「第一生命館」の誕生
GHQ本部になった壮麗ビル

第一生命館
落成時のイラスト


 1945年9月8日、横浜から東京に入ったアメリカのマッカーサー元帥は、帝国ホテルの昼食会に先立ち、周辺を視察。その際、いちばん目立っていたビルに目をとめ、そのまま内部を見学し、接収を決めます。これがGHQの本部となる「第一生命館」です。
 
 9月15日正午、ビルはGHQに引き渡され、その後、6年10カ月にわたって接収されました。マッカーサーは、6階の社長室に陣取って、占領の指揮を執ります。ビルには民政局が置かれ、ここで日本国憲法の原型である「GHQ草案」が作られることになりました。

第一生命館に入るマッカーサー
ビルに戻ったマッカーサー(解任の日)


 第一生命の本社は、1938年(昭和13年)京橋から日比谷に移転します。設計に際し、公開コンペがおこなわれ、優秀作が10案選ばれ、それらをもとに実際の設計がおこなわれました。主設計者は、建築家の渡辺仁です。

 現在、第一生命館は外壁だけ保存され、DNタワー21の高層棟となっています。マッカーサーの執務室となった社長室以外、ほぼ残っていません。
 
 この東京を代表するビルの建設について、創業者の矢野恒太が詳細な記録を残しています(国会図書館蔵『一言集』)。そこで、その文章を、当時の写真とともに、ほぼ全文公開しておきます(一部、原文を読みやすく改変)。

第一生命館
DNタワー21


【第一生命の社屋新築】

 社屋新築について諸方面から種々質問されるから、この紙面を借りて答案になるようなものを書きつらねてみる。けだし、一般読者にも多少の参考になると思うから。

【新築の動機】

 大正10年から住んできた京橋の第一相互館が、だんだん狭くなって長くいられぬことは、4〜5年来で明らかになった。市内外、諸所の地所も見た末、(関東大震災で焼失した)丸の内警視庁跡と決定した。

第一生命館
払い下げ時の敷地


 新築の設計にかかる頃には、会社の保険契約高が10億円内外であったから、せめて5倍50億円になるまでは改築せぬものを作らねばならぬ。そうすれば、少なくとも20〜30年、余が100歳になるまでは使えると思った。
 
 ところが、地形(基礎工事)が半分もできぬうちに16億円になった。まず5分の1の仕事をいれるつもりの新館へ、2分の1の仕事を持って入らねばならぬことになりそうだ。

 100歳までに余はもうー度、社屋を改築せねばならぬかもしれぬので、地面の許す限り広く、法令の許す限り高く、と設計させた。

【大体の計画】

 地上100尺7階、地下4階、延坪合計約1万3000坪と設計された。旧館の3倍半である。

 もちろん建物は、全部会社で用いる。唯一の例外として一隅を第一相互貯蓄銀行に貸すほかは、一切貸室を作らぬ。現在の社屋(=旧館)を設計する時分には事業がまだ1億円くらいしかなくて、各課室の大小配置連絡等が十分見当がつかなかったので、大部分、貸室本位で設計した。

第一生命館
第一相互貯蓄銀行


 今日ではその不便・不利を満喫したから、初めのうちは各室が充実しなくても、統一連絡がよいように作るつもりである。

 こんなわけで事務所いわば職場を造るのだから、宮殿やホテルのように豪華なものを造るつもりはない。ただ、場所柄が皇城(=皇居)に面して、皇都第一の美観地区であるから、あまりみっともないものも作れないので、装飾や彫刻はほとんど施さないが、鉄骨石造にすることにした。

第一生命館
玄関の石柱の一部


 周囲に円柱をめぐらすギリシャ風の案もできたが、円柱1本3万円。35本で100余万円。それで室内が狭くなるから廃案。ただお濠に面した西側だけは、夕日と騒音をさえぎるために、壁外に10本の方柱を立てることにした。これでできあがったら、あまり立派ではあるまいが、堅固と便利と衛生にはできる限り注意することにした。

