五島慶太の手記「強盗慶太まかり通る」


 以下は、東急と渋谷の基礎を作った五島慶太が、75歳のとき、月刊『太陽』(筑摩書房、昭和32年10月創刊号)に寄せた手記の全文です。強引な買収で「強盗慶太」と呼ばれた男が、地下鉄と白木屋百貨店の買収秘話をすべて語っています。



●札束で襲う白昼強盗
 
 最近、世間では、私のことを“強盗慶太”と呼んでいるようだが、そもそも私がこういうアダ名を頂戴したのは、昭和13年から15年にかけて、東横百貨店と三越との合併をくわだて、さらに東京地下鉄問題で早川徳次を追いだしたときのことである。

 しかし私としては、事業上の自分の主義と信念とを、一貫してつらぬき通してきただけのことである。『強盗』などとは、さらさら思ってみたこともない。だから世間でなんと言おうと、私に意に介しないし、また、従来の主義と信念は、今後も変える意志はない。

 ある人は、五島は既成会社の株を買いあさっては、従来の経営者を追い出して自己の手中に掌握してしまう。貪欲(どんよく)あくなき所業である。あたかも札束をもって白昼強盗を働くようなものだ、という。
 しかし私は、ほかの会社の株を過半数買っても、理由なく経営者をやめさせたことはいまだかつてないのである。
 
 たとえば最近の白木屋の場合だ。あのままでは白木屋の再建ができないというから、みんなの同意を得てやったまでのことである。いまとなっては、白木屋の株主も旧重役も強盗などと感じてはいないだろう。理由のないことで、幹部の更迭を迫るなどということは、普通の常識さえあればできないことである。

 ただ、会社内部で思想の統一を欠くような経営者には、これはどうしてもやめてもらわなくてはならない。思想の統一−−すなわち人の和、ということは、事業経営の根本だからである。上は社長から、下は一従業員、一守衛にいたるまで、思想統一のできないような会社はかなちずツブれてしまう。いわんや重役間で事をかまえたり、暗闘を起すなどということは、前例をみるまでもなく、会社経営にとって致命傷である。

●異名の由来 地下鉄騒動

 さて、私が『強盗慶太』の異名を頂戴した東京地下鉄問題というのは、こうである。

 大正9年4月、折からの金融恐慌のまっさいちゅうに、東京地下鉄道株式会社が創立された。これは欧米で地下鉄道を研究して帰朝した早川徳次が、いろいろ苦心した結果、先代の根津嘉一郎氏を社長に、みずからが専務となってつくった会社で、大正14年9月に上野−浅草間の工事に着手し、昭和9年6月に浅草−新橋間の全線を開通、営業を開始したのである。

 これに刺戟されて、昭和9年3月に大倉組の門野重九郎氏と脇道誉氏とが、渋谷から赤坂見附、虎ノ門、新橋をへて東京駅にいたる区間、および新宿、四谷見附、半蔵門、日比谷をへて築地にいたる区間の地下鉄道敷設の免許権を東京市からゆずり受けて、東京高速鉄道株式会社の創立を計画した。

 ところが資金のめあてが全然つかない。そこで門野氏は、保険界の長老である第一生命の矢野恒太氏に相談したところ、「五島が建設費および営業収支の見込みをつくって、相当有望なものであるということならば、応分の助力をいたしましょう」という返事。矢野さんの力によって、東京高速鉄道はようやく創立され、したがって、私もこれに関係することになったのである。

 会社成立後、私は常務となり、さっそく渋谷−新橋間の工事施行の認可申請を鉄道省に提出した。すると早川は、「新橋−虎ノ門間は自分の東京地下鉄道が建設すべきである。東京高速鉄道は虎ノ門から左折して日比谷公園を対角線に横断し、東京駅にいたるべきである」と主張して、猛烈な阻止運動をおこしてきたのである。

 もともと、東京地下鉄道の免許線は、新橋のカドのつくだに屋玉木屋前から新橋駅前をとおって烏森ガードをくぐり、三田方面にいたる線である。その後、この免許線から分岐して、玉木屋前から虎ノ門にむかって新橋ガード下まで工事をするようになったが、これは省線の乗降口に接続する道路側線として許可されたのである。免許線の一部分ではなく、田村町または虎ノ門にいたる延長線の前提でもなかったのである。

