「国語」の誕生
驚異の画像ワールドへようこそ!
ニッポン「共通語」の誕生
活字と蓄音機が作った統一日本語
蓄音機の渡来
井上ひさしに『國語元年』という名脚本があります。
江戸時代、およそ300藩で分断されていた日本は、各地の方言が強烈で、共通語がありませんでした。意思疎通に齟齬を来すため、主人公の文部官僚・南郷清之輔は、明治7年、「全国統一話し言葉」の制定を命じられます。
清之輔の家には、全国から人が集まっていました。本人は長州弁、妻は薩摩弁、使用人たちは南部遠野弁に津軽弁、そして大阪河内弁に、名古屋弁に江戸言葉……。
どうして「全国統一話し言葉」が必要なのか、清之輔は長州弁で話します。
「まず、兵隊に全国統一話し言葉が要(い)るのジャ。たとえば、薩摩出(で)の隊長(テーチョー)やんがそこにおる弥平の様(ヨー)な南部遠野出(で)の兵隊に号令ば掛けて居(お)るところを考えてミチョクレンカ。いま(インマ)、隊長やんが薩摩のお国訛りで『トツッギッ(突撃)!』と号令した。弥平、何のことか分ったかの?」
すると弥平は遠野弁で「オラハーワガンマヘン(私はわかりません)」と答えます。続いて、ちよは「あてにもサッパリや」と河内弁で反応するといった具合です。
明治政府は、まず軍隊の命令系統を作るために、共通語を必要としたのです。
大人も子供に交じって授業を受けた明治時代の教場
共通語と一言でいうのは簡単ですが、それが完成するまでには膨大な時間がかかります。
たとえば、国語学者の大槻文彦は、明治38年(1905)年に「日本方言の分布区域」を発表しており、このなかで、現在は丁寧語として完全に普及した「です」という言葉を批判しています。
どういうことかというと、この「です」は、もともと芸人の使う卑しい言葉で、江戸では侍はもちろん、町人でさえ使いませんでした。明治維新以降、田舎から出て来た侍が、新橋あたりの芸者言葉を聞いて使いはじめ、それが一般化したというのです。
大槻文彦は「このような軽薄な言葉はやめさせたいと思っているが、そういう自分までが、つい巻き込まれて、気づかすに使うようになってしまった」と嘆いています。
明治38年といえば、日露戦争が終結した年です。この段階になってもまだ、共通語は生まれていなかったことがわかります。
べんきやう(勉強)→らくだい(落第)
『少国民』(第6年5号)より
共通語の形成に役立ったのが、新聞、雑誌、そして教科書を含む印刷メディアです。当時も今も、出版社はほとんどが東京にありました。全国に雑誌が流通するということは、地方に東京言葉と東京文化が広がることを意味します。
一例を見てみましょう。
明治27年(1894年)に刊行された少年向けの雑誌『少国民』(第6年5号)には、幸田露伴が「風船旅行」というSF小説を掲載しています。その文体はこんな感じ。
《午前二時三十分、眼下に濃霧起(おこ)りて下界を見る能(あた)はず。汽車の軌道(レール)を駛(はし)るが如き響(ひびき)を聞きて、某鉄道線に沿へるならむと想像せしが、其(その)音払暁に至るまで絶ゆることなきを以(もっ)て、頗(すこぶ)る奇異の感をなしけり》
さすが文豪の文章でやや難解ですが、同じ号に載っている読者投稿の小話は、こんな感じで書かれています。
《父さん。昨日鳥の肝を暖めてたべましたが、人間の肝も暖まりませうか。父答へて、火にあぶれば、人間の肝でも暖まるとも。子又(また)、東京の大火事でさへ、皆(みん)なが肝を冷したのは、どんなわけでせう》
少年の投稿で、しかもしゃべり言葉なのでわかりやすいですが、「ましょう」という発音を「ませう」と書くなど、現代から見れば違和感を覚える表記です。これが、実際の発音と表記が異なるという、長らく日本語を悩ませた「言文一致」の問題です。
時間割に書かれた「唱歌」(松本市の開智学校の展示物)
共通語が完成するまでに、もうひとつ大きな役割を果たしたのが「唱歌」でした。
