ニッポン「鉄道車両」製造史
あるいは列車運行システムの誕生
日立製のイギリス新幹線「クラス800」
日本の鉄道は、1872年(明治5年)に新橋〜横浜間が開業したのが始まりです。
では、日本の鉄道車両工場はいつできたのか。それは1875年に設立された官営神戸工場です。国産第1号機関車860形ができたのは、工場開設から20年ほどたった1893年(明治26年)のことです。
国産第1号機関車860形
その後、汽車製造会社(1896年、後に川崎重工と合併)、日本車輌製造(1896年)、川崎造船所兵庫工場(1907年)などが次々に設立されていきます。
今回は、山口県にある日立製作所笠戸工場を舞台に、鉄道生産の歴史と産業集積地の誕生についてまとめます。
日本初の民間機関車メーカー「汽車製造」大阪工場
新幹線といえば、先頭部分が丸い印象がありますが、これを俗に「おでこ」と言います。このおでこ部分は「打出し板金」、つまり人が重さ1.5kgの鉄製ハンマーでひたすら叩いて成形します。
山口県下松市には、それを専門とする山下工業所が存在しています。新幹線は0系に始まる歴代新幹線20種400両、モノレールは250両以上を製造した同社の成形技術とはどのようなものか。
《工場内に一歩足を踏み入れる。中央に恐竜を思わせる新幹線車両の先頭部分の骨組みがでんと置かれている。その傍らには金床と呼ばれる平らな鉄の台の上でアルミ合金の平板をひたすら叩く職人が。槌音とともに板は少しずつ弧を描くように曲がっていく。ある程度形ができたところで、骨組みの該当部分に当てはめる。骨組みの曲がりとぴったり合うまで、数百、数千回と叩き続ける》(『鉄道を支える匠の技』による)
打出し板金は時間がかかりますが、もちろん納期は厳しいものです。新幹線1両の先頭部分を作るのに与えられた時間は、0系の試作で4カ月。1000型で3カ月。いまは2週間だそうです。
下松市は、日立製作所の笠戸事業所があり、鉄道生産の街として知られています。
いったいなぜ、この街で鉄道が作られるようになったのか。
日立製作所の広告(1928年)
第1次世界大戦で、世界的に船舶が不足してきた1917年、実業家の久原房之助は、新たな造船工場の設立を目指します。せっかくなら大規模な工業地帯を作るべく検討を重ねた結果、毛利藩時代に「周防3港」の1つとされた下松に白羽の矢が立ちました。
決定理由は、いくつかありますが、『下松市史 通史編』などによれば、
(1)交通の便がよい
笠戸島、大島半島に取り囲まれた天然の良港である。しかも神戸、広島、さらに下関に至る山陽鉄道が通っている。
(2)塩田が広がり、工場の敷地が得やすい
(3)隣接する徳山が発展しており、労働力が豊富
徳山には海軍煉炭製造所、日本曹達(現・トクヤマ)、大阪鉄板(現・日新製鋼)などができますが、下松にそうした話はなく、ベッドタウン状態でした
(4)すでに銀行(下松銀行)と電気会社(山陽電気)があった
久原は藤田組(現・DOWAホールディングス)創業者である藤田伝三郎の甥にあたりますが、藤田家の祖先が下松に住んでおり、地縁もありました。
下松を空から見てみる
久原は下松銀行と山陽電気を買収し、「東洋のマンチェスター」を作る大プロジェクトが始動。その内容は、地元の「防長新聞」(1917年6月26日付)で大々的に報じられました。
・工業用地は90万坪
・職工や家族18万人の居住エリアを作り、新市街に上下水、劇場、公園などを整備
・まず造船所を作り、3〜4年で対岸に鉄工場を建設して事業開始
・土地の買収は強制的にはやらない
・技術者養成のための工業学校も整備
沿岸部は埋め立てられ、後に日本石油、東洋鋼鈑、笠戸船渠などが進出します。
日立の下松工場(造船所時代)
1917年10月、「日本汽船笠戸造船所」が完成。目指すは、ドイツの重工業メーカー「クルップ」、あるいはイギリスの「ヴィッカース」に肩を並べるような造船、製鉄の大工場です。
『日立製作所笠戸工場史』によると《笠戸島に面して船渠2基・船台10基・造船工場・材料置場等を設け、外海に面して機械工場・製鋼工場を設置し、洲鼻(笠戸島に伸びる岬)の両岸を繋船壁にあて艤装工事をしようとする計画》でしたが、アメリカの鉄鋼禁輸を受けて、規模は大きく縮小されました。