 一方、東京高速鉄道側としては、渋谷−虎ノ門間の工事をして、これが新橋駅に連絡しないことになれば、頭のない竜にひとしく、巨費を投じて地下鉄を建設する価値が、まるっきりないことになる。そこで私は、当時鉄道次官となっていた喜安氏から前田監督局長に従来のイキサツを話してもらって、ひざづめ談判で強引に東京高速の渋谷−新橋間の工事施行認可をうけた。

 東京高速鉄道は、会社創立の当初から、東京地下鉄道と新橋においてレールを直結し、渋谷−浅草間の直通運転をしたいと思っていた。それは両社のためにもなることだし、また東京市民のためにもっとも便利であると信じていた。そこで我々は、レールの直結、車輌の直通運転の設計をたて、認可申請をしたのである。すなわち、いま帝都高速度交通営団が運転している、あのとおりの計画である。

●恨み重なる早川徳次

 ところが、早川はこの計画にも反対したのである。東京高速鉄道はそのホームを東京地下鉄道の新橋駅ホームとならべてつくれ、乗客全部をここで乗りかえさせよ、と主張したのである。レールの直結、車輌直通の工事設計にたいして、なんとしても同意書を出してくれなかった。こんにちから考えると、まったく非常識きわまる話である。

 そこで、私は、根津嘉一郎、小林一三両氏に依頼し、そのあっせん尽力によって、ようやくレールの直結、2分間隔の相互直通運転の承諾書をもらったのである。この協定書をもらうために約1カ年間、東京高速鉄道の重役、社員は、東京地下鉄道にお百度をふんだのだ。

 紛糾はこれにとどまらなかった。直立壁撤去の問題がでてきたのである。両者の接触する新橋に、東京地下鉄の直立壁がある。これを撤去する申請を出してくれなければ、レール直結の工事設計を監督官庁が認可しない。しかるに早川は、何十回催促しても、直立壁撤去の認可申請を提出しない。

 そして早川はこの申請をできるだけ引きのばしておいて、その間に京浜電鉄会長望月軍四郎氏と相談し、資本金1千万円をもって京浜地下鉄道株式会社を創立し、この京浜地下鉄道に新橋−品川間の地下鉄道延長線を譲渡し、この京浜地下鉄道をして、新橋−品川間の地下鉄を建設させて、浦賀−浅草間の直通運転をなすことの契約を、ひそかに締結したのである。
 同時に、東京地下鉄と京浜地下鉄、京浜電鉄、湘南電鉄の4社は、京浜地下鉄道開業を期して合併すべきことの契約をなしたのである。

 これを知ったとき、私は怒り心頭に発した。しかし、渋谷−田村町間はすでに完成に近づき、この建設に1500〜1600万円を投じている。すでに1日の猶予もできない。そこに東京地下鉄の根津社長が妥協案をだしてきた。私はそれに泣く泣く調印せざるをえなかった。

 その妥協案というのは、新橋−田村町間において、東京高速鉄道の工事設計を変更し東京地下鉄道と共用できるようにする、費用は東京地下鉄道がもち東京高速鉄道の新橋−虎ノ門間の工事と同時に建設する、そして浦賀からくる京浜地下鉄道の車を、東京高速鉄道の2分間隔のあいだに挿入運転するということであった。

 私は、この案を、技術上、列車保安上、不可能であるとは思ったが、当時の情勢上やむなく調印した。
 そこで早川ははじめて、直立壁の撤去申請を提出し、東京高速鉄道は、ようやく東京地下鉄との接触区間の工事施行の認可を得ることができたのである。

 こんな次第で、私は、早川とは将来協調して事業を経営することは到底できないと感じ、なんらかの方法で東京地下鉄の支配権を得ることが絶対必要であると痛感するにいたった。

