ダム入門
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「ダム行政」の歴史
八ッ場ダムの工事現場に行く
八ッ場ダムの工事現場(中央の管は導水管)
会津藩の領地にあった五十里(いかり)村は、江戸から50里(200km)ほど離れていたので、この名前になったといわれています。村内には年貢米を江戸に運ぶための「会津西街道」が走っていて、それなりに繁栄した地域でした。
しかし、1683年(天和3年)9月、日光を襲った大地震で近傍の戸板山が崩れ、その土砂はすぐ下の男鹿川をせき止めます。せき止められた川は巨大なダム湖を作り、五十里村と街道は湖の下に沈んでしまいました。
巨大なダム湖(国会図書館所蔵『五十里湖水』より)
会津藩はなんとか街道を復旧しようと、高木六左衛門に命じて、土砂を運び出します。しかし、いくら人足や火薬を使っても、土砂を取り除くことはできません。高木は責任を取って自害しますが、ダム湖はそのままの姿で残りました。
それから40年後の1723年(享保8年)8月、長雨でダム湖は決壊、土石流が下流を一気に襲います。
直下の藤原村では《山の如き濁流が押し来るや、村民は始め水と思わず、黒雲であると思った所が大洪水であった》(『五十里湖水』)とされ、宇都宮まで冠水、1000人ほどが亡くなったとされています。
このとき土砂が削られて温泉(川治温泉)が見つかり、さらに竜王峡の峡谷ができました。
竜王峡
それから200年後。
内務省土木試験所の物部長穂は、日本で最初の「河水統制計画」を発表し、「害水を資源となす」考えを明らかにします。治水、灌漑、水力発電を統合して国土開発するもので、1926年(昭和元年)、日本初の多目的貯水池として五十里堰堤が計画されました。
しかし、多数の断層により建設は断念。1941年(昭和16年)から新ダム計画が起こりますが、今度は戦争で中断。結局、五十里ダムが完成したのは1956年のことでした。
完成時の五十里ダム(『科学朝日』1957年10月号)
五十里ダムは利根川水系のダム第1号で、男鹿川と鬼怒川が合流する川治温泉そばにあります。堤高112メートルで、日本で初めて高さ100メートルを超えたダムです。
分厚いコンクリートの自重で水圧に耐える構造で、これを重力式コンクリートダムといいます。
現在の五十里ダム
ダムは、溜めた水を放水する必要があります。
五十里ダムは、国産初の高圧スライドゲートを採用し、毎秒100トンの水を放出していました。しかし、微調整が利かないため、放流時に下流の水位が急激に上がってしまう問題を抱えていました。
国産初の高圧スライドゲート
そこで、新たな放流設備が増設されることになりました。運用中のダムの堤体に穴をあけ、ゲートを設置したのです。この2つの放水管を「コンジットゲート」と呼びます。一方、ダムの堤頂部にあるゲートは、異常洪水時のみ使われる「クレストゲート」と呼びます。
さらに高圧スライドゲートの先にホロージェットバルブをつけ、放水量の調節を可能にしました。
ダムの名称
五十里ダムの水は、近くの川治第一発電所で電気となり、野岩鉄道の運行などに使われます。そして、現在、五十里ダムは「選択取水設備」の新設工事が進められており、これまで無駄にしていた放水をさらなる水力発電に使う予定です。
野岩鉄道(左上)と変電所
戦後のダム行政の歴史をもう少し見てみます。
終戦直後、食糧不足と電力不足が深刻化する日本を、何度も巨大台風が襲います。1947年、カスリーン台風で利根川が氾濫し、東京が水没しました。1948年のアイオン台風では東北の北上川流域が壊滅しました。
こうしたなか、1948年、河川行政を主管とする建設省が発足します。
カスリーン台風
建設省は、まず最初に戦前から進められていた「北上川5大ダム」計画を再開します。このとき最初に完成したのが石淵ダムで、これが日本初のロックフィルダムです。ロックフィルダムは、岩や土砂を積み上げて建設します。セメントを使わないので、コンクリートダムより経済的ですが、重機の整わない時代には、非常に建設に苦労したといわれます。関東では、奈良俣ダムや野反ダムあたりが有名です。
なお、天然の土砂や岩石を盛って築くダムをフィルダムと呼びますが、そのなかでも土だけのダムをアースダムと呼びます。616年に完成した国内最古の狭山池ダム(大阪府)もアースダムです。
フィルダム(宮城県・化女沼ダム)
1950年代、60年代は河川開発の法整備も進みます。
