モンゴル帝国誕生異聞
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「源義経=ジンギスカン」説の誕生
モンゴルのラマ教寺院に残されたチンギス・ハーン像
明治11年(1878)、北海道の平取を旅したイサベラ・バードは、この地に義経神社があり、源義経が祀られていることを知ります。ここでは、アイヌに舟の作り方や農耕、弓術を教えたのが義経だとされているのです。
義経神社
イサベラ・バードがジグザグ道を上っていくと、漆を塗っていない白木の簡素な神社が崖のぎりぎりに建っていました。神社の奥の方に広い棚がついており、その棚には小さな厨子が置いてありました。中には、真鍮で象眼の鎧をつけた義経の像が入っています。そして、壁には平底の帆船を描いた日本画がかけてありました。
《副酋長が神社の扉を開けると、みんながうやうやしく頭を下げた。(中略)彼らは神の注意を惹くた めに、三度綱をひいて鈴を鳴らした。そして三度お辞儀をして、酒を六回神に捧げた。このような儀式をしなければ神のもとに近寄ることはできないのである》(『日本奥地紀行』)
現在の義経神社
東北から北海道にかけて、様々な義経伝説が残っています。たいていは義経は素晴らしいという伝説なんですが、なかには非道な話もあります。
幕末から明治にかけて蝦夷地を探検し、「北海道」の名称を考えついたのが松浦武四郎。松浦は、日本人から収奪されている
アイヌ
のインタビューを重ね、『近世蝦夷人物誌』を書き上げました。
そのなかに、沙流川流域の平賀(現・日高町)に住むハフラ酋長の証言が残されています。
沙流川(奥はアイヌの聖地を潰した
二風谷ダム
)
「その昔、源義経公がこの地に来て、平取村の酋長の娘と懇意になった。義経公はこの家に伝わる兵法の秘伝書を盗もうとしたが、酋長は、娘が義経公の子供を出産した後でさえ、宝の場所を教えなかった。
義経公は酋長をだますため盲目のふりをしていた。あるとき、わが子を囲炉裏に落としたまま助けられずにいると、酋長は本当に目が見えないのだろうと思い、秘伝書を渡した。
義経公は、雲を起こし雨を降らすなどの秘術を身につけ、小舟で逃げた。そして、ついに満州という国へ逃げたそうだ」
我が子を火の中に落とすなど、やや義経の人間性を疑うような話です。
しかし、『義経記』にも、「鬼一法眼」の娘を利用して兵書を盗んだという伝説が書かれており、火の中に我が子を落とすエピソードは、幸若舞の『入鹿』(大化の改新をテーマにした舞)にもあります。
こうした日本的な伝説が、アイヌの始祖である「オキクルミ」の伝説と融合したと、金田一京助らは述べています。
さて、秘術を得た義経は、満州に行ってどうなったのか。実はそこからチンギス・ハーンとして、モンゴル帝国の初代皇帝になったというのです。
いったい、どうして義経はジンギスカンになったのか。その過程を追っかけます!
中尊寺に残された義経の木像
まず、義経の最期はどのように記録されているのか。
歴史の教科書では、源平合戦で武功をたてた義経は、兄の頼朝に嫌われ、鎌倉から逃亡。奥州平泉の藤原秀衡に保護されますが、1189年、息子の泰衡に攻撃され、自害したとなっています。
しかし、首実検のため鎌倉に送られた義経の首は、5000kmを43日かけて到着したと歴史書『吾妻鏡』に書かれています。到着したのは、現在の真夏にあたる旧暦6月13日。おそらく、首は腐敗し、義経かどうか判断できなかったはずです。
ここで、「首は他人のもので、わざと腐らせたに違いない」という説が生まれました。実際には義経は北方に逃がれ、蝦夷から樺太経由でシベリアに入り、中国大陸まで渡ったとされたのです。
前述のとおり、東北から北海道には、義経や弁慶にまつわる伝説が100以上も残っています。たとえば宗谷岬には、「義経試し切りの岩」伝説があります。義経が、アイヌに
樺太
行きの船を頼みますが、誰にも相手にされなかったので、怒って近くの岩を切ったという話です。
ここから義経は樺太へ?(稚内の宗谷岬)
江戸時代、林羅山や新井白石が「義経の北方逃避行」説を支持し、徳川光圀は検証のため、蝦夷に探検隊を派遣しました。
幕末には、新井白石の説を翻訳で読んだシーボルトが、著書『日本』で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張します。
明治11年、北海道を調査旅行したシーボルトの次男が『蝦夷見聞記』に詳細を記録しています。
●韃靼の海岸に漂着し、1703年に帰国した日本人が、北京の朝廷で義経の肖像を見たというが、それはチンギス・ハンの肖像画だった
