長崎・池島炭鉱に行ってみた
戦後の「石炭政策」60年史

池島観光
石炭をベルトコンベアに載せるジブローダー


 長崎から国道202号線を北上していくと、角力灘(すもうなだ)という風光明媚な海岸に到着します。
 この海に浮かぶ松島は、江戸時代、捕鯨が盛んでしたが、大正以降は「炭鉱の島」として有名になりました。当時、多くの炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる半奴隷制が敷かれており、この島も軍艦島と並ぶ過酷な労働で名を馳せたのです。

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1931年の松島周辺


 松島炭鉱は、1917年(大正6年)に火災で41人、1929年(昭和4年)に水没で42人、1934年に水没で54人が死亡し、1938年に閉山となりました。
 その後、経営陣は近隣の大島炭鉱での操業に力を入れ、戦後になって、池島の開発に乗り出します。炭鉱というと、「きつい、汚い、危険」という典型的な3K職場だと思いがちですが、池島炭鉱は機械化が進み、従来のイメージを覆す「工場」のような職場でした。
 そんなわけで、今回は池島炭鉱を舞台に、日本のエネルギー政策の歴史を振り返ります。

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現在の池島。石炭カスはボタ山にせず、周囲の埋め立てなどに使用。
海が汚れてるのはそのせいです


 池島炭鉱は、1947年以降、石炭庁が直轄で試掘を行っていました。1949年、ようやく石炭層を見つけ、本格的な開発が始まりました。ちょうどこの年の秋、石炭配給制度が廃止され、炭価は上昇を始めます。1950年には朝鮮戦争が始まり、石炭の需要は大きく拡大するのです。

 当時の池島は、集落80戸、350人程度しか住民がいない半農半漁の島でした。住人は平家の落人とも言われています。経営陣は朝鮮戦争による物価高騰に悩みながらも、1959年10月1日、ようやく営業出炭に成功します。

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第1立坑ヤグラと火力発電所。この発電所を利用した日本初の海水淡水化装置もありました


 池島は離島だったため、医療や物資面での充実が図られました。すでに1959年には病院と従業員アパートが建造され、島内スーパーも値段が安く、福利厚生面で非常に恵まれていました。
 池島の石炭は質が良く、増産に次ぐ増産で盛り上がり、島には活気が満ちていたのです。

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労働者アパート。手前左が小・中学校。右上、海に突き出したのが第2立坑ヤグラ


 当時の活況の一端を示すものとして、1963年に制定された「池島音頭」を紹介しておきます。著作権が残存してるので、1番だけ掲載。

 ここは池島 石炭どころ
 沖ぢゃ鯨がヨー 汐を吹く
 五島の権十(ごんじゅ)どんが 赤兵児(あかべこ=褌)しめて
 相撲とりきた覗岩 ショイ
 掘れ掘れ ごっとり炭の山
 ホンナコテ 池島ヨカトコロ
 ショイショイ ショイショイ


 こんな歌を歌いながら採掘は進み、島が栄えるなか、1964年には4万4295円という業界最高のボーナスを出すことになりました。

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坑道入口に飾られた飾られた安全ポスターと神棚


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高速エレベーターで一気に地下650mまで下り、
そこから坑内電車で移動し、さらに歩いて切り羽(採掘現場)へ


 池島の採炭は好調でしたが、実は、1960年代は多くの炭鉱が構造不況に陥っていました。
 原因は2つ。1960年に始まった所得倍増計画による賃金、物価、輸送費の増大と、1962年に始まった原油の輸入自由化です。コスト増と重油の攻勢を前に、石炭産業は経営の合理化と機械化で対抗しますが、あまり効果は上がりませんでした。

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掘削用ロードヘッダーとコントロール室


 こうした状況下の1962年、元東大教授の有沢広巳を団長とする「石炭鉱業調査団」が現場を調査し、政府は第1次石炭答申を公表します。簡単に言えば、5500万トンの出炭は確保するが、1トンあたりの炭価を1200円引き下げることでした。さらに、石炭火力発電所を建造することで、長期的な石炭利用を目指したのです。