●追ン出しついに成る

 昭和13年の正月、私は門野社長、脇専務とともに、帝国ホテルの社長室に大倉喜七郎男爵をおとずれて協議した。そして、東京地下鉄道株は、時価が比較的安いから、できるだけ市場で買いあつめること、京浜電鉄の株式は、前山久吉氏および望月軍四郎氏から買収して、京浜電鉄の支配権を得ること、京浜電鉄の支配権をえたのちは、京浜、湘南、京浜地下鉄および東京地下鉄の4社間に合併契約の存在することを利用して、まず京浜電鉄側から東京地下鉄との合併を主張し、4社の合併が成立したのちは、これに東京高速をもくわえて5社合併を完成し、場合によっては東京市電をもくわえて、東京市の交通統制を自治的に実行すること、などを相談したのである。

 私はさっそく前山久吉氏、望月軍四郎氏を強引にくどいて、株の買収により京浜電鉄の支配権を獲得した。つぎに私は穴水熊雄氏にあたった。穴水氏は早川の同郷の先輩で、早川がツエとも柱とも頼んでいた人だが、私は意に介さなかった。私はねばった。文字どおり穴水氏のもとに日参した。そしてついに、氏の持っていた東京地下鉄株35万株の買収に成功した。

 早川は完全に孤立無援となった。昭和15年8月の東京地下鉄道の臨時総会で、私ほ早川を追いだした。

 このときは、苦心サンタンして日本ではじめて地下鉄を作りあげた早川を容赦もなく叩きだして、粒々辛苦して作りあげたその事業を奪いとったというわけで、世間は早川に同情するし、私はずいぶんと叩かれたものだ。

●寝耳に水 白木屋事件

 この東京地下鉄問題で、私は『強盗慶太』の異名をたてまつられたのであるが、戦後において、ふたたびこの異名が世間の口にのぼりだしたのは、白木屋問題のときだったと思う。しかし白木屋の場合は、私の方から積極的に乗りだしていったわけではないのである。
 
 たしか昭和28年の9月か10月ごろと思うが、山一証券の副社長大神一君(現社長)が一度会いたいというから、築地の料亭で面会した。すると、山一証券が堀久作君の持っている白木屋の株式約80万株を1株につき425円で明日引き受けようと思う、ついてはこれを保証してくれないかという話。

 保証とはいかなる事かと問いかえしたところ、山一証券は株式の売買が目的であり、白木屋の株を長く持っていて経営に参加する意志はない、東急または東横百貨店がこれを単価435円で引き受けてくれないかと、つまりそういうことであった。

 さらに大神君はつけくわえて、白木屋の経営はだんだん下り坂になってきている、現在の経営者の手だけで将来再建することはよほど困難であると思う、ついては、将来は東横百貨店に合併するつもりで、東急または東横で引き受けてくれないかと云う。

 まったく突然のことで、私は寝耳に水の感じがした。
 今までかつて白木屋の株式を引き受けて、白木屋を東横に合併しようなどとは考えてみたこともなかったからである。
 しかし私は、いまから20年ほど前の昭和13年春ごろ、三越の株式を前山久吉氏から約10万株買い受けて、三越を東横に合併しようと計画したことがある。

 それはいろいろの事情からうまくいかなかったが、当時私があえてかくのごとき計画を立てたのは、つまりは東横百貨店を中央に進出させたい考えからであるが、また一方、百貨店の会議に出てみても、三越がいかにも王者のような態度をとっているので、いつの日にか、かならず三越を凌駕してやろうと考えていたからである。

 だからいま大神君の話をきいて、私はすくなからず、これに心を動かされた。しかし、このような重大な問題を、一人で聞いておってもすこし頼りないと思い、時の東急の専務で、東映の社長を兼ねていた大川博君をすぐに呼びよせて、もう一度大神君からその話をくりかえしてもらった。

 そして結局、三越事件以来の懸案でもあるから、東横の中央進出をなし上げようと、はっきり決意した。

 3人はそこで夕食を共にして、いよいよ立って別れるとき、たしか一足さきに大神君が外に出たと思ったが、次の部屋で立ったまま、私は大神君に、その80万株は当方で保証しよう、そのかわり将来東横百貨店と白木屋との合併には協力してくれ、とたのんだ。

 大神君はこころよくそれを承諾してくれた。この時から、私は、白木屋の株式が相当動いており、また大株主が当時の白木屋の経営者にたいしてあきたらず、なにか計画を立てているということをひそかに察知したのである。

