東京大水害
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東京を襲った大洪水
大正13年9月16日の大豪雨(東京・亀戸)
明治43年(1910)8月、東京を大洪水が襲いました。雨は上旬から絶え間なく降っていましたが、9、10日に大豪雨となり、多くの河川が決壊したのです。
『野菊の墓』で有名な歌人・伊藤左千夫は、恐怖で眠れない夜をこう書いてます。
《宵から降出した大雨は、夜一夜を降通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、さうして有所(あらゆる)方面に落ち激(たぎ)つ水の音、只管(ひたすら)事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声を以て脅すかの如く、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかつた如く思はれたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音声におびえて居たのだから、固(もと)より夢か現(うつつ)かの差別は判らないのである。外は明るくなつて夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無い如く降り続いて居る。夜を降り通した雨は、又昼を降通すべき気勢である》(『水害雑録』)
というわけで、この帝都東京に空前の被害をもたらした大水害の現場に行ってみます。
浅草の惨状
東京の下町・本所茅場町に住んでいた伊藤は、豪雨がやむと天神川(亀戸天神前の川)の様子を見に行きます。それはこんな感じでした。
《うづ高に水を盛り上げてる天神川は、盛に濁水を両岸に奔溢さして居る。薄暗く曇つた夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのやうにぼんやり見渡される。恐ろしいやうな、面白いやうな、云ふに云はれない一種の強い刺撃に打たれた。
遠く亀戸を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖の如くである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に没して居る。成程洪水ぢやなと嗟嘆せざるを得なかつた》
向島
で、今読むとすごいと思うのが、次の部分。
《何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てゝ聞くと、助け舟は無いかア………助け舟は無いかア………と叫ぶのである。それも三回許(ばか)りで声は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも圧せられてるものか、割合に世間は静かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く声の外には、余り人の騒ぎも聞こえない》
つまり、予想外に静かな被災地で、聞こえてきたのは人の声と牛の鳴き声だけだったというのです。100年前とはいえ、ここは東京なのに、ですよ。
実は、伊藤左千夫は牧場を経営していて、毎日牛乳を売っていたのです。それで、牛の話がよく出てくるのですが、しかしちょっと想像できない光景です。
水没した浅草公園(明治43年、後ろは
浅草十二階
)
洪水の被害でいちばん困るのは、浸水や暴風による破壊以上に、悪臭だと言われます。これは現代でも一緒で、下水があふれ出るため、あたり一面、信じられない匂いが漂うといわれます。まして、近所に牛がいる100年前はどれほどだったか。
そして、そのあとでもっと被害が大きくなるのは、衛生の悪化による病気です。東京府は軍と協力して衛生管理に当たったため、かなり病気の被害は抑えられたようですが、それでも、たとえば1149人が避難した築地本願寺では、8月13日から27日までわずか2週間で、次のような病気が発生しました。
胃カタル10、腸カタル10、腸胃カタル7、気管支カタル7、感冒7、肺結核6、肋膜炎3、脚気13、神経病4、赤痢2、耳鼻症1、腎臓炎1、外傷1。余談ながら妊娠8、分娩5もありました(『明治43年東京府水害統計』による)。
工兵隊の活躍
結局、この水害は死傷者・行方不明あわせて170人という大惨事となりました。伊藤は、先の『水害雑事』の最後で《人間は苦むだけ苦まねば死ぬ事も出来ないのかと思ふのは考へて見るのも厭だ》と書いていますが、これが当事者の偽らざる気持ちだったんでしょう。
東京市に吹き荒れる暴風雨(明治32年『風俗画報』)
水の都と呼ばれた江戸/東京は、開府以来、頻繁に洪水の被害に遭ってきました。
江戸時代でいうと、安政2年の大地震の翌秋(1856年9月23日)、江戸を巨大台風が襲いました。『安政風聞集』には、次のように書かれています。
《風雨おびただしく、黒白もわからぬその中より、電光四方へほとばしり、奔雷(ほんらい)殷々と鳴りはためき、樹木を飛ばし、砂石を巻きあげ、倉庫家屋はゆらめく孤舟の如く、宮殿楼閣は枯野にそよぐススキに似る。壁は空々として本来の泥に帰り、柱は段々に折れて簓(ささら)となり、屋根は飛んで宙にひらめき、瓦は降って木の葉のよう》(抄訳)
国立公文書館『安政風聞集』
海辺は沖の方が百千のホラ貝を鳴らすように鳴動し、満潮時だったため、高潮が襲来。深川あたりは軒先まで浸水し、押し流されてきた船のために永代橋が流され、隅田川沿いに12隻の船が打ち上げられました。前年の地震のため、江戸中に仮設の家が並んでいましたが、それらはすべて破壊され、築地本願寺の本堂も崩落しました。
この水害で、一説には10万人が死亡したとされます。
築地本願寺の本堂も崩落(安政3年)
明治時代では、前記した明治43年の水害の10年ほど前、明治32年10月の台風も有名です。
このときも、火事で再建中だった築地本願寺の本堂工事現場が崩落しています。
築地本願寺(明治32年)
芝増上寺・徳川家霊廟
さらに大正時代に入っても、東京は何度となく水害に見舞われました。
大正13年9月16日の大豪雨 東京・大崎
(「写真通信」大正13年11月号)
大正14年8月26日の大豪雨 東京・赤坂の紀国坂
(「写真通信」大正14年10月号)
こうした、度重なる東京の水害を減らすべく、さまざまな対策が取られていきます。
明治43年の東京大水害により、荒川放水路と江戸川放水路が開削され、昭和13年の高潮により中川放水路の開削計画が始まります。これは戦争のため工事が中断し、昭和38年に完成しました。
現在は、
首都圏外郭放水路
など、巨大な地下放水路が完成し、水害から東京を守っているのです。
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水害・洪水を防ぐ土木工事の歴史
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「水の都」東京と小名木川
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室戸台風の襲来
更新:2019年10月19日
<おまけ>
台風が来るたび、頻繁に目にする台風進路図ですが、これはいつから始まったのか。
明治6年、工部省測量司は気象台を設けることを決め、明治16年2月16日から全国の気象電報を収集できるようになりました。この日、初めて天気図が試作されています。そして、日本初の暴風警報が発表されたのは明治16年5月26日。こうして、意外に早い時期に台風進路図も作られていくのです。
明治32年の台風進路図
<おまけ2>
1899年(明治32年)10月7日の台風では、東北本線(当時は日本鉄道)矢板駅と野崎駅の間にある箒川鉄橋から列車が転落する大事故が起きました。明治時代最大の鉄道事故です。箒川鉄橋を通過中、突風にあおられ、客車7両が転覆、そのまま箒川へ転落しました。濁流によって客車は破壊され、遺体はまったく発見できなかったと伝えられています。
箒川鉄橋列車転落事故