焼け跡から夢見た未来
1947年から見た10年後
電波軌道を歩く人造少年ペリー
田河水泡の『のらくろ』や島田啓三の『冒険ダン吉』が連載されていた雑誌『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)は、その内容の面白さから、戦前の子どもたちを虜にしていました。
戦争が終わると、誌名を『少年クラブ』と変え、そのまま発行を継続。やはり子どもたちの愛読誌になりますが、このころ人気だった漫画小説が、横井福次郎の『ふしぎな国のプッチャー』でした。これは、戦後まもなくの代表的なSF漫画で、手塚治虫にも大きな影響を与えたとされます。
たとえば1947年(昭和22年)新年号では、主人公プッチャーのお父さんが作った10万馬力の原子力ロボット「ペリー」が登場します。まるで鉄腕アトムの原型のようなキャラクターです。なかなか面白いので、やや長めに引用してみます。
《人造少年ペリーは、バンバルン博士の発明した電波軌道に乗って火星を訪問しようというのである。彼は、ゆうゆうと空中を歩いていく。これを見た中央街の人たちは大さわぎだ。
航空機なら、子どもでも操縦できるベビー号から、北極・南極を往復する大型長距離用にいたるまで、あらゆる進歩した航空機が、スズメやカラスのようにいつも飛んでいるから、めずらしくはないが、人間が空中を歩くのは、地球はじまって以来のことで、アラビヤンナイトの魔術をまのあたり見るようだ。
街中の目という目がペリーをみつめている。
新聞社やテレビ通信の速報機が、ハエのようにペリーのまわりを飛びまわって、この破天荒なニュースを見のがすまいとしている。
「いったい、これはどうしたわけだい、君は何者だい」と、速報機から記者がペリーに問いかける。
「歩けといわれたから歩いてるだけだよ」
「誰が君を歩かせたんだね」
「中央街南アパートの365階だよ」
ペリーは空中を歩きながら、にこにこ笑う》
ペリーを取材するマスコミ
世界で初めて実用化したヘリコプターは、1930年代、ナチス・ドイツが開発したフォッケウルフFw61なので、この段階でヘリコプターはこの世に存在しましたが、それが「ハエのように」飛び回るというのは、なかなか斬新な未来予測です。まして、空を歩ける「電波軌道」や365階建てのビルなどは、当時の少年を興奮させたのは間違いないでしょう。
なにせ、この雑誌が発行された1947年1月は、日本が戦争で負け、国中が焦土になってから、まだ1年半しかたっていないのですから。
実は、この号は、もう一つ特筆すべき記事が掲載されています。新年号らしい「絵とき十年後の日本」という特集です。
この記事では、専門家のアドバイスをもとに、理想に満ちた「10年後」がイラストで掲載されています。その画像を公開しておきましょう(以下の文章は読みやすく改変しています)。
未来の学校
【僕らの学園】
《これからの学校は、学校も立派になるが、校舎の近くにできるいろいろな設備がすばらしい。
科学博物館が1区に1つくらいずつできて、学校でやれない研究をする。動植物の標本、本当に動く機械がそなえてあり、家畜も飼っていれば草花や野菜を作る農園もある。文化館では、芝居、映画、テレビジョン、踊りなどが自由にみられ、音楽もきけるし、図書室もある。
野球、テニス、籠球(バスケットボール)、そのほかなんでもできる広い運動場もある。自然に親しむために、かわるがわる山や海の学園へ行って、集団生活をしながら体をきたえ、勉強をする。
こうして、10年後の子どもたちは、毎日たのしく遊び、たのしく勉強をしながら、文化国家の国民にふさわしい、立派な人になる。》
海の学園、山の学園
この未来予測をしたのは、東京都視学官の福岡高です。視学官というのは、一般教師を指導する見識の高い教師のことで、現在もその仕組みは残っています。もともとは、1872年(明治5年)から始まった「督学」で、1942年に「教学官」と改名。そして、戦後の1946年、文部省は「視学官」に改称しました。戦後の焼け跡から、まずは教育もゼロから復興させるという気概があったはずです。
では、街の交通はどうでしょう。
未来の電車
【便利になる交通】
《ぴかぴか光るジュラルミン製の客車の安楽椅子に腰かけて、気持ちのよい旅行ができる。
中央停車場は都会の心臓だ。そのなかには、ホテル、料理店などがあり、バスやタクシーが市内の四方に走り、ここを中心に高架線から汽車や電車が、国内各地に向かって発車する。
電気機関車の引く列車は、朝、東京をたてば昼には大阪につく。待合室で待っていると、壁の電光ニュースが、列車の発着を知らせてくれる。
バスは2階バス、電車は無軌道電車、地下鉄と高架線……のりものの混雑は昔話になるだろう。》
