの計画は、火事が頻発する吉原で、火事防止と安全のため、ガス灯を立てることからスタートしました。資材はすでに横浜と共同購入していたのですが、計画を推進した由利公正・東京府知事が更迭されたため、予定が遅れてしまったのです。

東京府のガス工場
東京府のガス工場(明治11年)


 東京で最初についたガス灯がついたのは明治7年で、銀座れんが街に85基が立てられました。
 明治8年、明治天皇が有栖川宮邸に行ったとき、ガスランプを灯したと言われており、おそらくこれが天皇が最初に見たガスの灯。

銀座レンガ街のガス灯
銀座レンガ街のガス灯

銀座煉瓦通りのガス灯 東京ガスの工場
左が銀座煉瓦通りのガス灯、右が東京ガスの工場(東京名所図会より)


 明治10年には東京で第1回内国勧業博覧会が開かれ、ガス灯が展示(冒頭の画像)。翌年には新富座、明治13年には陸軍省にガス灯がつき、明治16年には鹿鳴館にガス灯がつきました。鹿鳴館では「ロウソク1000本の明るさ」として大きな評判を呼びました。
 以後、街灯や皇族邸などにガスは広がっていきます。

新富座のガス灯 鹿鳴館の夜景
新富座のガス灯(左)と鹿鳴館の夜景

 
 ところが、ガス事業の将来性はけっして明るくありませんでした。それは明治13年に東京電灯の設立が計画されたからです。当時のガス灯は石炭を蒸し焼きにして作った裸火だったので、ロウソクの1.5倍程度の明るさ。とても電灯にはかないません。

 結局、東京府は明治18年(1885)にガス事業を民間に払い下げ、「勝手に頑張れ」ということになりました。これが東京ガスの誕生。
 中心となったのは渋沢栄一で、株主には浅野総一郎(浅野セメント、日本鋼管の設立者)、大倉喜八郎(帝国ホテル、大成建設の設立者)、安田善次郎(富士銀行、安田火災の設立者)らがいました。


 それにしても、実際のところ、ガス灯はどれくらいの明るさだったのか?
 正岡子規が『ホトトギス』明治32年10月号で次のように書いています。

《根岸の夜はずいぶん暗く、子規庵を出たところには街燈もないので、例会が済むと、妹がランプを携えて送ってくれた。最近ガス燈が1つ出来たけれど、それだけではまだまだ暗く、ステッキで“盲探り”しなければならない》

 一方、銀座では年の瀬はキラキラ輝いていました。『国民新聞』明治26年12月30日には、

《両側の商店、数万の燈火、瓦斯の花、電気の光、露天に輝く油煙、ランプ、高張提燈の一列一帯、ほほづき燈籠の文字つなぎ、冲天(ちゅうてん)の星宿もし心あらば、必ずや人間界の大変に驚かん》
 
 とあります。でも明るいのは電気で、ガスはおまけだったはずです。 


 明治30年代になると、ガスマントル(熱すると白光を発生する網状の筒カバー)が登場し、明るさは従来の5倍ほどになりました。

 しかし、この時点でガスは明かりとして先がないことがわかっていたので、東京ガスは他の用途を模索します。
 その1つが、ガス生成物の販売。明治35年、従来は川に流していた廃棄物を活用して外販を始めました。
(アンモニアから肥料、コールタールからナフサやクレオソートなどを製造しました。硫黄やアンモニアは化学メーカー、コークスは製鉄会社に販売)

東京株式取引所に取り付けるガス灯
東京株式取引所に取り付けるガス灯の組み立て(明治32年)


 工業用以外の活用は、家庭用の熱源として売り込むことでした。
 明治35年、日本初のガス炊飯器が登場。これに飛びついたのが大隈重信で、火事で全焼した家を建て直すとき、台所を含め家を完全ガス化しました。

大隈重信邸の台所
大隈重信邸の台所(明治36年、村井弦斎『食道楽』より)


 こうして徐々にガスが家庭に普及していくなかで、冒頭の東京勧業博覧会となります。東京ガスはイルミネーションをするとともに、館内で風月堂のワッフルの販売を行いました。

