渡良瀬遊水地の誕生
幻の「首都圏第3空港」

渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地


 栃木県野木町に、重要文化財・ホフマン式輪窯が残されています。
 1890年(明治23年)に操業開始した煉瓦(レンガ)製造窯で、16基の窯による16角形を構成しています。周囲は約100メートル。最盛期には月20万個以上のレンガが製造されました。

 この地にレンガ工場ができた理由は、隣接する谷中村で、原料となる良質な粘土と川砂が採れたからです。周辺には思川と渡良瀬川が流れ、製品輸送にも便利でした。

ホフマン式輪窯
ホフマン式輪窯


 では、どうして谷中村で良質な粘土が取れたのか。答えは簡単で、川の氾濫によって、低地だった村はしばしば水没したからです。

 江戸時代後半、谷中村を襲った洪水は、1704年、1728年、1742年、1757年、1783年、1786年、1846年といくつも記録されています。

 土地は全国的に見てもかなり肥沃で、苗を植えれば、1回雑草を取るだけで、肥料ゼロで1反あたり7俵も9俵も取れたと記録されています。最高で12.5俵取れた水田もありました。しかし、一度洪水が起きれば、田んぼは全滅です。収穫が定まらないため、「不定地」として年貢は低く、助郷という労務も免除されることが多かったのです。

 明治になっても洪水は続きますが、特に大規模だったのが1890年(明治23年)です。このとき、地元の農民は、洪水が引けば、再び豊かな土地が戻ると考えていました。しかし、その考えはまもなく木っ端微塵に砕かれます。コメも作物も立ち枯れ、その年以降、大規模な不作となったのです。

足尾鉱毒の被害地
鉱毒の被害地


 原因は、上流にあった足尾銅山の鉱毒です。足尾銅山は1610年に発見され、江戸幕府直轄で操業していました。1876年(明治9年)に古河市兵衛が経営権を握り、その後、新たな鉱脈が見つかるなどして、生産が急拡大します。同時に煙害と鉱毒害が広がりますが、1890年の洪水で、広範囲にその影響が出たのです。さらに1896年夏には2度の洪水が起き、地元の反対運動が激化します。

1896年の栃木大水害
1896年の大水害(『風俗画報』)


 1901年、国会議員を辞職した直後の田中正造が地域の窮状を天皇に直訴します。直訴内容が書かれた「謹奏」は名文として知られます。

《魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ業に離れ、飢て食無く、病(やん)で薬なく、老幼は溝壑(こうがく=ドブ)に転じ、壮者は去って他国に流離せり。如此(かくのごとく)にして20年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦・満目惨憺の荒野となれり》

幸徳秋水が書いた「謹奏」
幸徳秋水が書いた「謹奏」


 しかし、事態は一向に変わりません。
 政府は、どうすれば鉱毒被害と水害被害を減らせるのか考え、結果として遊水地の造成を決定します。

 まず最初に、渡良瀬川と利根川に挟まれた利島村と川辺村を廃村にして遊水地にする計画を立てますが、これは地元の反対で頓挫。次にターゲットになったのが谷中村です。

 旧谷中村は渡良瀬川が利根川と合流する手前にありました。大雨が降ると、支流である渡良瀬川の水は利根川の流れに押し戻され(バックウオーター現象)、村が洪水になるのです。

 水害を防ぐには巨大な堤防が役に立ちますが、この堤防を強固にすればするほど、他の場所が水害の危機にひんします。同じようにバックウオーターに悩まされていたのが、三杉川(佐野市)が渡良瀬川に合流する地点です。利根川の支流は、多くの地点で同じような洪水に悩んでいたのです。

三杉川と渡良瀬川の合流地点
三杉川と渡良瀬川の合流地点
(国立公文書館「鉱毒調査会地質報告附神保委員報告書」明治36年)


 遊水地の建造が急がれるなか、谷中村は格好のターゲットとなりました。
 荒畑寒村の『谷中村滅亡史』には、土地買収でどれほどえげつないことが起きたか、詳細に記録されています。以下、その内容を要約しておきます。

《堤防の復旧工事では、人夫30〜40人に対し、役人も30〜40人いて、ただ無駄金を使っている。女性が土運びに出れば、男より高い工賃を払いながら、一向に仕事は与えない。現場テントに引き込んで酒宴の酌をさせ、ひどい場合は、屋形船を浮かべて酌をさせる。運んだ土1荷に対し、報酬切符1枚が通例だが、自分がかわいがっている女性には2枚3枚と渡す役人もいる。

