東海発電所の誕生
日本初の原発はこうして生まれた!
海から見た東海原子力発電所
1953年12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領がニューヨークの国連本部で大演説を行いました。
「平和のための原子力(Atoms for peace)」というテーマで、次のように語っています。
「歴史の何ページかには、確かに『偉大な破壊者』の顔が時おり記録されてはいる。ただし、歴史書全体を見れば、そこには人類の果てしない平和の希求と、人類が神から与えられた創造の能力が示されている」
平和に役立つ人類の創造物、それが原子力でした。
1942年、アメリカは「マンハッタン計画」の名で原爆開発をスタートさせます。同年、「原子力の父」と呼ばれるエンリコ・フェルミがシカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号(CP-1)」を完成させ、核分裂の連鎖反応の制御に初めて成功します。
1945年7月16日、アメリカは世界最初の核実験を行い、わずか3週間後、日本に2発の原爆を投下しました。
1955年2月の核実験
(ラスベガスの電飾より120キロ離れたユッカ平原からの閃光の方が明るい)
終戦後、アメリカの核開発は、軍事利用と平和利用の二本立てとなりました。
兵器でいうと、原子砲や世界初の原子力潜水艦ノーチラス号(SSN571)が有名です。
アメリカ陸軍の秘密兵器・原子砲
原潜ノーチラス号の進水式、右は指揮室
(1954年1月21日、東部コネチカット州グロートンで進水)
一方、平和利用の筆頭はもちろん原子力発電。すでにアルゴンヌ国立研究所(ANL)は、現在の原子炉の基本形である重水減速炉CP-3を開発していました。各国は競って原子力発電の実用化を目指すものの、どこの国も実現しないなか、アイゼンハワーの演説が行われたのです。
原子力旅客船と、米陸軍が開発した数カ月腐らない食物
世界初!ソ連の原発のコントロールセンター
結局、世界初の原子力発電所は1954年、ソ連のオブニンスクで運転を開始します。1956年に英国で、1958年にアメリカで運転開始。そして、日本初の原子力発電所は、1966年、茨城県東海村でスタートするのです。
そんなわけで今回は、東海原発を建築するまでの歴史を追いかけます!
現在の東海原発とウラン鉱石
アメリカは大統領演説以降、日本への原子力導入を急いでいました。当時は冷戦下であり、原発だけでなく、核ミサイルの配備も視野に入れていたのです。
ところが、ノーチラス号の進水から1カ月ほどたった3月1日、大事件が起こります。南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験の死の灰を、日本の漁船が浴びてしまったのです。いわゆる第五福竜丸事件。
日本は広島・長崎で世界最初の被爆国になったわけですが、第五福竜丸事件によって世界初の水爆による被曝国にもなってしまいました。
特に久保山愛吉無線長が「原水爆による犠牲者は、私で最後にしてほしい」との遺言を残して亡くなると、各地で猛烈な原水爆反対運動が巻き起こります。
治療中の久保山愛吉
困ったのはアメリカで、どうやったら日本の世論を静められるのか、そこで利用するのが読売新聞と日本テレビでした。
関東大震災の翌年の大正13年(1924年)、わずか5万部程度の部数しかなかった読売新聞の経営権を買い取ったのが元警察官僚の正力松太郎。
正力は昭和9年(1934年)に巨人軍を創立して新聞の売上げを大幅にアップさせるなど、大衆操作に長けていました。
戦後、A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収容されますが、政界の黒幕として見事復帰。
昭和27年(1952年)には日本初の民放である日本テレビを創立し、社長に就任します。
弱小だった1930年頃の読売新聞
実は正力は、巣鴨プリズンでGHQのスパイとなることを条件に無罪放免されていました。そこで、新聞やテレビを通じて、日本国民に親米思想を植え付けていったとされます。
米公文書を調査した有馬哲夫の『原発・正力・CIA』によれば、正力松太郎のコードネームは「ポダム」podamだったそうです。公文書には、たとえば
《まず新聞で始め、状況が許せばラジオやテレビに広げていくスキームは心理戦として高い可能性を持っている。ポダムの命令で動く多くの記者たちにこの種の指令が与えられるなら、これは重要なターゲット(政治家など)に対する諜報の可能性も与える》