地方の民謡や、江戸時代に始まった「都々逸」など、日本には長い音楽の伝統があります。しかし、こうした音楽は遊里や寄席などで歌われる一段下のもので、それを度外視しても、音楽は婦女子が部屋の中で楽しむものだと思われてきました。要は、立派な紳士にはまったく関係のないものでした。
初めて音楽に合わせて行進した日本人は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のため、1860年にアメリカに派遣した使節団です。
このとき一行は、楽団の演奏に合わせてワシントン中心部を行進しますが、副使・村垣範正の日記には「胡楽起る」としか書かれていません。
おそらく、音楽に合わせて歩く自分たちが恥ずかしいという気持ちもあったのでしょう。
アメリカでの遣米使節/ニューヨークに向かう条約書
慶応2年(1866年)、幕府は福井藩に命じて、横浜で初めてフランス式の練兵式をおこないます。このとき軍楽隊はまだありません。そして明治2年(1869年)、イギリスの軍楽隊を参考に、横浜に「鼓隊」が組織されました。これが日本初の軍楽隊です。
このころ、日本初の軍歌も誕生しています。明治元年、戊辰戦争で歌われた「トコトンヤレ(トンヤレ)節」。
《宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ……》
音楽を使えば、兵隊の統制がしやすくなることは明白でした。音楽の重要性に気づいた政府は、明治5年、
学制
を敷き、学校で「唱歌」「奏楽」の授業を始めることを決めます。また、教部省を設置し、歌舞音曲のすべてを管轄させました。国民教化のために新設された教導職には、神官などの宗教家だけでなく、落語家や歌人も任命されています。
唱歌の授業
しかし、現実問題、「唱歌」「奏楽」を広めることは出来ませんでした。なぜなら、先生がひとりもいなかったからです。
そこで、文部官僚だった伊沢修二が中心となって、明治12年、音楽取調掛(明治20年に東京音楽学校に改組)が設置されます。ここで初めて音楽教員の養成が始まります。当然、音階などもこのとき決まりました。
音楽取調掛(後の東京芸術大学音楽学部)
明治14年、音楽取調掛は学校教育用に編纂した『小学唱歌集 初編』を刊行。このなかには「蝶々(てふてふ)」「蛍(の光)」、そして
「君が代」
などが掲載されています。このとき作られた唱歌のほとんどは、お雇い外国人が賛美歌をアレンジしたものです。
小学唱歌集初編の音階
当時の音階は「ドレミファソラシド」ではなく、「ハニホヘトイロハ」または「12345671」でした。数字は「ヒーフーミーヨー」と発音したため、上野公園で音楽取調掛の人間が大声で「ヒーフーミー」と稽古していると、周囲から「あの人たちは30過ぎて幼稚園児みたい」と失笑されたと記録されています。
唱歌を歌うことで共通の日本語を広げ、同時に連帯意識を覚えさせ、時代が下ると皇国史観も歌詞に埋め込んでいきました。こうして、明治政府は「国民」を作っていくのです。
音楽取調所の教室
明治19年、アメリカに駐在していた陸奥宗光が、蓄音機を持って帰ります。当時の蓄音機は蝋管といって、円筒に塗られた蝋に溝を刻んで録音しました。再生するときは、ゴム管を耳に刺して聞きました。
明治23年、蝋管の蓄音機を浅草の花屋敷で初めて聞いたときの感動を、雑誌記者の鶯亭金升(おうていきんしょう)が書いています。
《一つの管を耳にはさめば、忽(たちま)ちにして団十郎、菊五郎の声色をそっくり聞き、或(あるい)は角力甚句、或はかっぽれ、春雨など、心を浮かす音楽に耳を楽しましめ、眼には園中の草花を眺めて、耳の内は劇場や宴席に望む思あらしむ。ことに御銘々がいろいろな隠し芸をも、おのれと吹込み、おのれと聞くことが出来るという。さて楽しみ沢山な器械なれば、お出あってお試しあるべし》(『団団珍聞』明治23年9月27日号)
その後、円盤型のレコードが誕生し、これで全国に同じ歌を届けられるようになりました。まもなく歌謡曲が誕生し、全国津々浦々まで東京発のヒット曲が流れました。
明治23年は、もうひとつ画期的なことが起きました。この年、第1回帝国議会が開催されるのです。大量の議事録をどうやって残すのか。いくらなんでも蓄音機で録音するのは無理です。