【地下4階】

 生命保険契約には、10歳で加入して85歳で満期になるものもあるくらいで、契約当時の取扱者は一人もいなくなって、ただ当時からの書類や帳簿だけが残るのだ。故に、この書類の保存には最も苦心するのである。泥棒に盗まれるものではないが、地震、火事、爆弾投下などを考慮しておかねばならぬ。

第一生命館
地下4階の保険書類保管庫


 幸か不幸か、丸の内はいったいに地盤が悪いから、岩盤まで掘り下げて地中深く書類を保護したいと考えた。
 丸の内一帯は100数十年前まで入海の名残であったらしい。したがって、地表と昔の海底との間はごく近く、沖積した砂や泥の層が幾重にも重なって、そのなかに多分の水分を含んでいる。

 そこで、いままで市内で一般に行われた建築は、土中に松の丸太またはコンクリートの杭を打ち込み、その上に建物を載せ、杭と表土や泥砂の摩擦でこれを支えているのである。故に、建築後数年ならずして、家が沈下したり傾斜したり、あるいは反対に家の根が抜け出たりすることもある。

第一生命館
構造図


 あいにく会社の敷地は、海の最も深かった外濠線の一部で、地表から岩盤まで60〜70尺もある。地盤の最も悪いところの一部である。はじめ、敷地の一隅に井戸を試掘したとき、帝国大学地震学教室からの依頼で、この井戸を試験用に供した。その報告を見ると、井底すなわち岩盤の上と泥砂の層では、震幅が1と5くらいの相違がある。

 この成績を見るにつけても、いかに難工事でも、地下に沖積する生々しい泥砂を全部取り除いて、ただちに岩盤の上へ鉄骨を据えつけるよりほかに考えようはなくなった。

【地下基礎工事】

 敷地の西側は幅員20間ばかりの(路面)電車道を隔てて、満々たるお濠の水である。他の三方は、道路を隔てて他人の地所である。いまもし一時に敷地内の泥砂を取り捨て、深さ60〜70尺の穴を作ったら、お濠の水は道路を破って殺到するだろうし、隣地は潰崩して、その上の建造物は傾斜するかもしれぬ。これを防ぐことは容易でない。

 そこで、はじめはまず地界へ I 型鋼(アイビーム)と鉄板を打ち込み、だいたいの水を防いでおいて、地下に鉄柱の入るべき部位ごとに井戸を掘り、これに鉄柱を立てていちいち岩盤から固定し、最後に上から上からと柱間の泥砂を剥ぎ、順次に梁をつけて各柱をつなぎ合わせ、かくして組み立てた鉄骨を支柱として、隣地の倒壊を押さえんと考えた。

 試みに1本の井戸を掘ってみると、わずか1本の井戸で付近の道路の一部が1尺以上も陥没した。けだし道路の下も隣地の下も、みな泥砂の層であるから、近所に深い穴ができると、水が絞れて近所の泥が縮んでくるからである。

 これではいかん。しからば、深地下工事を断念して、世間なみに、豆腐のなかに小楊枝を立てたような杭打地形で、地下室2階くらいで満足するか。それも残念というので、ついに周囲(隣地境)だけはケーソン(潜函)工法を用いて、初志を貫くべしということになった。

第一生命館
潜函と竪坑の配置


【ケーソン工事】

 ケーソンは、主として水中の工事、たとえば大河の中央に橋台を作るごときに使われるもので、圧搾空気をもって水を排除している箱の中で水底の作業をするものである。

 今度用いている函も大小ひとつではないが、最も大きいのは長さ80尺、幅25尺、厚さ3尺、高さは10尺くらいから、沈むに従って67〜68尺くらいまでの鉄筋コンクリートで作った長方形の重箱を伏せたようなものである。このなかで職工が泥砂を掘るのだが、周囲から出る水を押し、かつ箱の自重落下を妨ぐために、天井から鉄管を通して、絶えず高気圧の空気を送っている。
 