朝鮮戦争による電力特需を受け、1952年、「電源開発促進法」により「電源開発株式会社」が誕生します。これで住民に多額の補償金を支払う仕組みが整った結果、静岡と愛知にまたがる佐久間ダムは史上最速の3年半で完成します。
佐久間ダムの工事現場(『サングラフ』1955年9月号)
以後、「工業用水法」(1956年)、「水道法」(1957年)と続き、1957年、「特定多目的ダム法」の施行で、管理者の調整が難しかった多目的ダムの建設に拍車がかかります。1962年には「水資源開発促進法」で水資源開発公団が発足。そして、1965年に「新河川法」が施行され、一級水系は国、二級水系は都道府県が管理することが決まりました。これによって、物部長穂が提唱した「水系一貫開発」の思想が完成したとされます。
河川管理境界
さて、戦後ながらく、近畿地方は電力事情の悪さに悩まされてきました。週に何日も停電するような状況で、その解決の切り札とされたのが黒部ダムと黒部川第四発電所の建設です。黒部ダムには、主流だった重力式コンクリートダムではなく、アーチ式コンクリートダムが採用されました。その理由は、アーチ式は、コンクリートの使用量が4割ほど少なくすみ、工費と工期の短縮が可能だったからです。
とはいえ、アーチ式は耐震性や洪水処理能力に不安があり、日本ではなかなか普及しませんでした。日本初のアーチ式コンクリートダムは上椎葉ダム(宮崎県)で、2番目は北上川の鳴子ダムです。
黒部ダム
黒部ダムの建設に際し、まず物資輸送路として「関電トンネル」の掘削が始まります。1956年10月のことです。着工から半年後、およそ1690メートルの地点で破砕帯に遭遇します。岩盤が細かく砕けて泥のような状態になっており、地下水が土砂とともに噴き出してきたのです。ここで工事は完全にストップしました。
このとき関係者は、国鉄の技術者に協力を求めます。国鉄では、戦前に丹那トンネル、関門トンネルで破砕帯を経験していたからです。
工事は、地下水を抜くトンネルを掘った上、セメントに凝固剤を混ぜ、地盤を固める作業を繰り返しました。そして、事故が起きないよう小さな断面で掘っていきました。冬になると水が凍り、ようやく破砕帯の突破に成功します。
黒部ダムは1963年に完成しました。関電トンネル掘削の苦闘は、石原裕次郎主演の映画『黒部の太陽』(1968年公開)で一般に知られるようになりました。
アーチ式ダムは、このほか矢木沢ダムや川治ダムが有名です。前述のとおり、川治温泉は男鹿川と鬼怒川の合流地点にありますが、男鹿川にあるのが五十里ダム、鬼怒川にあるのが川治ダムです。現在、五十里ダムと川治ダムは直径3mの導水トンネルで結ばれ、効率的な水のやりくりを行っています。
川治ダムのキャットウォーク
ダム建設では、建設予定地の村や集落がダムの湖底に沈みます。故郷の水没は住民には断腸の思いだけに、しばしば反対運動が起きます。日本のダム建設史上、最大の反対運動と言えるのが、筑後川に建設された下筌ダム(大分県日田市)での闘争です。
計画が具体化したのは1959年。建設省による説明会が開かれたものの、土地収用法をたてに高圧的な態度でした。
そこで、住民総出で蜂の巣橋のそばに「蜂の巣城」という砦を作り、集会所や見張り小屋を次々作ります。砦を築いた翌年の1964年に第1回めの強制執行がおこなわれました。蜂の巣城が陥落すると第2の蜂の巣城を建設しますが、こちらも1965年に落城。ダムは1973年に完成しますが、攻防は13年間にわたりました。
この闘争がその後の公共事業のあり方に大きな影響を与えました。1974年には水没地域に配慮した「水源地域対策特別措置法」が施行され、地域住民の生活保障と地域振興が重視されるようになり、結果としてダム建設は長期化することになります。
八ッ場ダムの国道つけ替え工事(2008年)
近年、もっとも有名なダム建設が「八ッ場ダム」です。
1947年9月のカスリーン台風は、関東地方に死者1077人という大きな被害をもたらしました。八ツ場ダムは100年に1度といわれるこの台風並みの大洪水を防ぐため、建設省が利根川流域に計画した8基の大規模ダムのひとつ。調査開始は1952年、建設発表は1965年。
八ッ場ダムの工事現場(青い線が堤体部分)
水没する川原湯温泉の住人などが反対運動を起こし、代替地の保障協定が結ばれるまで40年もかかりました。その間、総事業費は4600億円に膨れ上がりました。
