超ハイカラ東京名所
靖国神社の誕生
靖国神社
首相の参拝問題で揺れてる靖国神社ですが、『靖国』という本によれば、実はここはかつて「超ハイカラな東京名所」でした。
そんな靖国の観光ツアーに出かけよう!
靖国神社(明治31年=1898年)
まずは「明治事物起原」より、靖国神社の起原から。
《明治元年五月十日、伏見戦争後、国事に斃れし志士の節操を表彰し、京都東山に祠宇を設けて、その霊魂を合わせ祀るべき布告をもって濫觴とす。その後、帝都を東京に移したれば、明治二年六月二十九日、番町九段坂上に、仮に招魂社を建て、戦死の者を祭る。翌年に至り、三町余り西方に移し、ことごとく境内となす。これいまの靖国神社の始めなり》
●明治4年05月 競馬開催、以後、明治31年まで靖国名物に!
●明治4年10月 フランス・スリエ曲馬団興行
●明治4年11月 高灯籠(常夜灯)完成、観光名所に
手前は牛ヶ渕、奥に高灯籠が見える
現存する高灯籠
●明治12年6月4日、東京招魂社を靖国神社と改称
《東京招魂社ノ儀、今般靖国神社ト改称、別格官幣社ニ被列候ニ付テハ、自今内務・陸軍・海軍三省ニ於テ管理可致》(太政官通達)
●明治15年2月 遊就館(英霊の遺品・武器陳列館)オープン
遊就館
●明治20年1月 イタリア・チャリネ曲馬団興行、以後、明治30〜40年代、サーカスは靖国神社の名物に!
チャリネ
●明治26年2月 靖国を作った大村益次郎の銅像落成式。当時最高の大イベントに!
《早朝より来観人は山なすばかりにて……銅像台礎の前には、仮舞台を造り、(宮司は)祭典の式を行い、祭詞を朗読す。神饌神酒を式場に進列するもの山のごとく、八雲琴、剣舞、近衛兵の銃槍……等の奉納ありて、見物人の雑踏は言語に絶えたるほどにて、警官もほとほと制するに苦しむようなりし》(東京日日新聞・明治26年2月7日)
靖国神社(明治26年=1893)
上の画像を写真で見るとこんな感じ
境内にある大村益次郎の銅像
●明治38年1月 夏目漱石、『ホトトギス』に『吾輩は猫である』連載開始。なかにはこんな文章が!
《「わたしねえ、本当はね、招魂社(=靖国神社)へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう》
ここには靖国の政治色はまったく感じられません。ところが……。大正3年、第一次大戦が始まるとだんだんヤバクなってくるんですね。
靖国神社への参道(明治31年)
●大正6年 田山花袋『東京の三十年』刊行。以下「九段の公園」(靖国神社のこと)より
《春秋二季の祭祀の時の見世物小屋の光景がまた私に親しいなつかしい感じを起させた……かなり大きくなってからは、夜一人で、見世物ではなしに、街頭にランプなどをつけて、いろいろな男が店をひろげているのを見て歩くのが楽みだった。
易者、アセチリンランプ、焼つぎ屋、そういういろいろな男が、巧に客を寄せているのを見ると、その口上が一種の芸術であるかのようにすら私には思えた。
くどき節をセンチメンタルな声で唄うものもあれば、剣舞をやって人をその周囲に集めている書生らしいのもあった》のが、《ああいう人たちは今どうしたろう? 何処にいるだろう?》と、続いているわけで、徐々に、大衆性が減ってきたことを意味してますね。
で、大正13年の靖国神社大祭の図がこれ。
靖国神社大祭
●大正15年2月 日本初の建国祭
こうして、いつのまにか、靖国神社は政治色を帯びていったんですねぇ。
更新:2017年4月2日
<おまけ>
靖国神社の燈籠には、戦争のレリーフがあります。その一部を公開しておきます。
熱河長城攻撃
黄海海戦
日本赤十字社救護の図