 さて、冒頭で登場した松島には、現在、長崎県の全世帯の電力需要をまかなえる松島火力発電所が建造されています。原料はもちろん石炭。ところが、この発電所は日本で初めて輸入炭をメインにして稼働しているのです。石炭発電所は、本来、国内炭を原料にするはずでしたが、発電所が稼働した1981年には、すでに国内炭の価格は、安価な輸入炭にまったくかなわなかったのです。

池島火力発電所
松島にある石炭火力発電所


 では、この頃の池島の様子はどうだったのか?
 大不況でボロボロだったかというと、実はまったく違いました。まるで桃源郷のような活況を呈していたのです。それは、1973年と1979年のオイルショックを受け、エネルギー源を多様化しようとする機運が高まるなか、石炭に注目が集まっていたからです。

 当時、『日本経済新聞』の記者が池島を訪れ、その活況ぶりを記事にしています。記者が島で見たのは、《最新型の乗用車、エンジン付きの自家用ボート、こざっぱりしたファッションの娘さんたち……》でした。

 信じられないことに、一周4キロ程度の池島で、マイカーブームが起きていました。住民は7000人にふくれあがり、島内に600台の車が走っていました。交通事故が多発し、道ばたの立て看板には「狭い島、そんな急いでどこへ行く」と書かれていました。

 当時、切り羽(採掘現場)で働く人は月収40万円以上がざらで、電気、保安担当者でも年齢に関係なく25〜30万円の高給を得ていました。それでいて社宅の家賃は3DKで1200円。幼稚園、小学校、中学校、役場、派出所、郵便局、消防署が揃い、海が荒れない限り、生活は島だけで完結しました。

《日当たりのいい社宅の一室でM夫人(32)は話す。御主人は長崎の大手造船所に13年間勤めていたが、昨年、池島炭鉱に就職した。
「新聞広告を見て主人が言いだしたんです。炭鉱って何かいやでしたけど、実際来てみると印象がまるで違います。そんな人、多いみたいですよ。主人のお給料も2倍以上になっちゃって」
 3DKの室内は、カーペットにきれいな壁紙。サイドボードには豪華な料理全集が並び、都市の団地と変わりない。
半年前に島に来たK夫人(32)も「前にいた佐世保では、共働きしないと食べていけなかったのです。ここでは私が働かずに済むし、それに子供たちが明るくなって」と満足そうな表情。》(『日本経済新聞』1981年10月13日付)


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鉱山内で使用していたダイナマイト。爆破は中心部から外周の順で行う


 上の記事から2年後、日経は「湿る九州の石炭業界」として、不況に悩む池島の記事を掲載しています。不景気の原因は、長引く鉄鋼不況と割安な輸入炭でした。

 石炭には「原料炭」と「一般炭」の2種類あって、原料炭は1kgあたり7000〜8000kcalの熱量を持ち、鉄鋼業界が大口取引先。一方、一般炭は5000〜6000kcalと品質が劣り、電力、セメント業界が顧客です。ところが、鉄鋼不況によって、トン当たり3600円も高い原料炭が販売不振に陥ったのです。

《池島炭鉱の場合、原料炭得率(出炭量に占める原料炭の割合)は1978年4月の52%から年々下降し、今年4月には同30%と、ピーク時の半分近い水準まで落ちてしまった。同社では「割安な輸入炭が致命的。需要家が海外の原料炭に走っている。原料炭を一般炭に回せば、出炭量は増えるが、価格的に妙味が少ない」と語る。》(『日経』1983年9月10日付、一部改変引用)

 結局、石炭業界は高品位の原料炭に、あえて低品位炭をブレンドし、安価な一般炭を大量に生産しました。それでも、この年の国内炭は、年産2000万トンの目標に達せず、1700万トン程度しか生産できませんでした。
 こうして、夕張炭坑など国内の多くの炭坑が閉山していきます。

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1972年から隣の蟇(ひき)島でも掘削が始まりました。立坑手前にはゴルフ場も


 池島の石炭は国内最良の品質を誇りましたが、需要減が激しく、第8次石炭政策(1987〜1991年度)では毎年120万トンの生産(従来の20万トン減)が義務づけられました。
 炭鉱のリストラと機械化が進行するなかで、1991年には、通産省が地域振興整備公団に委託し、池島炭鉱を中心に観光リゾートを作る計画まで持ち上がりました。しかし、島自体の活気はどんどん落ちていきます。