結局、鉄の禁輸が響き、操業は中止。工場は蒸気機関車の製造にシフトします。
1918年、鉄道院から入手した図面で「ハチロク」と称された8620型機関車の試作に成功し、翌年、鉄道省の指定工場となりました。下松の鉄道生産の始まりです。工場は、1921年、日立製作所が吸収合併して笠戸工場となりました。
8620型
笠戸工場では、蒸気機関車の製造が続きますが、1945年に2度の空襲を受け、工場は損壊。戦後は、輸送力増強の国策の下、鉄道車両の製造が急増します。そして、特急つばめで知られる蒸気機関車C62を開発しました。1960年代には新幹線やモノレールの製造も始まります。
下松には、山下工業所だけでなく、アルミ研磨の光洋金属防蝕、ボルトの兵庫ボルト、内装パネルの弘木技研、空調設備の清和工業など、多くの協力企業が集結しました。日立グループの協力工場でつくる「日立笠戸協同組合」は、現在31社で構成されています。
兵庫ボルト
日立は、軽量化や高速化のため、車両にアルミを採用しています。アルミ車両の製造技術は「A-train」と総称されています。たとえば、外板と骨組が一体化し、まるでダンボールのような断面をしたダブルスキン構造、2枚のアルミを摩擦熱で接合するFSWなどです。
数多くの鉄道車両を作ってきた日立ですが、2012年以降、イギリスで都市間高速鉄道車両「クラス800」の契約を獲得。さらに、都市間標準型車両「AT-300」の製造を受注するなど、ヨーロッパで地位を確立していきました。さらに、「CBTC」(無線信号システム)、「鉄道RAMS」(安全性評価)、「ETCS」(列車制御システム)といった国際規格を取得しており、列車制御でも攻勢を強めています。
実は、旧国鉄・JRのシステムのほとんどを日立が開発してきました。有名なのが1960年に運用が始まった、みどりの窓口用の座席予約システム「マルス」です。
運行システムはどうか。
1963年、日立と国鉄は自動列車運転装置(ATO)の試運転に成功します。
車輪の回転から速度を検知するATO
(『科学朝日』1963年4月号)
1964年10月1日、東海道新幹線が開業した当初、運行管理は列車集中制御装置(CTC)が使用されていました。総合指令室の表示盤に運行中の全列車の位置や向きが表示され、指令員はそれを見て「手動で」ポイント操作していました。これをなんとか自動化できないか……。
CTCによる列車表示システム(鉄道技研資料より)
そして、日立は1970年、世界初の列車運行管理システム(PTC)であるコムトラック(COMTRAC)の開発に成功します。コムトラックはダイヤの作成、列車の進路制御、乗客への告知などを一括して管理できるシステムです。
コムトラック画面(国鉄内部資料より)
その後、1995年には、新幹線総合システム(COSMOS)、1996年には東京圏輸送管理システム(ATOS)をいずれも開発。鉄道の運行システムに関して、国内に日立を超える会社はないのです。
さて、冒頭で書いたとおり、新幹線といえばおでこが丸い印象がありますが、2019年5月に公開された新幹線の新型試験車両「ALFA-X(アルファエックス)」は、約22メートルというきわめて長い鼻が特徴です。流線形になると、風の抵抗が減り、トンネルに入ったときの衝撃音「トンネルドン」が抑えられます。鼻が長いほど騒音は減りますが、今度は座席数が減って悩ましいのですが、それでも、時速360キロで走行できるのは魅力です。
鉄道車両の製造では独シーメンスや仏アルストムなどが君臨していますが、常に進化を遂げている日本勢の挑戦はこれからも続くのです。
JR下松駅前の看板には新幹線の絵が
●JX金属と日立製作所の誕生
●鮎川義介と日本産業(日産自動車)の誕生
●足尾銅山が作った日本の技術
●オートメーションの誕生
制作:2019年7月27日
<おまけ>
2019年7月14日、日立製作所の笠戸事業所から下松港まで、イギリス向け新幹線「クラス800」の先頭車2両がトレーラーで運ばれました。本来、陸送は深夜に行われますが、今回は2017年3月に続き、見学イベントとして実施されました。あいにくの天気でしたが、約3万5000人が見学したそうです。