協定が結ばれてからも事態は動かないまま。どうしてかというと、八ツ場ダムの目的は治水と利水でしたが、治水は国交省の試算でもカスリーン台風並みの大雨に効果がないことが明らかになっており、また利水も関東では水が余っていることで、建設の合理性に疑問が出たからです。さらに、八ツ場ダムに水を貯めることで東京電力の水力発電に影響が出るため、東電に数百億円ともいわれる減電補償金を支払うという本末転倒もあり、反対運動が続きました。
八ッ場ダムによって水没するエリア
事態が停滞するなか、公共事業を縮小する方針だった民主党がいったん建設中止を決めますが、2011年に工事を再開します。
ダムカード
ダムに行くと、ダムカードがもらえるのですが、八ッ場ダムのダムカードはこちら。
右上のFNWIPはダムの用途を示します。
F(洪水調節)、N(河川の流量維持)、W(水道用水)、I(工業用水)、P(発電)で、このほかA(農業用水)、R(レクリエレーション)、S(消雪)があります。
実はこれ以外にもごくわずかですがあるんですね。たとえば品木ダム(群馬県)のダムカードには「水質改善」とあります。草津温泉の上流には草津白根山があり、硫黄が溶け出しています。この水は酸性が強く、魚は棲めず、鉄やコンクリートはすぐに崩壊し、住民も歯がボロボロになることで有名でした。そこで、石灰によって中和しているのです。
草津白根山
1カ月でコンクリがボロボロ
(品木ダムの環境体験アミューズメント)
品木ダムには、この中和作業によって生まれた生成物「硫酸カルシウム」「塩化カルシウム」が沈殿しており、定期的に浚渫が行われています。
石灰を投入
この品木ダムは例外ですが、実は、日本のダムを悩ます大きな問題が「ダムが消耗品」ということです。山がちの日本では、ダムが日々確実に土砂や倒木で埋まっていくのです。この状態を満砂といいますが、水がただ通過するだけなので、利水にも治水にも役立たないのです。
2000年の国交省の調査では、千頭ダム(静岡県)の堆砂率が97.7%、小屋平ダム(富山県)が95%とされました。千頭ダムは源流が南アルプスで地形が非常に急峻なため、土砂が流れ込みやすいのです。実際、同じ大井川水系の長島ダムは、2002年に完成したものの、わずか14年で堆砂率36%となっています。
長島ダム
こうしたダムへの対処方法は、従来、何もありませんでした。たまったヘドロを流すと海が汚染されてしまうため、放置しておくしかなかったのです。しかし、最近、徐々に堆砂の排出技術が実用化されています。佐久間ダムでは排砂トンネルを建設し、宇奈月ダムでは「フラッシング排砂」が行われています。
ダムの世界は、意外に日々進化しているのでした。
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本邦「治水」1600年史
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沖縄「巨大蓄電池」を見に行く
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史上最大の「土木計画」を見に行く
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幻の「利根川」巨大開発
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東京ー那須「幻の大運河」計画
制作:2017年7月2日
<おまけ1>
戦前、日本人が外地で建設した巨大ダムは2つあります。旧満州の吉林市にある豊満ダム、中朝国境の鴨緑江にかかる水豊ダムで、ともに重力式コンクリートダム。ちなみに台湾の烏山頭ダム(ロックフィルダム)も名高いですが、完成は1930年とやや古いです。
豊満ダムは終戦時に未完成でしたが、日本人技術者が現地に残って完成させました。長さ1110メートル、高さ91メートル。現在も「中国水電の母」と呼ばれています。
水豊ダムは、1941年から発電を開始。長さ900メートル、高さ106メートル。「朝鮮の産業革命」といわれる戦後の工業発展の原動力となりました。
<おまけ2>
参考までに書いておきますが、現在のダムの権利関係は以下のようになっています。
・国が建設する多目的ダム(特定多目的ダム法)→事業者は「ダム使用権」
・地方自治体の多目的ダム(河川法)→事業者は費用負担に応じた「所有権」
・水資源機構の多目的ダム(水資源機構法)→事業者は「取水権」
<おまけ3>
ダムの楽しみ方はダムカードだけではありません。ダムを模したダムカレーもあるので、ぜひ食べてみてね!
みなかみダムカレー