「現存12天守」完全制覇
日本最古の天守閣はどこなのか
彦根城(国宝)
戦国時代末期の日本には、およそ2万の城があったと言われます。もちろん、山の中の砦のようなものも含めれば、その数は何倍にもなったはずです。
こうした城には、もともと天守閣はありませんでした。櫓のような眺望台はあっても、あくまで実用上の目的から作られたに過ぎません。
権力の象徴という、明確な意図を持って作られた最初の天守閣は、織田信長が1576年に築いた安土城です。信長は天守ではなく「天主」と称しました。イエズス会の宣教師・ルイス・フロイスは、
《(天主は)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている》(『日本史』)
などと記録していますが、安土城は謎に包まれ、正確な復元は困難です。その後、豊臣秀吉らにより築城ラッシュが始まり、天守のある城郭が数多く作られました。
安土城イメージ(スモールワールズ)
徳川家康は江戸幕府を開くと、1615年、「一国一城令」を発し、諸大名に対して、居城以外のすべての城の破壊を命じました。これにより、城の数は170ほどに整理され、60ほどの天守が残されました。
明治になり、1873年に「廃城令」が出されます。多くの城は壊され、陸軍の司令部や官公庁用地として転用されることになりました。
たとえば、秀吉時代の大坂城天守の様式を継承したとされる松江城は、1875年に廃城となり、櫓や門、御殿などは壊されて売り払われました。天守にも当時で180円の値段がついて売却されますが、地元の豪農・勝部本右衛門父子と旧藩士・高城権八らの尽力で買い戻され、いまに残されました。
松江城(国宝)
昭和に入った段階で、20ほどの天守が残っていましたが、太平洋戦争の空襲で、水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の7城が焼失しました。戦後まで残存したのは13城でしたが、1949年、北海道の松前城が失火により焼失。こうして、江戸時代までに建てられた天守で、現存するのは12城だけとなりました。この12城を「現存天守12城」と呼んでいます。
では、現存天守12城のなかで、もっとも古い天守閣はどこなのか。
以前は、「築城された1576年に天守も建てられた」という説をもとに、福井県坂井市の丸岡城が最古だとされていました。丸岡城は、寒さ対策のため、凍っても割れない笏谷石が屋根瓦に使われている珍しい城ですが、2015年から学術調査がおこなわれ、年輪/放射性炭素/酸素同位体比の3つの年代調査の結果、寛永年間(1624年~1644年)に建てられたと判明しました。
丸岡城
丸岡城ではないとすると、最古の天守閣はどこになるのか。
彦根城は1606年、姫路城は1609年、松江城は1611年と正確な年が判明しています。どうしてわかったかと言うと、建築木材に年代を示す墨書や文書が見つかったからです。しかし、城の多くが戦国時代に建造されたこともあり、ほとんど正確な記録が残っていません。つまり、天守の年代を確定するのは意外に難しいのです。
候補となるのは、松本城と犬山城です。
松本城の天守は、1990年の「築造年代懇談会」で古文書を検証した結果、「木を多く伐採した」などの記述から「1593年〜1594年に完成した」というのが公式見解になっています。しかし、科学的調査はおこなわれておらず、文化庁のデータベースでは1615年ごろとなっています。そもそも松本城は「渡櫓」や「乾小天守」など5棟の建物が連なっており、特定の建物の建造時期は断定するのが難しいのです。
なお、松本城の見どころは格子を縦横に組んだ「木連(きづれ)格子」と呼ばれる珍しい飾りで、これが優雅な外見につながっています。もちろん、矢や鉄砲を撃つための狭間(さま)が115も設置され、戦闘にも十分な対応がなされています。
松本城(国宝)
犬山城の天守は、現存する日本最古の様式とされています。使われた主要木材の年輪を調査したところ、1585年~1588年に伐採された木が使われていることが判明。そこから、遅くとも1590年ごろの完成と推測されています。文化庁は1601年の完成としていますが、一方で1537年という、かなり早い段階で建てられたとの説もあります。
いずれにせよ、現段階で、日本最古の天守閣は、松本城か犬山城か確定できないといったところです。
木曽川のほとりにそびえる犬山城(国宝)
「現存天守」12城のうち、国宝は上記、松江城・松本城・犬山城、そして姫路城・彦根城の5つです。
姫路城は、真っ白の美しい外観から「白鷺城」とも呼ばれ、法隆寺とともに日本で初めて世界遺産にも登録されました。城の全域が江戸時代に近い姿で残っており、櫓・渡櫓27棟、門15棟、土塀31棟・築地塀1棟の計74棟が国指定の重要文化財でもあります。
城の入口となる「菱の門」をくぐったあと、「いの門」「ろの門」「はの門」「水の一門」と多くの門を通る必要があり、なかなか天守にたどりつけません。変わった門も多いので、ゆっくり見物するのもおすすめです。優美な城ですが、地階には流し台と6個の雪隠(トイレ)があり、また厳重な二重扉など籠城に向いた「戦う城」でもあります。