●株式買い占め合戦記

 そこでいろいろ調べてみると、横井英樹君とか、堀久作君、古荘四郎彦君、林彦三郎君らが入りみだれて、白木屋の経営権争奪をやっていることが判明した。
 
 すると、翌29年の4月、野村証券専務の瀬川美能留君の紹介で、横井英樹君が私の家にやってきた。横井君のことはいろいろそれまでに聞いてはいたが、会ったのはこの時が始めてであった。始めて会う横井君はまったくの若僧で、人と話をしていても、常にニコニコして、まったく人当りの良い青年であった。

 この青年が白木屋の株式を170万株も買収して、白木屋の土台をゆすぶっているとは、およそ考えられなかった。その点私は白木屋よりもこの若僧に興味を持ち、ちょっと面白いなと思ったのである。

 山一証券から堀君の80万株を引き受けたところで、それだけではなんの役にも立たない。過半数を制するためには、横井君の持株170万株を買収して計250万株とするよりほかに道はないとかねがね考えていたところなので、その株式を売るかどうかと横井君にたずねたところ、その株式はぜんぶ千葉銀行をはじめとして各所に担保に入っており、自分の手には1株もないこと、また将来白木屋の重役か支配人にしてくれるならば売ってもよいという返事であった。

 そうして、この株式はぜんぶ、古荘千葉銀行頭取にまかせてあるということであった。そこで私は、横井君と株式売買に関する仮契約書を交換し、私が絶対過半数を獲得した場合には、横井君を取締役か支配人または営業部長にするということをみとめた。

 それから私は、堀久作君をとおして古荘君に交渉し、横井君の株式をこちらにゆずってくれるよう頼んだりした。ところが、そのうち横井君の株式はとうてい当方に来そうもなく、その担保にはいっている株式は時価より非常に高く、そのうえ、いろいろの人がまわりにいることがわかった。

 たとえば大宮伍三郎君、菅原通済君、鈴木一新君、小網商店の高梨君というような人がいて、この170万株は一括して当方にくる見込みはなくなってきた。

 そうこうするうち、その年の5、6月ごろ、山一証券にあった80万株が、誰の仲介でか、またはいかなる理由によったか一向にわからないが、三信ビル社長の林彦三郎君の手に譲渡されてしまったのである。

 大神君は私と大川君に依頼しておきながら、我々に一言のあいさつもなくこれを林君に譲渡した。私ほ心中安らかならざるものがあった。しかし、その反面、私はいささか肩の重荷がおりたような気もした。というのは、当時の時価250円くらいの株式を、425円で買うというような乱暴な話は、東急本社はもちろん、東横へ帰って話しても誰も受けつけない。
 ことに東横の大矢知社長、高橋専務のごときはまったく反対で、ぜんぜん話に乗ってくれなかったからである。

●積年の悲願 三越制覇

 かくして、白木屋問題は一頓挫をきたした形になったのであるが、ところがこんどは、横井君自身から私のほうに、田園調布、青山、池上、その他にある不動産をぜひ買ってくれという申し込みがあった。
 金を借りている銀行から、頭金や利息の取り立てに責められて苦しんでいるのだという。

 東急では不動産業もしているので、買収値段の折り合うものは買ってやっておった。その関係からしばしば東急に出入りするようになり、そのうちこんどは、白木屋の株式を肩がわりして買収してくれないかと云ってきた。しかし私は、横井君がいかに頼んできても、いっさいその話を受けつけなかった。

 すると横井君は、それ以後毎日、朝6時になると上野毛の私の家にやってきて玄関に立っている。旅行するときは、かならず東京駅にきて列車が出るまで見送る、帰京の際は、新橋にかならず迎えにくる。そして、なんとか白木屋の株を買収してくれと必死になって食いさがる。

 私はその熱心さには動かされたが、なかなか承知はしなかった。ところが30年の11月ごろと思うが、友人の高瀬通君がやってきて、白木屋問題の解決は貴殿よりほかにできる人がいないから、一応千葉銀行の古荘君に会ってくれないかという話であった。