●中国の史書には、1189年、テムジンが「汗(ハン/カン)」に承認され、チンギス・ハンとして白い旗を掲げたとある。白い旗は源氏の象徴だ し、「カン」は日本語の「守(かみ)」からきたものだ
●テムジンと義経は同い年である
●モンゴル帝国の風習は和風のものが多く、また、日本風の長い弓矢が初めて使われはじめた
こうして、徐々に「義経はチンギス・ハーン」という説が広まっていきます。
明治12年(1879年)、末松謙澄が「義経=ジンギスカン説」を唱える論文をイギリスで発表。末松は逓信大臣や文部大臣を歴任した明治政府の高官であり、伊藤博文の女婿にあたります。初めて「源氏物語」を英訳するなど有名な文化人でもあり、明治18年に論文が『義経再興記』として出版されると、この説が日本でブームを起こします。
「義経=チンギス・ハーン説」を定説に変えたのが、大正13年(1924)に大ベストセラーとなった小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』です。
『成吉思汗ハ源義経也』
陸軍通訳だった小谷部は、旧満州や蒙古・シベリア方面まで徹底調査して回ります。
ある日、小谷部はモンゴルでラマ教の高僧に出会い、「『源義経汗』を発音してみよ」と頼みます。すると、高僧は日本風の「ゲン・ギ・ケイ・カン」ではなく、「チン・キ・セー・ハン」と発音したのです。まさに「チンギス・ハーン」と聞こえます。
「源義経汗」を発音すると「チンギス・ハーン」に聞こえる
それだけではありません。
小谷部が蒙古のラマ寺から手に入れた『成吉思汗伝』などに、チンギス・ハーンは「丁亥の年(1227年)7月」に66歳で死んだとありますが、これは日本の「安貞元年丁亥の年」と同じ干支なのです。実は、日本とモンゴルの干支は一緒で、これこそ、義経がモンゴルに日本の干支を導入した証拠だというのです。
小谷部とモンゴルのラマ僧たち
かつて「日本道」「東京府」と呼ばれたシベリアのウスリースクは、当時、雙城子という名前でした。この場所には「義経公園」があり、そこには亀の形をした義経の碑もありました。地元の人はこれを「日本の武将の碑」と思っていました。
義経の碑
小谷部は、探検家としてもっとも奇異に感じたことを、『成吉思汗ハ源義経也』にこう記しています。
《東部西比利亜(シベリア)、及び満洲等を旅行して、彼(かの)地に日本式の古き神社の在(あ)ること、及び笹竜胆(ささりんどう=源氏の家紋) の紋章を用い居ると、かつ満洲人に姓を源と名乗る者の多きを賭聞する》
この本には、ほかに
●ジンギスカンとなった「テムジン」は「ニロン」族の出身だが、これは「日本」族の「天神」のなまりである
●チンギス・ハーンは別名「クロー」と称したが、これは「九郎判官」である
●モンゴル帝国の「元」は「源」から来ている
●モンゴル文字に平仮名からヒントを得たとしか考えられない文字が存在する
●相撲、乗馬、緑茶、服など共通の文化が数多い
などなど、多くの傍証が記されています。
『成吉思汗ハ源義経也』は、大ベストセラーとなりました。それは「判官びいき」という庶民の心情の上で、日露戦争後の大陸への拡大政策と重なっていきます。そして、大陸への侵攻は正しいのだという「大東亜共栄圏」建設の夢につながっていくのです。
●
探検と交易のオホーツク海
●
鰊と昆布の経済史
制作:2016年11月13日
<おまけ>
「義経=ジンギスカン説」に対し、正統派の歴史家たちは猛然と反論します。
当時「国史講習会」が刊行していた『中央史壇』という雑誌は、大正14年2月、「成吉思汗は源義経にあらず」という臨時増刊を出版します。
ここには、金田一京助をはじめ、当代一の歴史家たちがこぞって小谷部に対する反論を寄せています。金田一京助は、「義経=ジンギスカン説」は多くの英雄不死身伝説と同じようなものだと断罪しています。
ちなみに、英雄不死身伝説には、以下のようなものがあります。
●平清盛の妻に抱かれて入水した「安徳天皇」が九州に逃げた
●源頼朝・義経の叔父にあたる「源為朝」が琉球へ逃げた
●北条氏打倒に失敗した「朝比奈義秀」が高麗へ逃げた
●大坂夏の陣で敗れて淀君と自刃した「豊臣秀頼」が九州に逃げた
●江戸幕府に対する反乱を起こした「大塩平八郎」が島原・天草に逃げた
●
西南戦争
で敗れた
「西郷隆盛」がロシアに逃げた
……
<おまけ2>
シーボルトの本に出てくる「1703年に帰国した日本人が北京でチンギス・ハーンの肖像画を見た」という話は、『蝦夷志』に出てくるエピソードです。原文では「チンギス・ハーン」ではなく、清朝を作った「ヌルハチ」となっています。実は、幕末から明治時代にかけては、「義経はモンゴル帝国を作った」ではなく、「義経は清朝を作った」という話が信じられていたのです。