無軌道電車に地下鉄も
この内容を指導したのは、運輸省停車場課長の立花次郎です。立花は、戦争で焼けた国鉄の駅を再建するため、民間から資金を集め、従来は禁止されていた駅のテナント利用を許容した「民衆駅」を
発案した人物だとされます。そのため、上の文章にも《ホテル、料理店などがあり》と書かれているのです。
未来の駅
交通の次は、街そのものです。
海上公園もある未来の街
【美しい街】
《今日は日曜、どこへ行こう。
川端の公園、高台の公園、動物公園、郊外の自然文化公園……いっそ海上公園で研究をしようか。
さあ、歩いて帰ろう。道は幅が50メートルから100
メートル、歩道だけでも10メートルはある。両側の電柱に代わって、大きな街路樹が茂り、美しい花壇もある。胸をはり、手をふって、一日中、陽のあたる明るいわが家へ。》
このアイデアを出したのは、東京都都市計画課長の石川栄耀です。石川は、戦争で丸焼けとなった東京の復興計画に携わりました。たとえば理想の都市計画として、
●1集団の人口は3万から10万が適当
●1集団の生活は、その集団内でまかなえるべき
●広場や公会堂など集団の全人口が集結できる場所も必要
●ある集団と別の集団の境は、緑地などできちんと区切られているべき
(『新地理』第1巻第1号、1947年)
などとしており、おのずと土地を広く使うことを想定していました。上の図は、それを具現化したものなのです。
最後に、都市ではなく地方の農村はどうか。
電化された農業
【あかるい農村】
《蓄電池車の電力で、耕作・水揚げ・脱穀・調製はみな機械でやる。田畑への往復、物の運搬は電気自動車だ。共同工場で、粉、うどん、縄、俵を電力でつくり、乳や肉や卵は、ここでバターやチーズ、缶詰、乾燥卵などにして都会へ送る。
養魚池には夜どおし電灯をつけて虫を集め、魚のえさにする。魚は太り、害虫は少なくなる。
暑がりの牛のために、扇風機をかけ、屋根には電力で水を流す。また、神経が細いから、時に軽音楽をきかせてやると、乳の出がぐっとよくなる。乳は電気搾乳器でしぼり、紫外線をあてて栄養価を高める。
豚が運動から小屋へ帰ると、自動的にスイッチがはいって体をきれいに洗ってやる。寒さに弱い赤ちゃんを電熱器であたためて丈夫に育てる。
電気でかえしたヒヨコは、電熱でぽかぽかあたためて、早くおとなにしてやる。おとなになると、夜も電灯をつけて運動時間を長くし、卵をたくさん産ませる。》
牛には音楽を聞かせる
これを指導したのは、農事電化協会常務理事の松本要です。農事電化協会というのは、発展が遅れている地方農村を電気の力で開発していくのを目的としています。
都会に電気が普及したのは大正時代ですが、1923年(大正12年)の関東大震災以降、田舎への電気普及も強く叫ばれるようになりました。
たとえば、1924年、逓信省電気局は『官報』(9月24日)で次のようなことを書いています。
「精白などの穀物調製には多大の労力がかかってきたから、農商務省では大正9年頃から石油発動機で人力の代わりにすることを推奨してきた。そのため、全国に1万6000台の発動機が配られたが、コストがかかることから電動機が望まれるようになった」
「収穫期や養蚕期に臨時の電灯が必要になるほか、苗代田の誘蛾灯にも電灯を使用するようになった」
こうして、地方の電化も進められるのです。
終戦直後の1947年から見た10年後の世界。それは、焼け跡から復興していく日本が強く夢見た未来だったのです。
バンバルン博士の発明した透明外套
制作:2022年7月16日
<おまけ>
戦後、日本では数多くの学校が焼け落ちました。今回掲載した『少年クラブ』では、芹沢光治良が「新しき学校」という小説を書いています。そこに書かれた、生徒が集まって焼けた校舎跡をきれいにしていく場面を紹介します。
《「ね、みんな、学校は毎日昼前で終るから、1時にここへ集って、焼けあとの整理をしない。そしたら、運動場で遊ぶこともできるし、天気のいい時には野外教場のように勉強もできるだろう。僕たちの第一国民学校は、焼けてもここだものね。うちで遊んでいる者はみんな手つだいにきてください。毎日1時から3時までね」
「僕はくるよ」 「僕も」「あたしも」と口々にさんせいした。その日の午後1時に、二十数人ぜんぶ集った。運動場に山のようにつんである焼けトタンを、みんな1枚1枚ひっぱって、学校の下の崖へおとした。二十数人が1日かかっても、その焼けトタンの山はくずれなかったが、みんな失望しなかった。崖の下に焼トタンがつまるのが少しづつ見えた。》
こうした小さな活動が、戦後日本の復興を支えたのでした。
復興しつつある学校(画:猪熊弦一郎)