関東「宮彫り」の旅
あるいは群馬・幻の「彫物師」集団の誕生

歓喜院聖天堂
国宝・妻沼聖天山・本殿


 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、それなりの知識がないと楽しめないとよくいわれます。
 たとえば、「吾輩」が「これまでネズミを捕ったことがない」と悪びれずに告白する場面。

《鼠はまだ取った事がないので、一時は御三(おさん=台所の下女)から放逐論(ほうちくろん)さえ呈出(ていしゅつ)された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家に起臥(きが)している。
 この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼(かつがん)に対して敬服の意を表するに躊躇(ちゅうちょ)しないつもりである。
 御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎(ひだりじんごろう)が出て来て、吾輩の肖像を楼門(ろうもん)の柱に刻み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描くようになったら、彼等鈍瞎漢(どんかつかん)は始めて自己の不明を恥ずるであろう》

 
 スタンランというのは、猫の絵ばかり描いたフランスの画家のこと。
 そして、左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる彫り物師で、日光東照宮の「眠り猫」の作者とされます。日本各地に「左甚五郎の作品」が存在していますが、実在したかどうかよくわかりません。

日光・眠り猫
日光・眠り猫


 都内で最も有名な左甚五郎の作品が、上野・東照宮の唐門に彫られた「昇り龍」と「降り龍」です。

上野・東照宮「昇り龍」「降り龍」
上野・東照宮「昇り龍」「降り龍」


 実はかつて、東京にはもうひとつ有名な作品がありました。それが、芝の「台徳院」霊廟(れいびょう)です。
 台徳院廟は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の墓所のことで、1632年、増上寺に造営されました。四方に八大竜王の彫刻があり、すべての組み物が極彩色で彩られた壮麗な建物でした。この本堂の須弥壇にある彫刻が、左甚五郎の作品と伝えられてきたのです。

左甚五郎の台徳院霊廟の彫刻
左甚五郎の台徳院霊廟の彫刻


 どうして過去形というと、1930年に国宝に指定されたこの壮大な建築は、1945年、東京大空襲で焼失したからです。
 この幻の台徳院廟こそが、1617年創建の日光東照宮のプロトタイプとなったのです。

 そんなわけで、今回は左甚五郎を入口に、関東地方の寺社彫刻の旅に出ます。
 神社・仏閣・宮殿などの欄間(らんま)や柱の彫刻を宮彫(みやぼり)といいますが、今回はそうした宮彫の数々をめぐります。

 増上寺には徳川将軍のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られており、台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝に指定されていました。
 しかし、そのほとんどが焼失し、文昭院霊廟の奥院中門(鋳抜門)などいくつかしか現存していません。

鋳抜門
鋳抜門


 なかでも、文昭院霊廟は、日光東照宮をモデルに1713年に完成したもので、元禄文化の精髄といわれてきました。墓所ということもあり、内部の写真はあまり残っていませんが、本サイトでは壮麗なカラー写真を入手しました。

文昭院霊廟、唐門の回廊
文昭院霊廟、唐門の回廊


文昭院霊廟、拝殿の内部
文昭院霊廟、拝殿の内部

 
 なお、この建物の造営奉行は秋元但馬守・藤原喬知、棟梁(とうりょう)は片山満国。
 獅子の絵画は狩野安信の作品で、欄間の彫刻は大村和泉守(中村和泉?)ら当時の工匠に競わせたものとされています(『東京府史蹟保存物調査報告書』、1934年による)。

 同じく空襲で焼失しましたが、上野寛永寺には、5代将軍・徳川綱吉の「常憲院」霊廟(1709年完成)がありました。
 こちらも棟梁は片山満国ですが、欄間彫刻などは公儀彫物師の高松又八(?〜1716)が担当しました。正式名称は高松又八郎邦教(くにのり)。江戸城の改修工事などでも活躍した幕府直属の彫刻師です。

常憲院霊廟の彫刻
常憲院霊廟の彫刻(『東京府史蹟保存物調査報告書』より)


 又八の彫刻の現物は長らく確認されていませんでしたが、2001年、千葉県いすみ市の行元寺で5点が確認されました。

行元寺・唐獅子と獏
「唐獅子」(緑)と「獏(ばく)」


 行元寺は849年、慈覚大師によって開山した古刹ですが、その後、戦火で焼失し、1586年に再興。1694年から1705年にかけて拡張工事がおこなわれた際、又八が関わったとみられています。
 又八の二男・高松又八郎直旨(?〜1769)は、2代目又八を襲名し、1713年、父の跡を継ぎ幕府彫物棟梁になります。そして、7代将軍・徳川家継の「有章院」霊廟(増上寺)や日光東照宮の修復工事で活躍します。

 さて、日光東照宮などの巨大建築は、造営も大変ですが、維持・修繕もかなりの手間暇がかかります。そこで、補修担当の大工集団が集まって住むことになりました。
 では、いったいどこに住んだのか。

銅街道
銅街道


 高松又八は、群馬県の花輪村(現みどり市)出身でした。その影響もあり、花輪近郊に彫物師の集団が住み着くようになりました。
 花輪村の記録には、1756年、百姓戸数232戸に加え、大工3、指物1、彫刻師3と記されています(『みどり市地域文化財総合整備計画』による)。

 当時、日光東照宮と足尾銅山、さらに利根川を利用して江戸まで向かう「銅山(あかがね)街道」があり、花輪はこの街道沿いにあったことで、職人は日光と江戸の両方の神社仏閣の新造・修繕ができたのです。

 花輪のそばの「黒川郷」には石原吟八郎を祖とするグループが、「上田沢村」には関口文次郎を祖とするグループができ、結果として、北関東を中心 に多くの作品が残りました。
 石原吟八郎の作品は利根川沿いの歓喜院聖天堂(熊谷市)、関口文治郎の作品は榛名神社拝殿や医光寺の欄間彫刻などで現存しています。

医光寺の彫刻
医光寺の彫刻

医光寺の彫刻
医光寺の彫刻


 歓喜院聖天堂は国宝ですが、この彫刻で学んだ彫物師たちが、今度は江戸で新たな流派を興します。
 たとえば、北側の鳳凰の彫物師は後藤茂右衛門正綱で、江戸彫りの後藤家に、南側の鳳凰の作者は小沢五右衛門常信で、やはり江戸彫りの小沢家の元祖となっています。

妻沼聖天山本殿の彫刻
妻沼聖天山本殿の彫刻

妻沼聖天山本殿の彫刻
小沢五右衛門常信の銘がある「鳳凰」(妻沼聖天山本殿)


 この小沢家からは、長野の諏訪大社や善光寺などの彫刻で有名な、立川流始祖・立川和四郎などが続いており、脈々とその伝統が受け継がれていくのです。

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2015年6月23日


<おまけ>
 いすみ市・行元寺の18代住職・亮運は、徳川家康に信頼され、後に徳川家光の師となったことで知られます。幕府の保護を受けたことで、寺には貴重な宝物が数多く残っています。
 この寺の欄間に「波に宝珠の図」と呼ばれる彫り物があり、これは「波の伊八」と呼ばれた彫刻師・武志伊八郎信由(1751〜1824)の傑作とされています。
 逆巻く波の迫力は、1806年、この地を訪れた葛飾北斎に大きな影響を与え、「富嶽三十六景」の代表作「神奈川沖浪裏」の元になったといわれています。
 なお、伊八の系譜はその後約200年続いたおかげで、房総南部にも多くの秀れた作品が残っているのです。

「波の伊八」波に宝珠の図
「波の伊八」波に宝珠の図(1枚だけ撮影許可をもらいました)

富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
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