 そのほか天井に煙突の太いようなものがあって、職工の出入り、泥砂の搬出をするようになっている。
 地下の掘り下げが相当にできると、ひとまず職工を出して、高圧空気を抜き、函を3〜4尺くらい沈下させる。沈下がすむと、また高圧空気で支えて下を掘らせる。

 函はだんだん沈んでも、なかは一滴の水も出て来ぬが、函の上は水が回る。故に、函の四壁は、はじめ10尺くらいだが、沈下の進むとともに、この四壁は上へ上へと継ぎ足されて、ついに函の高さは67〜68尺となる。

第一生命館
潜函の沈下作業


 敷地の周囲をこの潜函で囲んで、周囲からの浸水を防いでおいて、中央は前に述べたように柱の立つところごとに井戸を堀り、井底は岩盤の上にコンクリートの基礎を作り、その上に鉄柱を立て、上部から順次、各階の梁を取りつけつつケーソン内の土砂全部を取り除くのである。

 周囲の各潜函はコンクリートを充たされて、鉄柱の基礎となり、最後に函の天井以上では、その函の内壁と左右壁は取り除かれ、外壁のみは各階の床梁とつらなり、永久に残されて隣地の土留壁となるのである。

第一生命館
鉄骨工事

【ケーソン挿話】

 ケーソンの最大のものは自重2500トン、内部の水の重量は1800トン、合計4300トンである。

 函内の気圧は、浅いところでは1平方インチ7〜8ポンドだが、深く下ると20ポンド以上になるから、職工が突然外気のなかへ出ると、ケーソン病(=潜水病)にかかる。これがために犠牲者の出たこともあるが、我社の工事では、幸いに無事である。もっとも、これがために種々の設備が注意されている。

 かくして隣地から紋れる水を防ぐのは完全に成功したが、高圧空気が泥砂の間を通り、泥中の炭酸ガスなどをともなって、2〜3町も離れている建物の地下に吹き出したり、近所の井水を涸らしたりして困ったこともある。

 泥砂を運ぶトラックの車輪は十分に洗わせているが、それでも泥を道路に落として塵埃を作るので、近所へご迷惑をかけたこともある。新しいことをすると、なんでも思わぬところに困難が起きるものだ。(昭和10年10月)

第一生命館
外装への石積み


 1935年(昭和10年)4月に起工した第一生命館は、1937年4月19日に上棟式がおこなわれ、修祓式(竣工式)は1938年11月3日でした。
 そしてそれから7年後、GHQに接収され、返還されたのは1952年9月17日のことでした。

第一生命館
星条旗はためく第一生命館


第一生命館「幻のデザイン」
三井本館の秘密
生命保険会社の誕生
銀行の誕生
豊洲市場の誕生(ケーソン工法について)

制作:2020年5月9日

<おまけ>

 ビル各階の用途をあげておきます(『第一生命保険相互会社三十五年史』より)。

○地下4階 保険契約の原簿の保管庫、変圧室、汽罐室、冷凍機室、自家発電機室、中央監視室
○地下3階 金庫室、書庫、送風機室、気送管中継室、書類消毒室
○地下2階 物置、配管床
○地下1階 事務室、小金庫室、更衣室、小使室、宿直室、下足室、食堂
○第1階 玄関広間、営業室、客だまり、応接室、金庫室、第一相互貯蓄銀行、郵便局、車庫
○中2階 事務室、物置、電話交換室
○第2階 事務室、診査室、試験室、医局、薬局、眼科、歯科、耳鼻咽喉科
○第3〜5階 事務室
○第6階 重役室、会議室、集会室、休憩室
○第7階 食堂、配膳室、倶楽部(和室)、喫茶室
○屋上階 機械室

第一生命館
中央監視室

第一生命館
書類消毒装置

第一生命館
電話交換室
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