そこで使われたのが「速記」でした。明治17年に発売された、初代三遊亭円朝の速記落語がバカ売れ。その結果、議事録も速記で作られるようになったのです(『日本語を作った男』による)。
速記法研究会が出版した『速記法要訣』(国会図書館、1886)
こうして、人の言葉をそのまま書くことが始まり、言文一致が進みます。
文章を話し言葉に近づける言文一致の始まりは、円朝の落語を参考にした二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)です。たとえば「〜だ」文体としては、こんな感じです。
《「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間(こないだ)のような事を言う所を見りゃア、弥(いよいよ)馬鹿だ」》
「〜です、ます」調は、山田美妙が有名です。明治21年の『ぬれごろも』から以下引用。
《「泣かないでも宜(い)いぢャ無いか? 外聞が悪いやね」
斯(こ)う言はれるや否や、女の子ハ又も声を呑んで身を戦(ふる)はせましたが、(中略)母親ハさも優しく口で言ひながら実ハ(じつは)女の子を力の限り其度毎(そのたびごと)に捻(つめ)ッて居るのです》
「〜である」調は尾崎紅葉。
《小肥(こぶとり)に肥(ふと)つた、髪のけはけはと濃い、顔の薄赤らむだ、目のぽつちりとした、唇の薄片(うすっぺら)な、喋りさうな、廿歳(はたち)許(ばかり)の婢(はした)らしい新造である》(明治29年の『冷熱』)
唱歌遊戯
蓄音機の普及で、話し言葉は徐々に統一されていき、さらに書き言葉も言文一致が進みました。
その上で始まったのが、歌に合わせて体を動かす「唱歌遊戯」です。始めたのは、『小学唱歌集』を編纂した伊沢修二。伊沢は若い頃、高遠藩の軍楽隊に在籍しており、音楽に合わせて体を動かす重要性がわかっていました。
一説によると、かつての日本人は右手と右足、左手と左足を同時に出す「ナンバ歩き」をしていて、整列行進ができなかったと言われます。やや信憑性に欠ける説ですが、とはいえ、全員そろって同じ行動をとることは、多くの日本人にとって未経験でした。
そんななか、太鼓や号令に合わせて一斉に同じ動作をすることで、軍隊も工場も成り立つようになっていくのです。
関東大震災から1年半後の1925年(大正14年)、日本でも
ラジオ放送
が始まります。ラジオによって、さらに方言は消えていきました。
そして、多くの国民が1928年から始まった「ラジオ体操」によって、一致団結した行動をとるようになります。
幻のラジオ体操第3(逓信総合博物館)
昭和に入ると音声入りの
映画
「トーキー」が始まり、戦後、
テレビ放送
が始まります。つまるところ、現代の日本語は、新聞雑誌と蓄音機が生み、ラジオが育て、映画とテレビが完成させたのです。
制作:2016年5月10日
<おまけ>
蓄音機を発明したのはエジソンで、1877年(明治10年)のことです。当初は、円筒に錫(すず)箔が巻いてありました。すぐに日本でも「蘇言機」「自言機」として報じられました。発明の2年後、東大のお雇い外国人で
地震計
を発明したジェームズ・ユーイングが財界人を集めて日本でお披露目会を開きました。このとき東京日日新聞の社長だった福地源一郎(福地桜痴)が「こんなものができちゃ新聞屋は困るねぇ」と大声で叫びます。これがたまたま記録されてしまい、日本人初の録音となりました。福地は、この機械を「蘇音機」と呼んでいます。
1885年、アメリカのエミール・ベルリナーが、錫箔のかわりに蝋(ろう)を塗った改良型を開発。これは1889年、
鹿鳴館
で初公開されますが、このとき「蓄音機」という名前が使われました。そして、1887年、ベルリナーはレコードの原型である円盤式蓄音機「グラモフォン」を開発。この発売会社が、後のビクターになります。
なお、1910年に設立された日本蓄音機商会が、日本で最初のレコード会社である日本コロムビアです。
ビクター蓄音機の広告