 そこで私は一夜、古荘君と高瀬君を築地に招待して面会したところ、古荘君は、私が白木屋の経営を引き受け、横井君の将来もみるならば、株式を売りたいという話であった。

 一方、大神君の切なる願いもあったので、私は三菱銀行の元老加藤武男氏を三菱銀行の相談役室にたずねて、白木屋問題はなんといっても経済界の癌であり、かつ重大な社会問題である。これを解決しなければ、白木屋はもちろんのこと、債権者である銀行や株主も困っている。そこで私の力でこれをひとつ解決してみたいと思う。ついては、横井君の株式は買収することができるが、林君の株式はあなたのお力がないと、とても買い取ることはできない。あなたが御配慮くだされば、あるいはできるかと思うがどうでしょうかと相談した。
 
 すると加藤氏は、貴殿がこの間題を解決してくれるなら、私から林君に話してみよう。ついては横井君の株式をまず買収してくれたまえ、ということであった。私はそこで加藤氏の言葉に力を得て、ただちに横井君に会い、そこではじめて同君の株式を買収してやろうということを表明したのである。

 実際の売買交渉にあたっては、単価の問題で多少ごたごたしたが、結局、30年の10月から12月にかけ、350円と360円で、横井君および林君から白木屋の株式合計330万株を買収した。400万株中の3分の2をはるかに越える数字であり、ここに、私は完全に白木屋の経営権を掌握した。

 ここにおいて私は、白木屋の旧重役に自分の考え方をくわしく述べて引退してもらい、31年1月14日、臨時総会をひらき、東急、東横から新重役をいれ、再建に踏みだしたのである。以上述べたことが、世間に大きなうわさを呼んだ、いわゆる白木屋問題の真相である。
 この上は、東横・白木屋の合併によって三越を凌駕し、なんとかして永年の悲願を達成したいと思っている。

●余生を賭けた伊豆鉄道

 最後に、私としてここで触れておきたい問題は、伊東、下田間の鉄道敷設についてである。この鉄道の敷設を申請するにいたった動機は、5年前の私の70歳のお祝いに、東急関係者が集まって、伊東に「古稀庵」という別荘をくれた。それで始終伊東に出かけていったのであるが、そのときに考えついたことなのである。

 あの路線は大正11年だかに制定された鉄道敷設法によって、国鉄が建設すると決めてある。ところが昭和13年に第1期工事である熱海−伊東間が完成してから、それから先は、今日まで18年間もほったらかしにしてある。予算がないということで、国鉄ではなかなか施行しない。

 伊豆半島は富士箱根伊豆国立公園の一角として、国際的にも名高い観光地でありながら、その南半50キロというものは、伊豆線の開通以来18年もそのまま放置されているため、特にその発展が遅れているのである。そこで、伊東と下田とを鉄道でつなぎ、この地域に東京から僅々3時間前後で行けるようにしたら、対外的には外人客を誘致して、国家に莫大な利益を与えることになり、対内的には安価で快適なレクリエーションの場を提供できる。

 たとえ鉄道敷設法で決められている路線でも、国鉄でやらないときは私鉄に建設させることができるということになっているので、こんど東急で申請したわけである。地元では、鉄道が今日できるか、明日できるか、と首を長くして待っているのである。

 先日の公聴会でも、賀茂郡の婦人団体の60何歳かになるある代表が、鉄道ができるという話を耳にしたのは、自分の24〜25の娘時代だった。それから今の年になるまで30何年間、ついにこの目で線路の敷けるのを見ることはできないのかとあきらめていたところ、東急が鉄道建設を申請したときいた。
 たとえ自分の存命中にできなくても、せめて子供たちには、自分の土地に線路が敷けるところを見せてやりたい、それはわれわれ親子2代、3代の悲願なのだ、と涙ながらに訴えたということである。

 私が鉄道の経営にみずから当るようになってから約35年になるが、まだ一度も自分で出願して、自分で建設したという鉄道はない。他人のやりかけたものを引き受けたか、あるいは買収、合併したものかである。この伊東−下田線は、私の75年の生涯で、はじめて自分で出願し、自分で建設する鉄道なのである。

 それだけに、私としては非常な熱意と信念をもってこれを完成したいと思っている。私は2〜3年後には、開通第1号の記念電車の先頭に乗って、下田に乗りこむつもりである。そして下田かいわいのお爺さん、お姿さんたちの盛大な歓迎会にのぞむことを、いま最大の念願とし、楽しみとしているのである。


制作:2013年5月1日

 
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