 そして、修繕が進んだように見せかけながら、その実、堤防の要所をわざわざ破壊して回った。200メートルほどだった堤防の切れ口は、2年間で400メートルまで広がった》

 こうして1904年、谷中村は再び洪水の被害にあうのです。

足尾鉱毒地の女性や子供
鉱毒地の女性や子供


 1903年時点で2527人が農業や漁業で生計を立てていた谷中村は、1906年に強制廃村となります。

 それでも買収に応じない者もいましたが、政府は1907年、土地収用法を適用し、残っていた16戸の家屋を完全に破壊します。1910年には第2次用地買収を実施。田中正造が1913年に没すると反対運動はしぼみ、1917年、すべての人が予定地からいなくなりました。

足尾銅山汚染土の除去
汚染土の除去(栃木県)


 谷中村に住んでいた忠蔵という青年は、かなりの資産を持ち、徹底した反対運動を行っていました。

《役人は、忠蔵にまず賭博を教え、身を持ち崩させた。次に古河の遊郭に誘い、娼妓に言い含めて財産の大半を使わせた。ここで、娼妓は身請けを願い出たため、忠蔵は借金して身請けした。役人は督促を強め、忠蔵は全財産を売り払って東京に出ていった。
 実は、忠蔵は姉に財産の半分ほどを譲っていたのだが、役人はその姉に婿を紹介し、のちにこの婿を通じて買収に応じさせた》

 こうして谷中村は消滅します。

 なお、廃村となったのは谷中村だけではありません。1902年には、男体山の登山講で有名だった栃木県の松木村が煙害により消滅しています。現在も松木堆積場には、銅の精錬で出たカス(カラミ)が大量に残されています。足尾銅山による鉱毒被害は、渡良瀬川の下流域だけで起こったわけではないのです。

松木村にあった石灯籠
男体山と刻まれた松木村の石灯籠


 遊水地を作るには、周囲の総延長27kmのうち、12kmほどに堤防を築く必要がありました。政府は一帯を堤防で囲み、1922年、遊水池が完成します。堤防を築く上で、何カ所も川を横断する必要があり、同時に川の付け替え工事も行われました。

 このときの川の付け替えで、新名所が誕生しました。かつて渡良瀬川と谷田川が合流していた地点が、陸となって、ほぼ日本で唯一平地にある「三県境」ができたのです。

三県境
珍スポットで有名な「三県境」


 1947年、カスリーン台風によって関東一帯は大規模な洪水被害にあいます。そこで、渡良瀬遊水地に調整池を作ることになりました。第1調整池は1970年、第2調整池は1972年、第3調整池は1997年に完成しました。

 1987年、バブルの時代になると、余暇時間の増大や生活の多様化を背景に、リゾート法が施行されました。実際には地域の活性化も目的とされており、日本中でスポーツやレクリエーション施設の整備が始まりました。

 1988年、東武鉄道は建設省(当時)および埼玉、茨城、栃木、群馬の4県6市町とともに、渡良瀬遊水池に、レジャーランド「渡良瀬遊水池アクリメーションランド」を建設することを決めます。

 建設省の構想は以下のとおりです。

【第1期】
 渡良瀬川西岸の第1調整池を中心に「自然観察ゾーン」「史跡保全ゾーン」「子供の広場」「スポーツゾーン」を建造。フィールドアスレチックスや親水公園、ゴルフ場、野球場、テニスコートなどを設置予定。総工費は130億円。
【第2期】
 渡良瀬川東岸の第2調整池を中心に「水のゾーン」と「第2スポーツゾーン」を建設。
【第3期】
 当時建設中だった第3調整池に「土のゾーン」を計画。

 さらに、地元の市は独自の開発に乗り出します。

 1990年、渡良瀬遊水地の入り口にある古河市は、遊水地に「古河スポーツ旅行村」を作るプロジェクトを始めます。これは自治省(当時)のリーディング・プロジェクト推進事業で認められたもので、中心となるのはやはりゴルフ場です。近くには多目的ホール、研修室などが含まれたクラブハウス「ビジターズ・プラザ」もできました。

 さらに、河川敷には2面の野球場、5面のサッカー場、2面のソフトボール場ができ、もちろんレクリエーション施設も同時に建造されました。この時期、渡良瀬川沿いには、各地でレクリエーション施設が作られています。