などと記されています。要は読売新聞の5000人の記者は知らないうちにCIAに乗せられ、同時に、集めた情報はそのままCIAに送られていた可能性もあるわけです。
いずれにせよ、正力は新聞とテレビをフルに使い、原発は素晴らしいと大宣伝します。キーワードは、石油・石炭、電気に続く産業革命の源としての「第3の火」でした。
プロパガンダの例としては、たとえば1954年から、読売新聞では「ついに太陽をとらえた」という原子力の平和利用を訴える大型連載が始まっています。
1955年、正力は衆議院議員に初当選します。国会議員になった正力は保守合同を画策し、昭和30年(1955)、自由民主党を成立させます。
11月、東京・日比谷で「原子力平和利用博覧会」が開催され、35万人が入場しました。主催はもちろん読売新聞で、以後、全国で開催されていきます。
ちょうどこの頃、人形峠でウラン鉱床が発見されるなど、原発推進派には明るいニュースが増えていきました。
人形峠と、原子燃料公社の看板を掛ける正力
12月、日本初の原子力研究所の用地選定が始まります。「関東地方の国有地で約50万坪の広さ」が要件とされ、約20カ所が候補に挙げられました。そのなかには、原子力合同委員会のメンバーである中曽根康弘の地元・高崎や、志村茂治(社会党)の地元・横須賀の武山が含まれていました。
最終的に武山が第一候補になりましたが、ここで大逆転が始まります。
翌年1月1日、原子力基本法が施行され、原子力委員会が設置されると、初代委員長に正力が就任します。
5月に科学技術庁が設立され、やはり正力が初代長官になると、一転して茨城県の東海村に建設が決定しました。
重要なのは、この時点で正力は原発の危険性を把握していなかったことです。それが現在まで続く原子力行政の混乱につながるわけですが……。
開発前の東海村。右は冷却水のための水をたたえる阿漕ケ浦
なお、参考までに書いておくと、正力の目標は1000万ドルの借款をCIAから受けて、全国縦断マイクロ波通信網を構築することでした。これが完成すれば、
テレビ、
ラジオ、
ファクス、警察無線、列車通信まで支配できました。CIAとしても、アメリカの宣伝を自由に流すことが可能になるので、ある程度は後押ししています。同時に正力は原発やメディアを仕切って総理大臣になることが最終目標でした。
その意味では、別段CIAに操られて国を売ったわけではなく、CIAと利権を争い、正力は正力なりの国益を考えていました。その証拠に、第1号原発はアメリカ製ではなく、イギリス製でした。これはCIAとの交渉が暗礁に乗り上げ、正力が独断でイギリスと契約を結んだからです。
かくして、正力は「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」として、歴史に燦然と記録されるのです。まさに大いなる傑物なのですな。
そんなわけで、東海村の第1号原発の中身を公開します!
コンクリートで囲まれる前の原子炉と、燃料棒の設置作業
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福島第1原発の誕生
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原子力船「サバンナ号」の誕生
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原子力機関車の誕生
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放射性廃棄物はどこに行く?
制作:2011年3月27日
<おまけ1>
1959年5月12日、昭和天皇が東京・晴海で開催中の「第3回東京国際見本市」を天覧しました。この見本市の目玉は、アメリカが出展した実験用の原子炉。 出力はわずか0.1wと超小型だったんですが、実はこの原子炉を天皇が覗いたという記録が残っています。科学者らしい好奇心ですが……被曝していた可能性もありますね。この原子炉は、そのまま近畿大が購入して、現在も実験炉として活躍中です。
<おまけ2>
イギリスの原子力研究所が、原発稼働前に開発したプラスチック製の防護服を紹介しときます。
放射能は細かい塵芥につくので、それを除去すれば被曝はそうとう防げるとはいえ……これはいやだな(笑)。