 明治40年(1907)7月2日、明治天皇が博覧会にやってきました。東京ガスは勝手にワッフルを献上するのですが、このとき天皇は大変喜んだと言われています。翌日には大正天皇、10日には昭憲皇太后(明治天皇の妻)、11日には貞明皇后(大正天皇の妻)がやってきてワッフルを味わいました。

 また、日露戦争では軍用のパンを風月堂がガスで製造したことも、当時は有名な話でした。

瓦斯館の内部
瓦斯館の内部


 日清戦争、日露戦争を契機として、ガス需要は増大。東京ガスも次々に規模を拡張していくと同時に、全国にガス会社が設立されていきました。

  明治38年、大阪
  明治39年、福岡
  明治40年、名古屋

 そして明治44年、東京で千代田ガスが営業を始めると、東京ガスとの熾烈な販売合戦が始まりました。東京ガスはガス料金を2割引にし、ガス器具を無料頒布。ついに掘っ立て小屋や納屋にまで陣取り合戦が始まります。問題は両社のガス管が道路に二重埋設されるようになり、いつも道路工事ばかりで大迷惑となったことです。

 結局、両社はわずか2カ月ほどで対等合併となり、以後、東京のガスは独占状態となりました。

 明治45年7月30日、明治天皇が崩御。大正元年(1912)9月、葬儀が行われます。
 このとき東京ガスは皇居にガスのかがり火を40基、青山葬儀場に91基、市内各所に216基設置し、あたりを明るく照らしだしました。皇居前広場は芝生の緑に光が映えて、荘厳な雰囲気だったと社史に記されています。

 明治天皇はガスも電気も嫌いで、皇居内では終生ロウソクで暮らしていたと言われます。しかし、その最期はガスで見送られたわけです。

 なお、このガスのかがり火は大正天皇が崩御したときにも奉献されました。

明治天皇の葬儀
明治天皇の葬儀の列。手前右や中央にたいまつが


 ガス事業は関東大震災(1923年)ではそれほど大きな被害は受けませんでした。これは想像以上にガス管が丈夫だったからで、ガス漏れによる爆発は起こりませんでした。

 むしろ大変だったのは第1次世界大戦(1914年)。戦争で日本経済は空前の活況を呈しますが、このとき東京ガスだけは空前の経営危機に陥りました。どうしてかというと、原料の石炭や鉄管の急激なコスト増、人件費の増大にもかかわらず、東京市の許可が下りずガス料金の値上げができなかったからです。好景気に支えられてガス需要が伸びるほど赤字が累積していきました。

 結局、この事態を受けて、大正14年(1925)にガス事業法が施行されたのでした。

 第2次世界大戦が始まると、政府はガス事業を8エリア(北海道、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)で統合するよう求めました。
 まず鶴見ガスと横浜市ガス局を合併。その後、関東一円のガス会社との統合を進めますが、その期限が昭和20年の8月15日。調整が難航しているうちに終戦となり、結局、立川、八王子、千葉、大宮、宇都宮、長野など15社と合併。
 これが現在の東京ガスの供給エリアとなりました。

東京湾のガスタンク
東京湾のガスタンク(1930年頃)。空襲に備え頑丈にできていた


 ガスの製造は、大きく分けて3回変更がありました。
 明治以降、1965年ごろまでは石炭の蒸し焼き。1970年ごろまでは石油の熱分解。そして現在では液化天然ガス(LNG)が主流となっています。

 天然ガス自体は無毒なので、酸欠やガス爆発で死ぬことは可能ですが、ガスそのものでは死ねません。
 しかし、かつてのガスには一酸化炭素が含まれていたので、自殺は十分可能でした。実際、芥川龍之介は自宅でガス自殺未遂を起こし、死の直前で発見されています。

 また、川端康成は逗子の仕事部屋でガス管をくわえて自殺しています。1972年4月16日のことで、死因が一酸化炭素中毒なのか酸欠なのか、どちらなのか微妙なところです。


制作:2010年2月8日

<おまけ>

 ウィキペディアには、東京ガスの機械部門が1910年(明治43年)に独立して東京瓦斯電気工業を作ったとありますが、これは社史にも記録されておらず、間違い。ガスマントルを製造し、後にガス器具メーカーとなった別会社です。第一次世界大戦後に経営破綻しますが、この会社の技術力は高く、日立航空機や日立精機、いすゞ自動車や日野自動車の源流となりました。
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