アクリメーションランド計画
アクリメーションランド計画
(1990年、『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第9号)


 一方、広大な渡良瀬遊水地には、何度も空港計画が持ち上がりました。報道によれば、最初は1962年ごろで、米軍飛行場として利用する予定でしたが、平和利用の旗印の下、この計画は消滅します。

 1990年、成田・羽田がパンク状態であることから、運輸省(当時)は「第6次空港整備5カ年計画」の一環で「首都圏第3空港」の建造を打ち出します。この計画を受け、神奈川県は金沢沖に候補地を立て、福島県では福島空港の拡張による基幹空港化を目指します。

 もっとも乗り気だったのが当時の埼玉県知事で、関東知事会に提案し、渡良瀬遊水地の空港化を目指しました。遊水地の3分の1近い約1000ヘクタールに人工地盤を造り、飛行場にするのです。名称は北関東国際空港や渡良瀬空港などとされました。これに対して、古河市議会が全会一致で反対決議案を可決し、計画は消滅しました。

 1994年には、栃木商工会議所が「地域開発研究委員会」を発足させ、空港建設の勉強会を開きますが、古河市は「空港化問題調査特別委員会」を設置し、強く反対することになります。そして、空港がだめならヘリポートにしたい、あるいは巨大な住宅団地にしたいといった声が次々に出てくることになったのです。

 大規模開発が進むなかで、地元では自然環境保護のため、国営公園化する動きも生まれます。さらに時代が下ると、地域一帯をラムサール条約(水鳥と湿地保護の国際条約)の登録指定地とするよう、環境庁(当時)へ働きかけてもいます(2012年に登録)。広大な渡良瀬遊水地は、人々のさまざまな思いを受け、揺れ動いてきたのです。

渡良瀬遊水池
渡良瀬遊水地

 1990年、建設省は「渡良瀬遊水池アクリメーションランド」の開発と並行し、「渡良瀬遊水地総合開発事業」として、1.8億立方メートルの水をため込む調節池計画を発表します。洪水対策を強化するためで、1997年に完成したのが、ハート型の谷中湖(面積4.5平方キロ)です。

 当初は円形の予定でしたが、旧谷中村の墓を守りたいという地元の声を受けて、ハート型になりました。

谷中村の合同慰霊碑
谷中村の合同慰霊碑


 渡良瀬遊水地には渡良瀬川、思川、巴波川の3河川が流入しています。谷中湖は、増水時に水を流し込むことで、下流を洪水から守ります。これが治水。一方、渇水時には生活用水を供給し、首都圏の水がめとして機能します。これが利水。治水のコストは国の税金によるものですが、利水のコストは使用者、つまり下流の東京都などの水道代から負担されています。

 遊水池の広さは約3300ヘクタール。およそ東京の山手線の内側の面積に相当します。かつては鉄分の含まれた赤い水や、緑青を含んだ緑の土が見られましたが、1973年に足尾銅山が閉山してからは、過去の重金属は土砂に埋もれ、環境への影響はなくなっています。

足尾銅山
足尾銅山の坑内電車

 
 渡良瀬遊水地の総貯水量は1.7億立方メートル。2019年に関東を襲った台風19号では、過去最大の1.6億立方メートルを貯水しました。これは東京ドーム約130杯分に相当します。渡良瀬遊水池のおかげで、利根川や江戸川の氾濫が抑えられているのです。

 一方、ふだん、渡良瀬遊水地の広大な湿地にはヨシが生い茂り、希少な動植物の宝庫になっています。
 1987年12月、遊水地に1羽のコウノトリが飛来しました。遊水地は農薬が使用されていないため、コウノトリのエサとなるカエルやドジョウ、魚が生息し、営巣が可能なのです。現在もコウノトリの保護活動は、粘り強く続けられています。

コウノトリの人工巣塔
コウノトリの人工巣塔


制作:2019年12月9日


<おまけ>
 
 1906年、谷中村が強制廃村になると、県は旧谷中村など近隣の村民から希望者を募り、北海道への移住をあっせんします。移住先は、サロマ湖そばで、集落「佐呂間町栃木」をつくりました。三方を山に囲まれ、冬は零下30度近くになる極寒の地で、原生林を切り開いていきます。
 近隣の北見はハッカで有名で、移住者もハッカやジャガイモの栽培で生計を立てました。現在は酪農農家も多いようです。

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