姫路城(国宝、平成の大修理前)
彦根城も、石垣と土塁で複雑に作られた、攻めづらい城として知られます。特に立体交差する登城道は日本唯一の構造です。裏手からの敵の侵入を阻止するため、大堀切が設けられ、ここにかかる木橋を落とすと、それ以上は進軍できません。
移築した建物も多く、太鼓門は佐和山城から、天秤櫓は長浜城から持ってきたとされます。また、天守には、入母屋破風、切妻破風などさまざまな様式が使われ、「華頭窓」と呼ばれる釣り鐘形の装飾も美しさに華を添えています。
彦根城の大堀切
「現存天守」の残りを見てみると、四国には4城があります。それぞれ簡単に特徴を見てみましょう。
高知城は、天守・本丸御殿・櫓・門などの建物群が、唯一、完全に残っている城です。
天守の形は、「望楼(ぼうろう)型」と「層塔(そうとう)型」の2つに区分されます。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、下層の建物の上に望楼がのっかる複雑な「望楼型」で作られました。その後、藤堂高虎が今治城で初めて採用したのが、同じ構造の建物を少しずつ小さくしながら上に積み上げていく「層塔型」です。これは五重塔と同じようなシンプルな構造で、安く建造できるため、江戸時代中期以降はこちらが主流となりました。
望楼型は、松本城・姫路城・犬山城・彦根城などです。一方、層塔型は、弘前城・伊予松山城・宇和島城などです。高知城は、1749年の再建時、主流だった層塔型ではなく、旧来の望楼型で建てられています。
高知城の追手門と天守
松山城は、大天守と小天守、隅櫓を渡櫓で結んだ連立式天守です。山腹から侵入しようとする敵を阻止するため、ふもとと山頂を石垣で連結させた「登り石垣」で城郭を囲み、道を左右に曲げることで敵の侵入を阻んでいます。「登り石垣」は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、倭城築城で採られた防備技術とされ、松山城と彦根城だけで確認されています。
松山城
丸亀城は、高松城の支城で、天守は建てられませんでした。そこで、3階櫓を事実上の天守としています。江戸時代には、幕府への遠慮もあり、天守と呼ばず「御三階櫓」と呼んでいました。現存12天守のなかでは、弘前城も同様に3階櫓です。また丸亀城は、60メートルを越える高石垣を持ち、日本一美しい「石垣の城」ともいわれています。
丸亀城
丸亀城の高石垣
宇和島城は、徳島城、高松城、今治城と並び、「水城」として知られます。もともとは五角形の水堀で囲まれ、そのうち2辺は海に接していました。当然、眺めもよく、城からキラキラした宇和海が眺められます。
宇和島城
宇和島城からの眺め
残りは2つ。
弘前城は、最北に位置する現存天守となります。天守の屋根は銅瓦葺きで、破風も銅板張り。これは、寒さで瓦が割れるのを防ぐため考え出されました。外壁に窓がないのも防寒のためだとされています(壁の縦長の穴は矢を射るための「矢狭間」で、窓ではない)。石垣が外側に膨らむ「はらみ」が見つかり、天守にも傾きが出たことで、2012年に修理が決定。2015年、天守全体を「揚屋」(ジャッキアップ)し、「曳き家」により仮天守台へ移動させています。
弘前城
最後に、「現存天守」で唯一の山城である備中松山城(岡山県高梁市)を紹介。標高430mにあり、現存天守として日本一高い場所にあります。天守にたどり着くには、シャトルバスを降りて20分ほどの登山が必要です。秋から冬にかけて、気象条件がよければ、雲海に浮かぶ「天空の城」になるそうです。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、この城の石垣が登場しました。
もともとの中世の山城を、現在の姿に改築したのは、関ケ原の戦い(1600年)後に城主になった小堀正次・政一親子です。政一は茶道、作庭、建築に高い能力を発揮し、のちに小堀遠州の名前で知られる大文化人となりました。小堀遠州の茶道は「遠州流」として今日も広く受け継がれています。城内には、日本で唯一、天守内部に囲炉裏が現存しています。
備中松山城
●城の見方・消えた城
●城の見方・防御篇
●城の見方・意匠篇
●熊本城・被災の歴史
●江戸城・焼失の歴史
制作:2024年3月1日
<おまけ>
昭和20年の敗戦後、地域の振興や観光のため、多くの天守閣が復元されました。これは「復興天守」と呼ばれ、大阪城はじめ、ほとんどが鉄筋コンクリート(RC)で作られました。なかには「墨俣一夜城」のように、勝手に天守を建ててしまった例もあります。これは「模擬天守」と呼ばれます。
問題は、こうしたRC造りの復興天守や模擬天守の多くが、耐用年限を迎えていることです。鉄筋コンクリートの寿命は50~60年と言われ、補強をしなければ、あと10~20年で立ち入りできなくなる可能性があるのです。
なお、木造で再建された城もありますが、数は多くありません。ちなみに、日本最古の木造再建城は、1933年、大垣城を参考に造られた郡上八幡城です。
郡上八幡城