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坑内電車。右は坑内を最高時速50kmで疾走していた高速人車「女神号慈海」


 1995年、北海道の空知炭鉱の閉山が決まり、国内に残る炭鉱は太平洋炭鉱(北海道釧路)、三井三池炭鉱(福岡県)、そして池島炭鉱の3つだけとなりました。
 この年の国内炭生産は650万トン程度に落ち込みました。戦後のピークは1961年度の5541万トンだったので、すでに最盛期の12%程度まで落ち込んでいました。この時点で輸入炭は毎年1億トンを超しており、全石炭需要の94%を占めています。

 1997年に三池炭鉱が閉山し、残る炭鉱は2つ。
 ここで、石炭にさらなる逆風が吹きました。石油が大暴落したのです。1998年、レギュラーガソリンがリッター92円と過去最低を記録し、ガソリンがミネラルウォーターより安い時代が到来します。世界的に見れば電力の自由化が進んでおり、「環境」の重要性も声高に叫ばれるようになっていました。もはや石炭産業は風前の灯火でした。

池島廃坑
現在の廃坑内部


 1999年、国内産の石炭の値段はトン当たり1万5740円でした。輸入炭は5410円と3分の1です。電力会社は強制的に国内炭を買わされており、年間330億円ものコストが余分にかかっていました。実はこれでもまだ安く、国内炭引き受けによって、電力業界は1992年度に675億円、93年度に714億円、94年度に701億円……と、巨額の負担を強いられてきたのです。
 当然ですが、このコストは高い電気代に結びつきます。
 
 当時、国内では1992年度から10年間の「新石炭政策」が行われており、2001年度で終了することが決まっていました。経産省は終了後も炭鉱を維持させるつもりでしたが、電力会社は2000年から電力の小売りが一部自由化されることを受け、高価な国内炭の引き受けに抵抗します。

 こうして炭鉱保護政策は継続されることなく終了し、池島炭鉱は2001年11月29日に閉山しました。現在、島には300人ほどが暮らしています。炭坑を利用した観光事業もあるので、ぜひ行ってみてね。
 なお、最後まで残った太平洋炭鉱ですが、2002年1月30日に閉山し、その後、釧路コールマインと改称して石炭採掘を続けています。国内の炭鉱の灯は、意外にもまだ消えていなかったのです。


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坑道からアパートに戻ると「ご苦労さん」の看板が。そのアパートも完全な廃墟に


制作:2012年4月29日


<おまけ>
 日本の石炭産業を守ろうとした有沢広巳は、日本経済史の中でも特筆すべき人物です。
 戦時中は陸軍の「秋丸機関」に所属し、日・英・米・独・ソの各国の経済力比較を行い、「日米開戦しても日本に勝ち目はない」と報告しています。「秋丸機関」は昭和14年(1939)に陸軍内部に作られた秘密組織で、首班は秋丸次朗中佐。昭和16年7月ごろに基礎調査ができあがり、「英米と戦う場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能。しかし、それ以後は日本の経済戦力は耐えられない」と予測しました。
 しかし、この報告書は黙殺され、日本は開戦を迎えます。

 戦後は、吉田茂の私的ブレーンとして「傾斜生産方式」(石炭や鉄鋼など主要産業の優先復興)を立案し、経済復興の立役者となりました。
 東大教授を退任後、石炭産業の保護を進めると同時に、原子力発電の普及にも努めました。後には「原発は安全だから、過重な安全対策は不要」と主張しましたが、当初は、原発事故による損害賠償の法制化に熱心でした。

《関東大震災のような大大事故が起こって、その(原発による)損害が非常な巨額に上った場合、この場合には、保険が300億円とかいうふうになっておりましても、むろん、とてもそれで片づくとも考えられない。やはり国家としてその損害に対するめんどうを見ていかなくちゃならぬ。》(1961年4月19日、衆議院科学技術振興対策特別委員会での発言)

 しかし、結局、原発事故の国家賠償問題は曖昧に終わってしまったのでした。
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